消費性向と乗数効果
今年1月の参議院予算委員会における、菅直人・財務大臣と自民党の林芳正・前経済財政担当相との質疑が注目された。民主党の景気刺激策の効果を巡り、経済学を用いて白熱した議論が展開された。政治の場で経済学に基づく議論がされたことは率直に歓迎したい。ここでは、これを奇貨として、民主党の進める「家計に対する補助金政策」の効果について、経済学の研究動向を踏まえて論じたい。
家計に対する補助金政策とは、「定額給付金」や「子ども手当」のように政府から家計に現金を支給する政策である。教科書的なケインズ経済学に基づけば、こうした補助金政策には、家計消費を増加させ、景気を刺激する効果がある。
支給された補助金のうち「消費される部分の割合」を示すのが「消費性向」であり、最終的な結果として増加したGDPと支給された補助金との比率が「乗数」である。補助金を支給すれば7割程度は消費される、つまり消費性向は0.7程度であると考えられている。家計消費が増加すれば、有効需要の原理から所得は増加し、さらに消費を増加させる。その波及効果によって、支給された補助金以上のGDP増加効果がある。消費性向が0.7であれば乗数は2.3程度と考えられる、つまり補助金の2.3倍のGDPの増加を生む計算となる。たとえば、2兆円の定額給付金なら、1兆4000億円が消費され、最終的に4.6兆円のGDP押上げ効果があると考えられてきたのである。
新しいマクロ経済学と景気刺激効果
それに対し、家計が将来のことも考慮して消費を決定していることを明示的に考慮した「新しいマクロ経済学」は、補助金政策には景気刺激効果はないと指摘している。補助金を国債発行によって賄うのであれば、国債償還のために将来の増税が予想される。すなわち、合理的な家計にとって補助金政策は、将来の増税とセットであり、一時的な所得の変動を生むだけの政策となる。その場合、家計は将来の国債の償還に備えて補助金を貯蓄してしまい、補助金の「消費性向」は0となる。消費が変化しなければ、もちろん景気を刺激する効果もない。
こうした政策効果に対する評価の違いは、ケインズ経済学と新古典派経済学の「消費関数論争」として知られ、1970年代後半から議論されてきた。しかし、もはや経済学の主流は新古典派に基づく「新しいマクロ経済学」となりつつあり、議論は尽くされたようである。多くの経済学者は、補助金政策の景気刺激効果に懐疑的で、教科書的なケインズ経済学に基づいて政策を評価することは時代遅れであると考えている。
2周遅れの政策論議
しかし、事態はそれほど単純ではない。1990年代後半から、より洗練された手法で不況時の減税や補助金政策の消費刺激効果が検証されてきたが、多くの実証研究でそれらの政策の消費刺激効果が認められている。アメリカにおける、2001年のITバブルの崩壊や2008年のリーマンショック後の減税政策の消費性向は0.2から0.4程度であったことが確認されている(Johnson, Parker, and Souleles, 2006; Shapiro and Slemrod, 2009)。この水準は、内閣府の調査による定額給付金の消費性向の推計値0.33と同水準である(内閣府, 2010)。
さらに、そうした実証的な観察をサポートする理論的な背景も整備されている。伝統的な経済学のアプローチから派生した「予備的貯蓄」の理論や、人間の不合理性を考慮に入れた行動経済学的なアプローチによって、人々が将来を考慮していても消費が刺激されるメカニズムが解明されつつある。
つまり、経済学のフロンティアでは、家計に対する補助金政策が一定の消費刺激効果を持つことが認められており、「新しいマクロ経済学」の次のステージに入りつつあることを意味している。言い換えれば、日本における標準であるケインズ経済学は、周回遅れではなく2周遅れの議論なのである。
幸か不幸か、最新の研究の政策的インプリケーションは、新しいマクロ経済学より教科書的なケインズ経済学に近い。その意味で、日本における政策の評価は正しい方向を向いている。しかし、たとえば、行動経済学的な理論を前提とすれば、定額給付金のように一度限りの支給と子ども手当のように定期的な支給では、支給総額が同じだとしても景気刺激効果は異なる。こうした違いを的確に分析するには、理論的・実証的な発展も取り入れることは不可欠である。
もちろん、世界的に見ても、学問的な先端研究が実務に影響を与えるには一定の時間的ラグが存在する。しかし、少なくとも2周遅れになる前には、政策論議のあり方も進化する必要がある。