日本の職場の多くにとって健康診断は年に1度のイベントである。健康診断を労働者に受診させることは事業者の法的義務となっており、罰則はないが労働者の責務ともなっている。従業員の健康診断の受診率の向上は、健康経営を行っているかどうかの1つの目安にもなっているようだ。
健康診断の効用は議論の余地のない当たり前の話のようにも思えるが、実際のところはどうなのだろうか。以下ではいろいろな文献を調べた結果を報告したい。
1. 健康診断のエビデンス
健康診断の最大の効用が何なのか、人によって意見は分かれそうだが、多くの人々に共有されそうなのは寿命が延びることだろう。結論を先取りすると、これについてのエビデンスは存在しない。
投薬や健康診断など医療を巡る諸活動についてのエビデンスを巡る検証をするに当たって、最も正確な評価を行えるのはランダム化比較試験であり、複数のランダム化比較試験の結果を統合したメタ解析が医療における最も信頼のできるエビデンスだとされる[1]。健康診断については、エビデンスに基づく医療を推進する国際NGOであるコクラン共同計画がメタ解析による検証を行っている[2]。これはコクランレビューと呼ばれる。ここでいう健康診断は、元々の症状がない人々を対象にしてリスク要因を探し出す検査を行う形態を指す。
このコクランレビューによれば、元々の症状がない人々を対象とした健康診断には総死亡率を減らす効果はなく、また、がんや循環器疾患による死亡率を減らす効果もないとされた。このコクランレビューは、総死亡率については9件のランダム化比較試験、がんと循環器疾患については8件のランダム化比較試験に基づく大規模なものとなっている。ただ、このコクランレビューに対しては、対象となるランダム化比較試験の大部分が実施された時期が1980年以前であり、その後の医療の進歩、特に、高脂血症の治療薬であるスタチンの登場を反映していないために問題があるという批判がある[3]。
2014年に新たなランダム化比較試験の結果が発表された[4]。虚血性心疾患の予防を目的としたInter99と呼ばれるこの研究はデンマークで行われたもので、5万9616人が1万1629人の介入群と4万7987人の統制群に分けられた。介入群の人々に対してのみ健康診断の受診案内が送られ、それに応じた人々には健康診断が行われ、不健康な生活習慣のある人々には、禁煙やダイエットや運動についてのアドバイスが行われた。必要に応じて、医療機関への紹介も行われた。10年間のフォローアップの結果、虚血性心疾患や脳卒中の発生率、総死亡率のいずれにおいても、介入群と統制群の間で有意差はなく、健康診断を生活習慣の改善指導と組み合わせた取り組みの有効性に疑問を呈する結果となった。
以上の結果を見ると、健康診断には寿命を延ばすエビデンスがないことになる。
2. なぜエビデンスが示されないのか
健康診断の効果がはっきりと示されないのはなぜだろうか。1つ目の事情として、健康診断の受診者の年齢層の幅が広く、もともと死亡や大病のリスクの少ない人々が主な対象になっていることが考えられる。
2つ目の事情として、健康診断の仕組みを作っても必ず受診するとは限らないことが挙げられる。たとえば、上記のInter99の場合、受診の案内を出した人々のうち、実際に受診した人々の割合は52.4%で、後述するイギリスの健康診断では受診者の割合は30%だった[5]。
3つ目の事情として、健康診断で問題が発見されても、それが生活習慣の改善などの予防策に結びつきにくいことが挙げられる。大病に結びつく4つの生活習慣として、喫煙、過度の飲酒、食習慣、運動不足があるが、これらの問題の改善のためのアドバイスがうまくいかない場合が多いことが指摘されている[6, 7]。ほとんどの人が思い当たる節があると思うが、実際には、わかってはいてもやめられない場合が多い。
4つ目の事情として、健康診断によって問題が発見されて、仮にそれが医療機関の受診を必要とするものであったとしても、100%が受診するわけではないことが挙げられる。後述するイギリスの健康診断の場合、診断の結果として心疾患のリスクが高いと判断された人々のうち高脂血症の薬による治療を実際に受けたのは19%にとどまった[5]。
5つ目の事情として、健康診断で発見されることが多そうな高血圧や高脂血症に対する投薬治療の効果が限定的なことが挙げられる。たとえば、高脂血症に対するスタチンという薬による治療について、コクランレビューでは、スタチンによって総死亡率が14%減り、脳卒中が22%減るという結果になっている[8]。年齢層の低い人々だと元々の死亡率や重大な疾患の発生割合が低いので、投薬によってこれらの割合を減らしても、統計学的に見れば効果はあるということになるものの、種痘が天然痘を撲滅させたような劇的な効果はない。
以上の事情が作用すれば、理論上は健康診断が寿命を延ばしたり心臓疾患や脳卒中を予防したりする効果があるとしても、ランダム化比較試験による検証では、被験者数がよほど多くない限り、統計学的に有意な結果は出にくそうである。
