ステークホルダー型企業の黄昏?-ドイツと日本の比較-

JACKSON, Gregory
研究員

昨今、日本では法改正が盛んに行われているにもかかわらず、ステークホルダー(利害関係者)重視という日本型コーポレートガバナンスをどう再構築すべきかは定まっていない。また、資本市場や国際的投資家からの改革の圧力は増している。株主価値の最大化を目指すアメリカ型ガバナンスを推奨する意見が根強い一方で、この方式には株主以外のステークホルダーの権利を軽視しているという批判もある。問題は、細部に潜んでいる。どうしたら株主の利益と従業員などのような株主以外のステークホルダーの利益を効果的なガバナンス制度の中で一致させることができるのだろうか。ここで、日本の経験を日本と同様にステークホルダー重視のドイツ型コーポレートガバナンスと比較することが有効となる。

どちらのガバナンス形態が望ましいか?

コーポレートガバナンスについての考え方は、過去20年で大きく変わった。1980年代、従業員、銀行、またはサプライヤーといった株主以外のステークホルダーのコーポレートガバナンスへの参加が長期的な投資、信頼、協力、そして大きな経済的成果をもたらしたという点で、日本とドイツはともに優れた企業統治モデルとしてもてはやされた。一方、米国と英国のモデルは短期成果主義、企業買収、人員削減、所得格差など、さまざまな問題を抱えているとされた。

しかし、90年代は米国経済が強かったため、米国型経営に対する批判は弱まった。国際的な議論の流れはアングロ-アメリカン型こそ優れた企業統治の基準と見なすようになった。株主価値は投資家たちのスローガンとなった。ダウンサイジングと企業資源の分配が非効率な経営者帝国への処方箋と目された。さらに、資本・労働の自由化が新たな成長産業への効率的な資源配分をもたらす、という主張がなされた。一方、日本は成長が鈍化し、世界のハイテク業界における急速な革新のなかで日本の大手企業は四苦八苦していた。他の多くの国々でも株主利益重視の方向へと改革がなされた。経済協力開発機構(OECD)や証券取引所ほか、さまざまな利益団体によって発表された自主的な企業統治規範が国際的に出回るようになった。こうした急速な広がり、そこから生まれる新たな規範圧力と制裁の脅威を背景に、アングロ-アメリカン型企業統治が唯一無二の国際基準モデルであるかのような覇権的な地位を築くに至った。

新たな10年に入った今、ニューエコノミーバブルがはじけ、エンロンやワールドコムを巡るスキャンダルが米国型モデルに影を投げかけている。問題の根幹は、経営者は株主価値を推進するための強力なインセンティブを与えられるが、その一方で現存する企業はほとんど、経営の説明責任をそのために必要な手段を構築・実行することによって確実に果たすような体制にはなっていということだ。たとえば機関投資家は市場における情報収集と投資戦略に関しては専門化(投資の引上げ)しているが、個別企業の内部のことについて監視機能を発揮することはほとんどない。実際、多くの残された問題は、グローバルスタンダード、説明責任、透明性、独立、株主価値といった米国型企業統治のキャッチワードの下に潜んでいる。

こうした問題や疑念が日本におけるアングロ-アメリカン型企業統治への曖昧な態度を助長している。しかし日本には、かつてのステークホルダー型企業統治に戻るという選択肢も残されていない。国際化・自由化の圧力の下、このモデルを支えてきたさまざまな特徴はすでに失われてしまったからだ。とりわけメインバンクが果たしてきた監視機能は深刻なまでに弱まり、企業の説明責任という点で大きな隙間が残された。

