リサーチインテリジェンス

行動経済学の光と影 期待過剰は信頼失墜もたらす

広野 彩子
コンサルティングフェロー

2002年にノーベル経済学賞を共同受賞した心理学者で米プリンストン大学名誉教授だったダニエル・カーネマン氏が3月27日、90歳で亡くなった。行動経済学を切り開いたことで世界的に著名な研究者だった。

米ジャーナリストのマイケル・ルイス氏は、カーネマン氏を世界的な「人間の間違いについての権威」と表現する(1)。米国で行動経済学のコンサルティングに携わる研究者、相良奈美香氏がたたえるように、その研究は人の意思決定に対する社会の理解を根本から大きく変えた(2)。

ルイス氏によると、ユダヤ人であるカーネマン氏は、第2次世界大戦時の壮絶なホロコーストを命からがら生き延び、幼い頃から誰も信じてはいけないと教えられていた。自分の記憶さえ信じなかった。「14歳という年齢にして、ダニエルは少年というよりも、少年の体に閉じ込められた知識人だった」。ルイス氏は、カーネマン氏の友人のこんなコメントを紹介している。

カーネマン氏は1969年にイスラエルのヘブライ大学で開かれたセミナーで心理学者の故エイモス・トベルスキー氏と出会い、「人間の直感はうまく統計を扱えるか」をテーマに討論し、一連の研究を始めた。2人は互いに長い間統計を教え、使ってきた専門家であるにもかかわらず「自分たちの直感があまり上等ではない」と結論づけた(3)。そして74年に科学学術誌「サイエンス」に直感的な思考のバイアスを共同研究した論文を発表し、一世を風靡したのである。

プロスペクト理論を提唱

さらに79年には、人の合理性を前提とする経済学の期待効用化理論を修正した「プロスペクト理論」を発表し、研究者としての地位を不動のものにした。この研究にあたり、カーネマン氏とトベルスキー氏は、ポートフォリオ理論を切り開いたハリー・マーコウィッツ氏(ノーベル経済学賞受賞者)の言葉「効用は富の状態ではなく富の変化から得られる」からヒントを得たという(4)。効用とは、すなわち満足度のことである。

プロスペクト理論は、経済学で最も権威があるとされる学術誌の一つ『エコノメトリカ(Econometrica)』に共著の査読論文が掲載されただけでなく、同誌に掲載されたものの中で歴史上最も引用されている論文として知られる(5)。経済学者や政策当局に対して、心理学を踏まえた分析の重要性を気づかせた功績は極めて大きい。

2002年のカーネマン氏らのノーベル経済学賞受賞をきっかけに、当初は「行動心理学」「経済学と心理学」などと呼ばれ、正式なジャンル名すらなかったアプローチが「行動経済学(Behavioral Economics)」として市民権を得て、大いに発展した。行動経済学をさらに社会に身近なものへと進化させたのが、カーネマン教授と数多くの研究を共にしている経済学者、米シカゴ大学経営大学院のリチャード・セイラー教授だ。

セイラー教授は心理学を経済学の枠組みに本格的に取り込み、仕組みや働きかけなどを通じて人の意思決定をそっと後押しする「ナッジ理論」でキャス・サンスティーン氏と共著を出版し、行動経済学を一気に普及させた。ナッジは社会課題の解決につながる行動変容を促すツールとしてとりわけ人気である。

セイラー氏は筆者らが取材した折、カーネマン氏がセイラー氏を評した言葉を話題にしていた(6)。「(カーネマン氏いわく)『リチャードの一番の長所は怠惰なこと』だと。なぜかは分かりませんが、それが『褒め言葉だ』とも言う。『本当に重要なことだけ一生懸命やるから』だと」

セイラー氏はカーネマン氏と1977年に米スタンフォード大学で出会い、経済を理解する上で役に立つ心理学の理論的な枠組みについて知見を得た。カーネマン氏はセイラー氏との共同研究を振り返り、キャリアの初期に経済学の主流である数学的な研究をしなかったセイラー氏が、終身在職権のある教職を得られないのではないかと心配したという(7)。

「中身も外見もゾンビ」

行動経済学はカーネマン氏が後進も育成しながら発展させ、現代の政策やビジネスに活用されている。だが米国ではここ数年、有名な研究の再現性が「追試」によって疑問視されたり、一部の大物研究者にねつ造疑惑が発覚したりして不名誉な注目の浴び方をしている。