3. イギリスで起きた論争
エビデンスに基づく医療の発祥の地であるイギリスで、ランダム化比較試験による明確なエビデンスがないままに、2009年から健康診断が新たに開始された。2009年に開始された健康診断制度では、心疾患を予防するために、40〜74歳で、心疾患や糖尿病の既往症がない人々に対して、5年に1度の健康診断が行われ、リスクの高い人々には、行動変容をサポートしたり治療を行ったりすることとされた[5]。
このイギリスの健康診断については論争が起きた。上記のコクランレビューなどを根拠として、健康診断に医療関係の資源を投入するのは無駄だという主張が提起された[9-12]。その一方で、高血圧や高脂血症の投薬治療の効果があることなどを理由に健康診断には意味があるという主張も展開されている[3, 13, 14]。
今のところイギリスの健康診断を巡る論争には決着は着いていなさそうだ。傾向スコアマッチングという手法を使った分析によると、統計的には有意な効果があるものの、医学的には穏やかな(clinically mild)効果しかなかったとされている[15]。この分析はランダム化比較試験でないため限界があるが、完全に制度が始まってしまった以上、ランダム化比較試験を行うのは難しそうだ。
4. 健康診断と医療費
これまで見たところによれば、健康診断については、その効果を肯定するエビデンスはないので、医療資源を有効活用するためには、健康診断制度を廃止することも1つの考えなのかもしれない。ただ、もう1つの大きな論点として、効果の問題は別として、健康診断をやめるとかえって医療費が増加するのではないかということがある。1つの仮説として、健康診断をやめた結果、病気が重くなるまで放置され、医療費が巨額になることがある。また、健康を維持する上で健康診断を受けることが重要だと思っている人々が多くて、法的制度としての健康診断がなくなっても自主的に健康診断を受ける人々が増えて、医療費が増えてしまうかもしれない。その一方で、健康診断がなくなれば、高血圧などの診断を受けることがなくなって医療機関への受診が減り、医療費が減少するかもしれない。
結論を先に述べると、健康診断の効果がわからないのと同様に、医療費への影響もよくわからないようだ。
日本の研究で、中年の勤労者を対象としたものでは、頻繁に健康診断を受けている人々の医療費は健康診断を受けた回数が少ない人々に比べて少なかった[16]。一方、1988年の健康診断制度の拡充前後の医療費を比較した研究では制度拡充後に医療費が増大したとしている[17]。高齢者を対象とした健康診断では、健康診断を受診している人々は医療費が少なかった[18]。ただ、これらの研究はランダム化比較試験によって厳密に比較したものではなく、どこまで信頼していいかがよくわからない。健康診断を受診していない人の方が医療費が大きくなる傾向がありそうだが、頻繁に病院通いをしている人々は医療費が多い一方で、医療機関でチェックしてもらえるために健康診断を受けないという逆の因果関係があるかもしれないなど、結果の解釈には注意が必要になる。
計量経済学の研究で、操作変数法という手法を用いて、オーストリアの健康診断が医療費を増やすかどうかを検証した研究があった[19]。これによると、健康診断は短期的には医療費を増加させ、中期的には外来患者の医療費を減少させ、長期的には有意な変化は見られず、全体としては健康診断が医療費を増加させるという結果になっている。但し、年齢がより低い層(概ね60歳以下)では健康診断により医療費が削減するかもしれないとしている。
日本でも、操作変数法や傾向スコアマッチングなど、計量経済学で使われるような高度な手法を用いると、健康診断を受診するか否かが医療費にどのような影響を及ぼすかについての因果関係がある程度わかってくるかもしれない。ただ、私個人の感想を述べると、これらの手法はランダム化比較試験のようなシンプルな研究デザインと異なって、私も含めた一般人の理解を超える。専門家の研究だから信じろと言われてもなかなか納得できないところがある。信頼できるエビデンスとして安心して活用できるようにするためには、中立的な第三者に同じデータで分析してもらって同じ結果になるかどうかを確かめるなどの対応が必要かもしれない。
5. 終わりに
健康診断が寿命を延ばすか、また、医療費の削減につながるかについては、以上述べたとおり明確なエビデンスが存在しない。エビデンスがないというのは効果がないということではなく、わからないということだ。理想的には、時間はかかるものの、現在は健康診断受診の法的義務がない人々に多数参加してもらって、健康診断を受診する人々と受診しない人々をランダムに分けて、数年後の差を見るランダム化比較試験を行うのが望ましい。そうすれば、エビデンスに基づく医療政策の実現に向けた大きな一歩になる。