日独のステークホルダー型企業の比較

株主重視の米国型モデルとの対比において、ともにステークホルダー型企業統治を有する日本とドイツにはいくつかの共通点がある。主な類似点は
(1)特定の企業に強くコミットし、戦略的利益を重視する株主が存在する。こうした安定株主の存在により、市場が企業を自由に支配することが制限されている
(2)銀行はガバナンスの中で中心的な役割を果たし、企業が資金を外部調達する際の重要な資金供給者となっている
(3)企業の意思決定において従業員の意見が反映され、そのことが従業員に企業「市民」としての企業への忠誠・一体感を支えている。このことは比較的長い就業年数、景気に左右されにくい雇用という特徴に反映されている
(4)経営者は、高品質製品市場、高度技能を持った労働者の雇用、安定的な組織間の関係構築を目指す戦略をとることで、以上のようなステークホルダーの仲介者としての働きをする。管理者のキャリアはほとんどが彼らの企業内部固有のものであり、戦略的業務と日常業務運営の区別があまり無い。

双方ともノンリベラル(非自由的)なモデルということができる。いずれの場合も、制度上、資本・労働の市場化が制限され、生産要素としての資本・労働の動きが硬直的かつ非流動的になっている。それに対して、ステークホルダーは、投資先企業に対し強くコミットし、その企業が長期的に繁栄するため、保有株を売却せずに発言権を行使する。資本市場も労働もはるかに流動的で、経営者はひたすら株主価値の創出に専念する米国とは対照的だ。

以上に述べた類似性にもかかわらず、日本とドイツにおけるステークホルダーの役割は、下記のようにかなり違うものになっている:
(1)ドイツにおいては、所有権は家族や縦型の巨大複合企業(コンツェルン)のようなブロックホルダーと称される株主によって集中的に保有される傾向がある。これに対し、日本の系列グループによる所有は、株式持合いを通してより拡散したかたちになっている。
(2)ドイツのユニバーサルバンクは貸出、大口株式の保有、取締役会における発言、委任投票権の行使等を行う。一方、日本のメインバンクは貸出しや株式持合いを通した関わりを持つが、取締役会への関わりや委任投票権の行使という側面における役割は小さい。
(3)ドイツにおいては、労働者の経営参加(共同決定)は、経営協議会における情報・協議・共同決定に関する権利を定めた制度において明確に法的権利として与えられている。従業員はまた、経営会議の3分の1から2分の1の議席を保持し、他の株主とともに経営陣の任命・監視に携わり、ビジネス上のアドバイスを提言し、重要な戦略事項の決定に関わる。日本における従業員の経営参加の権利はより弱く、制度化されたものではない。
(4)ドイツにおける労使関係は、あまり個々の企業に依存していない。業界横断的な組合が経営者の団体と業界で統一的な団体交渉による協約を結ぶため、賃金は業界内においては企業の枠を越えて概ね同じ水準で、年齢より職種にリンクしたものになっている。従業員研修についても、広く一般に認知されている職業プロファイルによって規格化されている。日本においては、団体交渉、賃金および研修は、いずれも企業単位で決められ、企業内労働市場の細分化を助長している。
(5)ドイツでは、取締役会は二層構造であり、経営に対する監督および助言的役割を持つ「経営会議」と経営自体を行う「執行会議」の役割が法的に分割されている。多くの社外役員を含む「経営会議」により大きな権限が与えられている。日本では、経営に対する監督および助言の機能は主に法定監査人に求められるのであろうが、法定監査人は経営陣を任命・免職する権限を持っていない。

図1 ステークホルダー型企業統治の制度的基盤の相違

以上に述べた相違点は、ドイツにおける「法治企業」と日本における「企業共同体」という言葉で表すことができる。ドイツでは従業員と資本家の発言権は公共の関心事項であり、政治を通して支えられている。企業は、社内の多くの統治機能を業界団体や社会保障制度へと外部に広げ、社内での意思決定に対する強い法的権利を通して社会的利益を内部に取り込んでいる。日本においてはステークホルダーの発言権は緊密な社内相互依存関係に左右される傾向が強い。たとえば、安定株主が株式持合い関係から脱却することは容易ではなく、従業員の会社に対するコミットメントは年功序列賃金や各企業で固有の技能習得という制度によって助長されている。このように法治型と共同体型の違いは、水平的な「階級」と垂直的に分割された「企業」の双方の利益とアイデンティティがどれだけ違った法的強制力を持つか、または相対的に重要かという違いとも考えられる。

