はじめに
オリバー・ハート教授が、2016年度のノーベル経済学賞をベント・ ホルムストロム教授とともに受賞された。ハート教授の研究業績について詳細な解説を行う力量を国際経済学者である筆者はもちろん持ち合わせていない。本稿は、ハート教授の研究が国際貿易研究に与えた影響について簡潔な紹介を試みたい。
企業理論
Coase (1937) やWilliamson (1985) によって企業理論は構築されてきた。それらの理論は、市場取引における取引費用の存在や限定合理性などによって、企業が存在する理由(企業の境界)を明らかにしようとするものであった。こうした企業理論の系譜の中にあって、ハート教授の共著論文、Grossman and Hart (1986) は、2つの企業が1つの企業として統合することの是非(便益と費用)を明らかにする画期的な理論を構築した。
Grossman and Hart (1986) の理論は、たとえば、自動車製造企業が自動車部品企業を子会社として統合するのがよいのか否かといった問題への答えを与えるものである。部品企業は、自動車製造企業のために特別の製造ラインを構築して、特殊な部品を製造しているとする。その部品を用いて自動車製造企業は自動車を販売し、収入を得る。その部品を得られなければ、自動車製造企業は自動車を製造できないので、収入を得られない。部品企業は、部品を買ってもらえなければ、やはり収入を得られない。
このように企業間の相互依存性が高い場合に、最終財企業が部品企業を統合して子会社にすべきか否かという問題を、ナッシュ交渉解を援用して、Grossman and Hart (1986) は分析した。部品会社が子会社であれば、契約が十全ではない(「契約が不完備」であると文献ではいわれる)ために、何らかの原因で部品会社社長との事後の交渉が決裂しても、部品を得ることができるが、子会社でなければ、部品を得られなくなる。そうした点では、子会社化には利点がある。ただし、子会社化すれば、子会社の利益の取り分が減ってしまうため、子会社のやる気を削ぐ欠点がある。Grossman and Hart (1986) に基づけば、基本的には、最終財企業の最終的な生産への貢献割合が大きいほど、部品企業を統合する魅力が大きくなることを示せる。
企業理論に基づく企業内貿易の理論
以上のような企業理論への財産権アプローチ(property rights approach to the theory of the firm)と呼ばれるGrossman and Hart (1986) の研究について、20年前であれば、国際貿易の研究者は勉強する必要はなかった。しかし、2000年代に、アントラス教授の画期的な論文、Antràs (2003) が、企業理論を国際貿易理論の中に取り入れたことで、企業理論の知識が現代の国際貿易を理解する上で不可欠であることが明らかになった。
現代において、多くの企業が国境を越えて活動している。多国籍企業は、国境を越えて自社内で貿易を行っている。また、企業間の取引も国境を越えて行われている。Grossman and Hart (1986) の企業理論は、ある一国内において、最終財企業が部品企業を子会社化するか否かを分析していた。それに対して、Antràs (2003) は、ある国の最終財企業が別の国にある部品企業を子会社化するか否かを分析した。そのために、Antràs (2003) は、Grossman and Hart (1986) の理論をHelpman and Krugman (1985) の新貿易理論の枠組みに統合した。
「企業組織と貿易理論」と呼びうる、この新しいアプローチによって、現代の国境を越えた企業活動、とりわけ企業内貿易を分析する端緒が開かれた。最終財企業が海外にある部品企業を子会社化した場合は、企業内貿易(intra-firm trade)が生じる。最終財企業が海外にある部品企業を子会社化しない場合は、企業外貿易(arm's length trade)が生じる。Antràs (2003) によって、企業理論に基づいて、企業内貿易を理解できるようになったのである。
Antràs (2003) は、現実の企業内貿易を理解する突破口になった。アメリカにおいては、資本集約度の高い産業において、また資本集約度の高い国との間で、アメリカの企業内輸入のシェアが高い。Antràs (2003) は、この事実もHelpman and Krugman (1985) の2生産要素を考慮した新貿易理論の枠組みを用いて、理論的に説明した。
外国生産委託の理論
現代の世界では、1つの製品に複数の国の複数の企業が関わるため、外国生産委託 (foreign outsourcing) を理解することが重要となっている。アメリカのアップル社のiPadが、日本や韓国、台湾の部品を用いて、中国で組みたてられていることはよく知られた事実である。また、Antràs and Helpman (2004) の論文では、アメリカの車の付加価値の30%は韓国、17.5%は日本、7.5%はドイツ、4%は台湾とシンガポール、2.5%はイギリス、1.5%はアイルランドとバルバドスに由来し、37%のみがアメリカで生み出されているという世界貿易機関による分析が紹介されている。
先進国の最終財製造企業にとって、途上国の外国企業に生産委託する方法と途上国の子会社で自ら生産を行う方法と2つの選択肢がありうる。この2つの選択肢の比較衡量は、基本的には、Grossman and Hart (1986) やAntràs (2003) が考えた最終財企業が部品企業を子会社化するか否かという問題の分析と同じである。
ただし、同じ産業でもアップル社のように外国生産委託を積極的に活用する企業もあるが、途上国で自社生産行う企業もある。では、どういった企業が外国生産委託を選択するのか。この問題に、Melitz (2003) の新々貿易理論を援用することでAntràs and Helpman (2004) は答えた。Antràs and Helpman (2004) は、Antràs (2003) の理論とMelitz (2003) の新々貿易理論を統合して、一定の条件のもとで、途上国の子会社で自ら生産を行う方法を選択するよりも、途上国の外国企業に生産委託する方法の方が生産性の低い企業にとっては有利であることを示した。その理論予測は、Tomiura (2007) によって実証されている。
終わりに
本稿は、Grossman and Hart (1986) の企業理論によって、いかに国際貿易の理解が深まっていったのかを主な研究に絞って紹介した。図1は、企業理論を踏まえて、「企業組織と貿易理論」が形成された過程を図示したものである。現在では、企業理論を国際貿易に応用する研究は数多い。その詳細は、Antràs and Rossi-Hansberg (2009) やAntràs (2013) などの展望論文において解説されている。企業内貿易や外国生産委託、中間財の貿易や国際価値連鎖(global value chains)といった現象を企業レベルで理解するうえで、企業理論が理論的な指針を与えるものであることを最後に指摘しておきたい。