新型コロナウイルスに感染したかどうかを検査すべきかどうかについては、大きな議論があり、方向としては重症化しない限り検査しない方向で収まりつつあるように見える。ここでいう検査とはPCR検査のことを指している。
新型コロナウイルスに対する検査としては、このPCR検査に加えて、抗体検査(血清検査)がある。ある程度の正確さを持った抗体検査を開発して大量に行えるようにすれば、新型コロナウイルスに対する対策が抜本的に変わるかもしれない。
イギリスでは、ジョンソン首相が抗体検査を「ゲームチェンジャー」と呼んでおり、政府が350万個の抗体検査キットを発注したとされる[1]。経済学と疫学の専門家の共著としてVOXEUで発表されたコラム(日本語版はこちら)でも経済活動を再開させる上で抗体検査とPCR検査の併用が重要であることが強調されている[2]。
PCR検査と抗体検査の違い
新型コロナウイルスのPCR検査は、鼻腔(びくう)や喉を綿棒でこすって採取した粘液を使ってウイルスの有無を検査する。粘液の採取は専門家が行う必要があり、感染の危険を伴う。これに対して抗体検査は指などから少量の血液を採取する。自分でも採血はできるので感染の危険は少ない。
PCR検査は、今この瞬間に体内にウイルスがあるかどうかを調べる。このため、今この瞬間に他人にうつしやすいかどうかはわかるが、過去にかかったどうかはわからない。これに対して、抗体検査は、症状が発生してから数日しないと陽性にならないが、症状がない場合であってもいったん感染すると陽性になるので、過去にかかったかどうかがわかる。過去にかかった人は、他の多くの感染症の例を踏まえると、少なくとも1年や2年はかからないことが想定され[3]、これが正しければ、当面の間は人にうつすことも人からうつされることもなくなる。いろいろと調べた結果を以下の表にまとめておいた。
PCR検査(ウイルスを検知) | 抗体検査(感染による血液中の抗体を検知) | |
---|---|---|
目的 | 今かかっているかを調べることが中心。 | 過去にかかったことがあるか(免疫があるか)を調べることが中心。 |
採取法 | のどの奥から専門家が採取。 | 採血する。自分でもできる。 |
結果判明までの時間 | 長い(その場ではわからない) | 短い(その場でわかる) |
精度 | まあまあ良い | PCR検査よりは悪い |
免疫の有無の判定 | 現時点で感染しているかどうかしかわからない | 既にかかったかどうか(≒感染しにくい、人にうつしにくい)ことがわかる |
検査の従事者の感染の危険性 | ある | ほとんどない |
なぜ抗体検査はゲームチェンジャーと呼ばれるのか?
PCR検査よりも精度が劣るとされる抗体検査が、なぜゲームチェンジャーになりうるのだろうか。
第一に、新型コロナウイルスに過去に感染したかどうかがわかることにより、多くの人々が抱く不安感を解消できる。今後は咳や熱といった症状があっても医療機関を受診せず検査も行わずに自宅で待機することが求められるようになると思うが(そうしないと院内感染・医療崩壊を招く)、そうすると新型コロナウイルスにかかったがどうかはわからなくなる。仮に新型コロナウイルスにかかったとすれば、症状が回復すれば当面の間はうつしたりうつされたりしないことが期待できるが、違った病気(たとえばインフルエンザ)であれば、引き続き新型コロナウイルスにさらされるリスクがある。抗体検査を受けられれば、このような不安感を解消できる。
第二に、いったん新型コロナウイルスに感染したことが判明すると、その人々は仕事に安心して復帰できることになる[2]。うつす心配もうつされる心配もなくなるためだ。感染者との接触の多い医療関係者や、感染すると重症化しやすい高齢者と接する介護関係者、人との接触の多い業務の従事者ではこのメリットは大きい。感染予防のために隔離に近い状況に置かれた高齢者が子供や孫と再び接することができるようにもなる。