このような相違は果たして問題なのか? 図2は、ドイツ、英国、日本の大手20社のパフォーマンスについていくつかの指標を示している。ドイツと英国を比較すると、株主の投資収益率はほぼ同様に高い水準にあることが1つめの指標グループからわかる。にもかかわらず、2つめの指標グループを見てみると、英国企業の方がその規模に比較してはるかに高い市場評価を得ている。このような市場評価の差異は、3つめの指標グループに示されるように、ドイツ企業と英国企業の実際の経済活動パターンの相違、つまりドイツ企業は低い収益性に甘んじながら市場における地位を確保し、英国企業の2倍以上の従業員を抱えている、という点に反映されている。これらの違いは、「低い市場資本化と高雇用」および「高い市場資本化と低雇用」がそれぞれ同じような限界資本収益率を生み出す並行的均衡状態として捉えることができる。対象的に日本企業の場合、高雇用と中レベルの市場資本化の結果、株主投資収益率が驚くべき低さで、非均衡状態にあると思われる。

図2 大手20社のパフォーマンス(2000年平均)

「株主価値」向上への遠い道のり

ドイツと日本の"国内的・非自由的"なモデルは今、ますます"国際的・自由的"な方向に進む経済秩序のなか、高まる緊張にさらされている。こうした圧力のもと経済パフォーマンスの新たな課題が提示され、経済力と説明責任の関係が変わりつつある。ドイツと日本はこのように同様の課題に面しているが、両国におけるステークホルダー型企業統治に対する元々のアプローチの違いが、それぞれの企業が国際資本市場と株主の圧力という同一の課題に対応する上で重要な結果をもたらしている。

ドイツ企業は1990年代半ば以降、株主価値向上のための手法を広範に取り入れた。機関投資家や外国投資家による企業所有の上昇、銀行の統治機能の低下に見られるように、資本市場圧力は大幅に増大した。さらに、ボーダフォンによるマンネスマンの敵対的買収は、極めて巨大なドイツ企業でさえ新たに生まれつつある企業コントロールの市場の前では無力であるという、警鐘を鳴らした。企業法の改正により、株主議決権が強化され、国際会計基準の理解が進んだ。また経営者ストックオプション、自社株買い戻し、企業分割、非多角化など、株主価値向上を目指した措置が認められるようになった。

しかしながら、ドイツ企業統治の実状は相変わらずアングロ-アメリカン型統治とは一線を画している。資本は確かに市場主義的になったものの、最近の展開を見ていると比較的弱い、あるいは「賢明な」株主価値に根ざしたハイブリッドな企業統治が生まれつつあるように思える。ドイツの労働組合は企業価値向上措置を条件付で容認したが、投資家と利益を分け合う上で、経営の説明責任を向上させるか階級闘争を減らすかという本質的な部分を「共同決定」する際、強大な影響力を発揮した。従業員は一般的に、自らの経営参加を増すためにも透明性、すなわち経営の説明責任の改善を支持する。組合も役員報酬には多大の関心を持っており、取締役会における共同決定権を使って、従業員のモラルを低下させるような過度の所得格差の是正し、および誤った短期インセンティブを排除しようとした。さらに、経営者ストックオプション制度を受け入れることで、従業員ストックオプション制度を要求する手段を獲得した。

