インターネット:新しいマスメディアとしての可能性

安延 申
コンサルティングフェロー

過日、石原東京都知事とITビジネスに関わる数名の若手、古手の産業人と食事をする機会を得た(他の人の格調高いコラムに比べ、お前はいつも飯の時の話ばかりだと叱られそうだ)。この食事会は、ITにあまり関心をお持ちでなさそうな都知事に、この分野の最新の動きを知って貰おうとブレーンの一人が企画したらしい。しかし、その場で印象に残ったのは、参加者の中でも若い二人が、「インターネットは、新しい文化を創る」と熱弁をふるっていたのに対し、「そうかねぇ…?」と終始、懐疑的な態度を崩さなかった知事の姿である。

「インターネットは新しい文化だ」などと軽々しく口にしてはいけない?

知事自身は「ITビジネスは、経済的には無視できない影響があるというのは分かるので、ベンチャーの振興などは一生懸命やる」と仰っていたから、IT自体を全否定するということではないらしい。彼が不機嫌だったのは、「インターネットは新しい文化だなどと軽々しくいうな」という理由のようである。

考えてみると、現都知事が世に出た頃のような活字文化の時代には、「人々に自分の創りだした情報を発信する」というのは、とんでもない才能とエネルギーを必要とした筈である。川端康成や内田百聞など、昭和初期の作家の随筆や、伝記、評伝の類を読むと、次に出る短編の出版権を約束する代わりに、出版社に数カ月の旅行の費用を出して貰ったといった話がしょっちゅう出てくる。短編小説一本で別荘を買ったといった話もあったような気がする。これは、「活字による情報」の需要に供給が追いつかず、活字情報にそれだけの価値があったということであり、また、その狭い供給ルートに乗せて貰える人=活字による情報発信を許されていた人は、ほんの一握りの選ばれた人だったということなのだろう。

この状況は、ラジオやテレビが登場した後も、それほど大きな変化があったわけではない。基本的に1対nのメディアである活字やラジオ、テレビなどは、情報発信のために大きな初期費用を必要とする。したがって、メディアはこの初期費用をカバーするために、「極めて良質で、長く人々に受け入れられるようなコンテンツ」か、「とりあえず多数の人が喜びそうな大衆受けするコンテンツ」を選ぼうとする。そのための選別プロセスを勝ち抜くことは容易ではなく、多くの人は、情報発信をあきらめざるを得なかった。逆に、この関門をくぐり抜けた人々は、「時代の文化を担っていくのは俺達だ」という、自負と誇りを持っていたであろう。

翻って、インターネットを通じた情報発信について考えてみると、ちょっとパソコンがいじれれば、普通の「個人」であっても大新聞、大出版社、大放送局などにも匹敵し得る情報発信が可能になる。もっといえば、パソコンなど殆ど使えなくても、一応、自分から情報発信できる場もある。「2ちゃんねる」とか「Yahoo!」の掲示板などは、これに当たるだろう。これらのサイトを見る人は、一日何万人、何十万人もいる。ひょっとすると自分の書き込んだものを数万人の人が目に留めるかもしれないのである。そう思って毎日膨大な数の人が、こうした場に書き込みをしていく。悪い言葉でいえば、情報の垂れ流しに近い。「垂れ流しが文化である」といわれても、活字時代の人は、認めたくはないだろうし、都知事の不機嫌の原因もこのあたりにあったのだろう。

低コスト&大量の情報発信「場」としてのインターネットの価値

しかし、視点を変えて、インターネットは、低コスト&大量の情報発信の「場」そのものに価値があると捉えると、全く異なった評価の仕方も可能になるような気がする。わざわざ情報を選び、加工し、それを発信するために膨大なコストをかけなくても、勝手に情報が集まり、公開されていくのである。それは、おそらく、新聞や書籍、放送のような「厳選された、貴重な情報の発信・受信の場」としてのメディアではないかもしれない。しかし、見る人が見れば、非常に貴重な情報の集積場であり、「検索エンジン」といった技術の進歩が、こうした「情報集積場」としての価値を更に高めてきている。こういう風に考えれば、インターネットは、幾つかの意味で、従来のメディアと全く異なる貴重なメディアになる可能性があるようにも思われる。

1つには、情報の即時大量発信、大量受信という「量」という意味で貴重である。世の中の人が、何故、朝のニュースやワイド・ショーを見てから出勤するかといえば、おそらく、「世の中の動きに遅れたくない」という程度の気持ちからで、そこに貴重な情報、ずっと保存しておきたい情報があると考えている人は多くはないだろう。こういった「情報の大量消費」のためのメディアとして捉えれば、インターネットはとんでもなく優れている。しかも、従来型のメディアと異なり、多様な検索エンジンといった優れた利用ツールまで開発されている。

