イラク戦争を契機に経済情勢の不透明さが増し、「危機に際して構造改革で経済を弱体化させてはならない」という主張も出てきた。しかし、政治の場において「構造改革」の中味は明確ではない。研究者の言葉遣いと、政治の現場で通用する言葉には落差があるからである。政策論争における用語を整理しておかないと、政策が実現する過程で、政策提言が全くゆがめられた結果をもたらすことがある。いまや構造改革の中味を分けて、具体的な改革のシンボルをいくつか持つことが必要ではないか。
構造改革の中味は明確か
「構造改革」は確かに便利な言葉で、「大規模な改革で日本がよくなる」というイメージを惹起することもあれば、「外国の手先が日本を改造しようとする陰謀」のイメージを持たれることもある。政治家が基盤とする通俗的レベルにおいては混乱があるといえよう。
経済の専門家の間で、構造改革といえば、公的部門の経済に占める比重が高くなりすぎたので、それを是正する改革であるとか、あるいは生産性の低い部門を無理に支えるのをやめ、生産性の高い部門に資金や労働力を移動させる政策である、という合意があるかも知れない。
しかしそれでは、たとえば小泉首相が強調していた、財政再建のために国債の新規発行を抑制する方針は、そのまま構造改革といってよいのだろうか。不良債権処理のために公的資金を投入することは、財政を悪化させるから、構造改革に反するのだろうか。必ずしもそうはいえないだろう。構造改革がまさに「構造」改革なのは、事態が複雑で、単線的な論理で簡単には語り尽くせないところにある。
論理的整合性を持った政策体系の必要性
不良債権の処理にしても、公的資金の導入と金融機関の淘汰を掲げる主張がある一方、他方では地価や株価を上げることによって解決するという主張もある。こうした主張を、正しいか間違っているかだけで議論していると、どちらの主張にも賛同者が出て、政策的にいつまで経っても解決しない。
そこで、どちらかをやってみて、間違っていたらやり直すということも政治の世界では重要であるが、その前提として「どちらをやっているのか」が明らかでなければならない。ところが現実には、主張内容が政策にきちんと翻訳されることは少ない。先の不良債権の例で、日本政府がどちらの政策をとってきたのかを総括するのは容易ではない。それぞれの主張者は、政府が相手方の主張を取り入れたので、問題が解決していないのだというであろう。
このように政策パッケージは論理的整合性を持つ必要があるものの、それを政治の場にあげ、さらに個別政策に具体化する過程では、政治力学や行政組織の論理に強く影響される。その結果、政策の提案者が目指した目標と矛盾する結果がもたらされることも少なくない。
「分析における簡潔なモデル志向」と「政治における敵味方論理」
そこで政策の柱を明確に示すべきだということになるが、問題はどれぐらい単純化すべきかである。政策立案のために分析しようと思えば、どうしても物事を単純化し、いわば簡潔なモデルに押し込めることが不可避である。それ自体は批判されるべきではないが、多くの分析モデルが、一定の制約条件のなかで成立するものであるならば、現実に当てはめるときには、制約条件に充分に自覚的である必要があろう。しかし「こうなれば、ああなる」「別の場合はこうだろう」などという説明は、まどろっこしくてアピールしないから、通常は結論だけが述べられる。
それだけならば問題は簡単であるが、政策提言は、出された瞬間に政治性を帯びる。この世界では、どうしても「敵-味方」関係を排除することができない、というよりも、その原理をもとに成立している。そうすると単純化された政策提言の結論だけが一人歩きを始め、モデルの制約条件や、さらにモデルの中味などはどうでもよくなる。そうなってくると、政策の中味は担いでいる人の立場に即して、勝手に解釈されてしまう。
インフレ・ターゲット論が、「頑迷に構造改革を掲げて経済を悪化させる小泉政権」への批判のために用いられたり、逆に日本銀行がインフレ・ターゲットをとらないことが財政出動への期待を高め、構造改革の障害になるといって、構造改革への支援策にされたりするのは、この政治力学による。
「利害によって対立する政策」と「正しさによって対立する政策」
こうした単純化によって、とるべき政策の選択肢が不明確になるのを防ぐには、「利害によって対立する政策」と「正しさによって対立する政策」を区別してゆくことが有効である。つまり利害によって政策が対立する契機を明示することで、逆に政策を選択する際の、現状に関する共通認識をつくるのである。政策にはコストがかかる、そのコストを明示すれば、ある程度利害対立の図式はえられよう。
もちろん共通認識としてインフレが望ましいという合意があっても、インフレ・ターゲット政策が有効かどうかには、正しさのレベルで意見の相違がある。しかしこれは、正しいかどうか実験するリスクをとるかどうかの議論に変換されるべきであろう。そして手段がないからデフレを甘受すべきだという意見を組み合わせて、比較検討されるべきで、もし政策が有効でなければ続くデフレへの備えも必要になる。こうすれば正しさのレベルの争いは二者択一にはなっていかない。
策論争の補助線を引く
山岸俊男教授の「信頼と安心」の対比は、現代日本の社会システムに関する利害対立をよく表しているが、それを政治的に翻訳する時には、社会システムが安心から信頼へと必然的に移行するというよりは、信頼と安心の競争によって、社会を政策で変化させてゆく側面に着目する方が望ましい。(この点については、「信頼創造型の政策体系を求めて」参照)
そうした社会システムをめぐる競争状況は、政党や政権をめぐる政治的競争に置き換え可能であり、民主政治の機能発揮のための必要条件となるからである。それには政策における「正しさ」の領域の議論を特定領域に限定し、「利害対立」の領域を広げていかねばならないだろう。
そこで政策論争に使われる言葉を整理して、いわば「政策論争の補助線」をつくる必要がある。筆者はさまざまな領域の専門家にインタビューを続けて、政策論争の背後にある「ものの考え方」「価値観」を探っているが、それはこうした補助線を引くための基礎作業である。インタビューもずいぶんたまってきたので、その記録をネット上に公開し、経済政策論争における「正しさ」と「利害対立」との関係を整理しながら、具体的な改革シンボルの名前を付けてみたい。乞御期待。