株主価値パラダイムとは長期的な株主利益の追求を意図するものであるが、現実は、投資家・経営者ともに極めて短期的な視野に立たざるを得ない。近視眼的な戦略の結果、富がゼロサム(勝者と敗者)式にステークホルダーに再配分されることがある。ステークホルダーの間でポジティブサム(勝者と勝者)の関係が成立するかどうかは、長期的戦略を重視するより短期的に株主を喜ばせたい経営者を労働者がいかに説得し、急激な人員削減、合併または企業分割を思いとどまらせることができるか、にかかっている。短期的なコスト削減やバランスシート上の小細工に頼るより、むしろ生産性を高めることで業績目標を達成できるかもしれない。あるいは、(たとえばコアコンピタンスへの集中等の理由で)リストラが不可避で、企業分割が実施される場合、労働者側は「優良な」買い手(たとえば、最高値入札者よりもむしろ優良な雇用主になる意志をもった買い手)に買収されることを求め、働きかけることができる。こうした手法は、たとえ短期的な投資収益が犠牲になる場合でも、株主の長期的な利益と両立し得る。この場合、労働者は資本市場の要請に応えるための行き過ぎた短期的合理性の誘惑を阻止する「有益な制約」としての機能を果たしたといっていい。政治についても同じことがいえる。ドイツの労働組合は、EUの企業法制の枠組み内で従業員による共同決定権の保護を求めるロビー活動について批判的な立場をとっている。

もちろん、株主価値は巨大企業の従業員にとっては痛みをもたらすかもしれない。企業は人員削減圧力にさらされており、国内における雇用創出への貢献度は将来的に低下すると予想される。しかし、こうした圧力が存在する限りにおいて、労働者が強力な役割を果たすことによって、企業再編に伴う階級闘争を軽減し、株主重視型企業統治の潜在的なポジティブサムを引き出すことができるかもしれない。

日本に比べてドイツは、このアプローチを追求するために必要な素地に恵まれているようだ。ドイツの法治企業モデルは、すでにある法的強制力を持った制度を契約化し、個別企業のニーズに合わせて仕立てかえることによって株主価値に対応することができる。このようにステークホルダー間の交渉の結果生まれる新たな制度は、法的なチェックアンドバランスを通して比較的安定した足がかりを得るかもしれない。同様に、業界団体は、労働協約を変更する上で個別企業により大きな裁量権を委譲するかもしれないが、最低基準の向上と実施を推進し、労働者側の譲歩を小さくする上で引き続き効力を発揮する。ドイツの手法では、ステークホルダーに法的制度や企業外部の団体における権利が認められているので、市場との関係で必要な独立性・透明性の概念とステークホルダー間の交渉に基づく統治のあり方を比較的たやすく調和させることができる。

日本の企業共同体においては、企業外部における類似の制度的メカニズムはそれほど構築されていない。近年の法改革によって、株主重視の経営手法をかなり柔軟に用いることができるようになったものの、説明責任の明確化に結びつくような真のチェックアンドバランスの強化はほとんどなされていない。市場は、かつての銀行と産業の依存関係は崩壊させ、株主圧力を増大させ、さらなる労働流動化を要求している。しかし、日本の制度は、政治的に構築された"権利"と責任というより、むしろ相互補強的な企業別の"コミットメント"に深く根ざしているため、このような市場圧力に対する解放をなかなか受け入れることができずにいる。市場プロセスは今こうして、日本型モデルの根幹を揺るがし、企業経営者や主要な従業員を中心とするインサイダー集団は依然として変化への抵抗勢力となっている。最悪の場合、企業経営に対するチェック機能はますます働かなくなり、組合は企業がますます若い世代に対して門戸を開かなくなったという課題に直面している。

説明責任の強化に向けて

ドイツのケースは、ステークホルダー型モデルが資本市場圧力に効果的に対処し得ること、さらに従業員の強い発言力がより「賢明な」株主価値を追求する新たなハイブリッドモデルの構築に貢献さえし得ることを示している。一方、日本は変化に対し脆弱なままだ。株主価値圧力は日本の企業共同体の黄昏を示しているということだろうか? 建設的にドイツの教訓を学ぶことで、日本はまだ前に進めるかもしれない。たとえば、企業共同体の定義を広げ、ステークホルダーの権利と責任をより公共なものにすることも可能だ。アングロ-アメリカンパラダイムの先を目指すことで、日本企業のステークホルダーを長期的に保護するだけでなく、企業の説明責任の水準を向上させることができるかもしれない。

本コラムの原文(英語:2002年10月1日掲載)を読む

2002年10月1日

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2002年10月1日掲載

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