米国で行動経済学に対する疑問が公言されるようになったのは、1人のビジネスパーソンのブログがきっかけの1つだった。「悪いニュースがある。行動経済学は死んだ」「生きているように見えるが、中身も外見もゾンビなのだ」(8)――。2021年、そんな刺激的なブログ記事で行動経済学批判に火をつけたのが、当時米ウォルマートで、行動経済学も含む「行動科学」をビジネスに応用する部門の立ち上げにかかわったジェイソン・フリハ氏である。

フリハ氏は実務を通じて、セイラー氏が生み出したナッジの効果や、カーネマン氏が生み出したプロスペクト理論の中核的な概念の一つ「損失回避」(人が報酬より損失の方を大きく感じられること)などの再現性に疑問を持ち、ブログで率直に疑問を呈した。筆者の取材に対し「行動経済学には、行動変容を起こすツールとして世間から実力以上の過剰な期待がある」と指摘した。

米ウォルマートの行動科学研究のトップであるジェイソン・フリハ氏のこうした批判に対してセイラー教授は「(フリハ氏の)ブログ記事の内容は、行動経済学には関係ない」と問題にしない。だが一方で「心理学には『再現性の危機』(実験結果の再現が難しい、またはできない)という問題がある」と述べ、直接的な言及は避けつつ問題のある研究が存在することを認めた(9)。

セイラー氏が示唆したのは、行動経済学の分野で著名なイスラエル系米国人の米デューク大学教授ダン・アリエリー氏や米ハーバード経営大学院(HBS)の行動科学者フランチェスカ・ジーノ氏ら5人による共著論文だった(10)。

アリエリー氏は1996年に認知心理学、98年に経営学で博士号を取得。『予想どおりに不合理』『不合理だからすべてがうまくいく』(いずれも早川書房)などのベストセラーで知られる。カーネマン氏とも学生時代から親交があり、分野のフロントランナーの1人だった。だがアリエリー氏が共同執筆者に名を連ね、2012年に米国科学アカデミー紀要(PNAS)に掲載され政策やビジネスに大きな影響があったとされる共著論文が、撤回されたのである。

問題の論文は保険会社のデータを基にした共同研究だ。自動車保険の審査書類を書く時、冒頭で最初に署名することが道徳心を呼び起こし不誠実な報告を防げると結論づけた実験だ。実験で見られた「正直であることを意識してもらうように働きかけると、人々の回答はより正直になる」効果は、心理学でプライミング効果と呼ばれるものだ。だがカーネマン氏は生前、とりわけプライミング効果にまつわる研究に関して問題意識があり、追試などにより信頼性を確保するよう呼びかけていた。

アリエリー氏らは研究成果の再現を試みたが20年、「(署名の位置が正直さをもたらすという)12年の論文で述べた効果は再現できなかった」(11)と改めて論文を発表した。するとそれを受け、行動科学分野を中心に研究不正を追及している研究者有志が、両方の論文から元データを徹底的に検証。その結果21年8月、再現性どころかそもそもデータが大幅に操作されていたことが発覚したのである。12年の論文は同年9月に撤回された。

「再現性の確認は、実験時に特殊な条件があったかなどを厳密に精査すべき。ただし、ほぼすべての実験はゼロでない確率で再現できない可能性があるため、再現性のなさそれ自体は罪ではない。他方で、ねつ造や改ざんはいわば科学における犯罪で、全く次元が異なる話」。大阪大学社会経済研究所教授の行動経済学者、室岡健志氏は厳しく断言する。

筆者の取材に応じたアリエリー氏は、データの改ざんがあり(12年の)論文を撤回したのは「残念なことだが事実」と認めた。そして撤回論文でデータ分析や収集を担当したのがアリエリー氏だったのかと問うと、次のように主張した。

行動経済学への信頼揺らぐ

「それは断じてない。私はこの論文ではデータに全く触っていない。そもそも私は02~03年ごろから身体に障害があるために、あらゆる研究でデータを扱っていない」。アリエリー氏の役割は、保険会社に協力を求める折衝がメーンだったという。所属するデューク大は23年末、約3年かけたアリエリー氏の過去すべての研究についての調査を終えたとし、「『不適切な研究はなかった』と結論を出している」。