先に述べた「2ちゃんねる」は、今や日本最大の掲示板サイトとして、知る人ぞ知る存在になっているが、ここで得られる情報は、極端にいえば、「殆どゴミ」である。にも関わらず、一日のページ・ビューは、1500万を超えるといわれている。この数字は、ネット上の全てのサイトでベスト5に入る数であり、しかも、上位は「Yahoo!」や「Nifty」といったポータル・サイト、1サイトでの滞在時間は「2ちゃんねる」に比べると遙かに短い。この数字と、堺屋前IT担当大臣が「日本のインターネットを変える」と豪語して数十億の経費と膨大な人員を投じて開始し、ページ・ビュー上位サイトには表彰まで行い、また日本を代表するような企業や自治体がこぞって参加した、インパク(インターネット博覧会)を比べてみると、後者のページ・ビューは、ほぼ同時期にわずか100万/日程度にすぎなかった。なぜ、「2ちゃんねる」にこれほどアクセスが集まるのだろう? おそらく、ここにアクセスする人達は、ここで得られる情報が「大量のゴミ」であることは知っている。ただ彼らは、この大量のゴミの中に、ほんの少しの、自分にとっての「宝」を求めているのだろう。「発信者に情報の選別と編集などして欲しくない。自分で自分が欲しい情報を探せばよい」と思っているからアクセスするのではないだろうか。つまり、「無選別な情報のストック場所」としてのインターネットに価値を見いだしているのである。

現在存在するインターネット・メディアは、従来の活字メディアや放送メディアと同じような選別と編集の手法を取り入れているものが殆どである。つまり、「自分たちが情報を選び、磨き上げて人々に届ける」というやり方である。しかし、この手法は、所詮、従来のメディアの延長線上にすぎない。それであれば、新聞や週刊誌、TVの方が、よほど情報のまとめ方も手慣れており、しかもハンディである。この延長線上にはインターネット・メディアの将来の発展方向はなく、これがネットメディア苦戦の1つの大きな理由ではないのだろうか?

少数派の意見をすくい上げるメディアとしての価値

もう1つの重要な価値は、「個々の情報発信コストが低いが故に、大衆に媚びる必要がない」ということではないか? 私事で恐縮だが、インターネット・マガジンの類に連載を2つ持っている(片方は、もう終了したが)。
http://win2000.nikkeibp.co.jp/column/yasunobe/back/index.shtml
http://www.cafeglobe.com/news/miti/
個人的には、こうしたネット・マガジンを1つの実験の場と捉えて(特に後者)、世の中で一般的に語られ、思われていることの、「裏」を見るような考え方―たとえば、小泉・田中ブームの真最中に、前外相の行動に疑問を呈してみたり-を敢えて行ってみた。そうした時の逆風たるや相当なもので、特に、実名で発表したものだから、個人攻撃にさらされることも時々あった。ヒネクレ者を気取るのも精神的には疲れるなと痛感させられたが、しかし、よく考えれば、これもインターネットだからこそ可能だったのかもしれない。まず、マスに受け入れられなくてはならない一般マスコミであれば、とてもこんな意見は採り上げられなかった可能性が高い。日本は、大新聞の売り上げが1000万前後にまで上り、放送関係では、とにかく「視聴率」をかせぐのが至上命題であるという、ある意味でマスメディア大国である。しかし、こうした環境の下では、「少数の見方」、「少数の意見」は黙殺されがちであり、金太郎飴的な「メディアの建前としての意見」が支配的になりがちである。、場合によっては「マスメディア共産主義」のような、いびつな状況を創り出す可能性すらある。「○○バッシング」と称されるような事態は、その一例かもしれない。だからこそ、インターネットというメディアは、貴重な意味を持ってくる。前述した「2ちゃんねる」、或いは「Yahoo!」などの掲示板のページを見ると、そこで交わされている議論が、世の中でいわれていることと大きくかけ離れていることも、しばしばある。別にこうしたサイトの肩を持つわけではないが、こちらでの議論の方が真実に近いという場合もある筈である。ひょっとすると「マスに媚びる必要のないメディア」としてのインターネットの価値は非常に大きいのではないだろうか? ただ、現在までのところ、こういった意味でユニークなメディアの可能性を感じさせるサイトが「2ちゃんねる」くらいしか存在しないというのも寂しい話である。もっと多様な試みが行われても良いはずなのだけれど、やはり、まだ我々の発想が従来型のメディア発想から抜けられていないということなのだろうか。

考えてみれば、独立行政法人というのもインターネットメディアと似たような立場にあるのかもしれない。政府の「無謬原則」という、訳の分からない幻想に縛られて、今までの霞ヶ関では、「政策を客観的に評価する」ということは、容易ではなかった。しかし、「独立行政法人」というのは、このくびきを超越できる貴重な存在になり得る。拝見していると、RIETIも所長以下、権威に媚びるなどということとは無縁の方が多いようでもあり、このRIETIホームページがメディア的な建前にも、また、政策的な建前にも拘束されない、新しい情報の発信ツールとなることを期待したいものである。

2002年4月30日

2002年4月30日掲載

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