第三に、この検査の普及により、国民のどの程度の割合が感染しているかが正確にわかることが挙げられる[2]。残念ながら、今の検査方針では、本当にどの程度の国民が新型コロナウイルスに感染したかがわからない。国民全体から数千人を選んで抗体検査を受けてもらえば、国民のどの程度の割合が感染を経験したかがわかる。私がデータを扱った調査でも、中高年者縦断調査や消費動向調査にはこのようなノウハウがある。人口全体からの代表性を確保した調査を定期的(たとえば週1回)に行えば、どの地域で感染が進行中かどうかわかる。また、感染しても症状がない人々がどれくらいいるかわかる。
今は、正確な感染者数などの基本データがわからないために、新型コロナウイルスが季節性インフルエンザよりも大変なものなのかどうかもわからず、そのような危険の程度もわからない感染症のために社会と経済を危険にさらしていると、影響力のある研究者が現状の対応を強く批判している[4]。信頼できる抗体検査を大量に行えるようになれば、こうしたことがわかるようになる。つまり、新型コロナウイルスを「見える化」できるということになる。
もしもいきなり国民全体の検査をするのが大変であれば、どこかの地方公共団体に協力してもらって住民に抗体検査を提供するのも一案だ。実際にこのような取り組みがアメリカのコロラド州の小さな町で行われていることが報告されている。
いくつかの課題
抗体検査については課題も多い。
1つ目は新型コロナウイルスにいったん感染したら免疫ができて当面は感染しなくなると言えるかどうかだ。これは過去の感染症の経験に基づいているので、新型コロナウイルスにおいては証明されていない。私の知る限り、唯一の研究はサルについて行った実験で、いったん新型コロナウイルスにかかって回復したサルがもう一度かかるかどうかを検証したところ、かからなかったというものだ[5]。
2つ目は抗体検査がどの程度信頼できるかがよくわからないことだ[6]。世界中の多数の企業が争うように抗体検査キットを開発しており、また、オープンソースとして抗体検査の方法を公開した研究者もいるのだが[7]、精度まではわからない。もっとお金を投入して、感染症の専門家では手が回らなければ、医療統計学の専門家にも参加してもらってどの程度使えそうかを評価してもらえないだろうか。
3つ目は大量生産の可能性だ。イギリスでは350万個の検査キットを注文したそうだが、信頼できるキットをそれだけの大量な数だけ生産できるかどうかはよくわからない。
4つ目はいきなり市場に投入した場合の混乱だ。妊娠検査薬のように簡単に買えるようになって、実際に陽性になった時に、病院に殺到するような反応が起きるのは避けたい。公的な管理の下で、陽性と判断されて症状がもはやない人々には「感染お墨付き証明」みたいなものを出せるといいのかもしれない。この点については、DewatripontらはPCR検査と併用してPCR検査が陰性で抗体検査が陽性の人だけが仕事に戻ることができるようにすべきだと指摘しているが[2]、そうするとPCR検査のキャパシティによる制約が生じたり医療機関の負担が増えたりする。抗体検査が陽性になって症状がない状態が数日続いたら働いてもいいとするなど別の対応法を模索する方がいいように思う。
5つ目は感染者が膨大だとわかった時の国民の反応だ。私は正直に伝えるべきだと思うが、驚く人も多いだろう。ただ、感染者数が多いことは死亡率が実は低いことを意味するので、むしろ安心材料かもしれない。上述したように一部の地方公共団体で試験的に導入するのがいいかもしれない。
6つ目は、新型コロナウイルスが指定感染症になっていることとの関係だ。検査が大規模で行われれば陽性の人は増える。そうすると届け出や入院といった話になって医療機関の負担の増大が生じるかもしれない。ただ、蔓延している新型コロナウイルスを指定感染症として扱うことが問題なのかもしれず、そのことをレビューすべきなのかもしれない。
おわりに
新型コロナウイルスの蔓延が進む中で、抗体検査は数少ない希望のように思える。希望が実現することを願っている。