アリエリー氏は撤回された論文の調査結果を踏まえて再現を試み、署名の効果が重要だと改めて示す論文を24年4月2日に新たに公表。また、米国時間の24年4月17日に自身のウェブサイトで現在の心境を綴った。「この数年、(2012年の論文の)どこが悪かったのか、1日に何度も自問してきた」「私は当時、信頼する仕事仲間と協力しながら期待にこたえ、すべきことをした。(中略)全ての意思決定を鑑み、私は当時、最善を尽くしたと感じている」「社会の進歩と個人の成功は行動の総体に基づく。進歩の最大の敵は、間違いを恐れて何もせずに終わることだ」などとしている(12)。

とはいえ何もしないのと同じ程度に、やり過ぎも「敵」だ。最近の研究では、集団としての意見が個々人の考えよりも極端な方向に振れやすい「集団極性化」と呼ばれる「ノイズ(判断のばらつき)」があることが分かっている。カーネマン氏はこの点を挙げ、著書で「企業や政府における重要な意思決定の大半は何らかの合議を経て下されるのだから、こうしたノイズのリスクに細心の注意を払うことが必要である」と警告していた(13)。

アリエリー氏当人の過失は事実上不問となったが、研究グループによる暴走はその後、共著者ジーノ氏と関係者による、アリエリー氏が関与していない別の大がかりなデータ改ざん疑惑や盗用疑惑に発展(ジーノ氏らは疑惑を全面否定)している。人々の正直さを扱うプライミング効果に関する論文がウソにまみれていたというのは皮肉でしかない。後進たちの不届きな振る舞いをカーネマン氏は生前どのように見ていたのだろうか。

実装には慎重な構えが必要

カーネマン氏らが切り開き、ナッジを機に裾野が広がった行動経済学、そして行動科学。分かりやすい「ナッジ」以外のコンセプトの政策実装、ビジネス実装にも急速に注目が集まっている。だが、本稿で取り上げた「プライミング効果」のように、分野の専門家ですら間違えやすく、慎重な扱いが必要になる発展途上のコンセプトもままある。実践に当たっては、複数の専門家とともに先例の元データに当たり、成果が得られる前提条件とその限界を確実に掌握できるものだけ採用するなど、思い込みや期待過剰に陥らないための不断の努力が必要である。

(2024年4月18日付「日経ビジネス電子版」掲載記事に加筆修正)

参考文献
  • (1)マイケル・ルイス、『かくて行動経済学は生まれり』、文藝春秋、2017年
  • (2)相良奈美香、「最強の行動経済学者 ダニエル・カーネマン教授を悼む」、日経ビジネス電子版2024年4月11日配信
    https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00351/040200133/
  • (3)ダニエル・カーネマン、『ファスト&スロー』(上)、早川書房、2014年
  • (4)ダニエル・カーネマン、『ファスト&スロー』(下)、早川書房、2014年。ハリー・マーコウィッツ氏は2023年6月に亡くなった。同年6月23日にスレス・P・セティ氏執筆によるマーコウィッツ氏の半生を紹介する記事の翻訳を日経ビジネス電子版に掲載している。
    https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00508/061600019/
  • (5)室岡健志、「追悼 経済学に心理学を組み入れたダニエル・カーネマンの足跡」、日経ビジネス電子版2014年4月5日配信
    https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00351/040300134/
  • (6)広野彩子、『世界最高峰の経済学教室』、日経BP日本経済新聞出版、2023年
  • (7)John Cassidy, “The Making of Richard Thaler's Economics Nobel”, The New Yorker, October 10,2017
  • (8)Jason Hreha, “The Death of Behavioral Economics”, https://www.thebehavioralscientist.com/articles/the-death-of-behavioral-economics
  • (9)「セイラー教授(下)行動変容のカギは『信頼』日本人はナッジを警戒!?、資本主義の再構築とイノベーション再興」、日経ビジネス電子版2021年10月22日配信
    https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00363/101500005/
  • (10)L. L. Shu, N. Mazar, F. Gino, D. Ariely, M. H. Bazerman, Signing at the beginning makes ethics salient and decreases dishonest self-reports in comparison to signing at theend. Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. 109, 15197–15200 (2012)
  • (11)A. S. Kristal et al., Signing at the beginning versus at the end does not decease dishonesty. Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. 117, 7103–7107 (2020).
  • (12)Dan Ariely, “In Defense of Mistakes”, April 17, 2024, https://danariely.com/in-defense-of-mistakes/
  • (13)ダニエル・カーネマン、オリビエ・シボニー、キャス・R・サンスティーン、『NOISE 組織はなぜ判断を誤るのか?』(上)、早川書房、2021

2024年4月30日掲載

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