金融緩和と住宅ローン市場の統計

宇南山 卓
ファカルティフェロー

アベノミクスの開始から5年が経過した。賛否それぞれにさまざまな立場あるが、家計消費の停滞が大きな課題であることはコンセンサスになっている(注1)。アベノミクスが消費の増加に結びつかない原因はいくつか考えられるが、日本の住宅ローン市場の構造がその1つである可能性を指摘したい。

近年の先行研究で、景気回復に住宅ローンの借り入れ世帯の消費動向が大きな影響を与えていることが指摘されている(注2)。住宅ローンを抱える世帯には、消費意欲は強いが手元の流動性が不足するために消費ができない「借入制約」に直面する世帯が少なくない。そのため、金融緩和によって金利が下がれば金利負担が軽減され可処分所得が増加し、消費を増加すると考えられている。

アベノミクスでは「3本の矢」の第1の矢として「大胆な金融政策」を継続して実施しており、2016年からはマイナス金利まで導入している。それにもかかわらず、日本では先行研究が確認されているような消費刺激効果が得られていないように見える。日本の住宅ローン市場の特殊性が、その原因となっている可能性があるのだ。

「優遇金利」の仕組み

そもそも住宅ローンの金利は低下しているのであろうか? 住宅ローン金利といっても、その実態は多様である。なかでも、住宅ローンの契約パターンには「固定金利」と「変動金利」が存在することは良く知られている。固定金利型の住宅ローンは、契約後(の少なくとも一定期間)は、契約時に決まる金利水準が適用される。一方、変動金利型の住宅ローンは(原理的には)借り入れ期間中も適用金利が変化する契約である。金融緩和の効果があるとすれば、変動金利型に注目すべきであろう。

変動金利型の住宅ローンは、多くの場合、企業向け融資の「短期プライムレート」に1%程度のスプレッドを乗せたものを「店頭表示金利」と呼び、金利を変動させる基準としている。この店頭表示金利はいわば「定価」のようなもので、実際に借り入れする時に適用される貸出金利はそこから一定の「割引」をした「優遇金利」である。

優遇金利とは、契約時に店頭表示金利との差である「優遇幅」が与えられ、契約後は店頭表示金利から優遇幅分だけ低い金利が常に適用される仕組みである。2001年に東京三菱銀行が「ゼロ金利実感キャンペーン」として導入したのが最初と言われている。当初は期間限定の顧客獲得策のような位置付けであったが、現在では恒久的な制度として定着している。

優遇幅は、借り手の信用力ではなく、多くの場合に形式的な用件(借り入れる金融機関のクレジットカードを保有する、定期預金口座を開設するなど)だけで幅広く適用される。すなわち、実際に適用される金利は、短期プライムレートと店頭表示金利の間の差と、店頭表示金利と優遇金利の差の2つのスプレッドの合計で決まるのである。

優遇金利と金融緩和

最終的に適用されるのが優遇金利であるなら、店頭表示金利には意味がないように思われる。しかし、店頭表示金利そのものを低下させることと優遇幅を拡大することには決定的に違いがある。それは、優遇幅の拡大では既存の住宅ローンの借り手には金利低下の恩恵が及ばないことである。優遇金利は新規に借り入れをする際に決定され、契約後は優遇幅が固定されているため、いったん借り入れをすれば店頭表示金利が変化しない限り既存の借り手の適用金利は下がらないのである。

実際の金利動向を見ると、この違いは決定的に重要である。短期プライムレートは、バブル景気のピークである1990年頃には8%を超えていたが、1995年頃から1.5%前後まで低下しその後はほとんど変動していない。そのため、店頭表示金利も過去20年近く2.5%前後で推移している。

これは、金利が「下限」に張り付いていた実務上の「ゼロ金利制約」であるように見える。すなわち、住宅ローン市場での金利の硬直性は「金融政策の限界」だと結論付けたくなる。しかし、依然として住宅ローン金利は資金の需給を調整する機能を保っている。変動金利の優遇金利は最新の情報を各種Webサイトで確認すれば、0.4-0.5%まで低下していることが確認できる。つまり、住宅ローン市場での「金利の低下」は店頭表示金利の低下はでなく、優遇幅の拡大という形態で実現しているのである。

この構造が「大胆な金融政策」の消費への波及経路を阻害している可能性がある。優遇幅の拡大で新規貸出金利がいくら低下しても、既存の借り手の可処分所得の増加を通じた消費刺激効果は期待できないからだ。固定金利型の住宅ローンについては、金利変動が実際に支払う金利に影響しないことは自明である。金利変動リスクを回避している以上、金利低下の恩恵を受けられないことは当然の帰結である。しかし、変動金利ですら「優遇金利」という仕組みのため、金融政策の効果が住宅ローン市場まで波及しないのである。

もちろん、既存の借り手が低金利の恩恵を受ける方法がないわけではない。それは「借換」により「新規の借り手」になる方法である。また、借換をしなくても、金融機関との交渉次第では「条件変更」という名目で実質的に低い金利に転換する可能性もある。いずれにしても、何らかのアクションなしには低金利の恩恵は享受できないのである。

ゼロ金利政策の評価と住宅ローン市場の統計

ここまで述べた住宅ローン市場の構造は、消費の回復を阻害している可能性は十分にある。しかし、問題の大きさを実証的に評価することは極めて困難である。住宅ローン市場の実態、特に金利に関する情報が、統計的にほとんど把握できないからである。

金利低下によって住宅ローン返済の軽減ができる家計がどれほどいるのかを知るためには、適用金利別に貸出残高を知ることが不可欠である。さらに、全員が自動的に低金利の恩恵を受けられるわけではないため、金融政策の「浸透度」を測ることも必要である。そのためには借り換え融資の規模も必須の情報である。理想的には、個々の貸出の契約形態(固定金利なのか変動金利なのか等)や借り換えの履歴まで必要となる。しかし、現状では、住宅ローンに適用されている平均的な金利を知ることすら困難である。

アベノミクス、特に「大胆な金融政策」の評価をしようとすれば、こうした統計の現状は早急に改善すべきである。それなしには、既存の借り手が金利低下の恩恵をどれだけ享受しているのか、追加の金利の引き下げ余地がどれほどあるのかを評価することはできないのである。

脚注
  1. ^ たとえば、吉川洋・山口広秀「アベノミクス5年(中) 消費回復へ将来不安払拭を」2017/12/1付日本経済新聞「経済教室」を参照
  2. ^ たとえば、Wong (2016),Di Maggio, Kermani, Keys, Piskorski, Ramcharan, Seru, and Yao (2017), Beraja, Fuster, Hurst, and Vavra (2017)などを参照。
文献
  • Beraja, Martin, Andreas Fuster, Erik Hurst, and Joseph Vavra (2017) "Regional heterogeneity and monetary policy," NBER Working Paper No. 23270.
  • Di Maggio, Marco, Amir Kermani, Benjamin J Keys, Tomasz Piskorski, Rodney Ramcharan, Amit Seru, and Vincent Yao (2017) "Interest rate pass-through: Mortgage rates, household consumption, and voluntary deleveraging," American Economic Review, 107 (11), 3550-3588.
  • Wong, Arlene (2016) "Population aging and the transmission of monetary policy to consumption," Available at https://econpapers.repec.org/paper/redsed016/716.htm.

2018年1月19日掲載

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