中国経済新論:中国の経済改革

国情、経済の法則と現行の土地制度

文貫中
米国トリニティ・カレッジ教授

米国トリニティ・カレッジ(Trinity College)教授。1982年に復旦大学経済学修士、1989年にシカゴ大学経済学博士。専門は経済発展論、国際経済学、アジア(特に中国)経済論。

「国情」とは

「国情」という言葉を定義することは難しいが、厳粛な概念であるべきで、特に中国の地理的条件、自然環境、人口の数と素質など経済発展に関連する要素が最も重要である。中国経済を順調に発展させるには、これらの要素、および中国を取り巻く世界と時代の特徴を深く理解した上で、中国の相対的に豊富な要素を十分に活用できる発展戦略を採用すべきである。そうすれば中華民族の真の復興を実現できる。このような考え方は、経済の法則に則ったものであるだけでなく、国情を正しくとらえている。国情を尊重するとは、まさに経済の法則を素直に尊重し、要素市場に残されたあるいは新しく生まれた様々な歪みを解消し、中国がもつ自然環境と人口面の比較優位を動態的に発揮させることである。

本当に国情を尊重し、大多数の民衆の福祉を考えるのであれば、まず労働集約型産業の発展が必要である。特に、都市化のコストを下げ、都市化を加速させることを通じて、労働集約型サービス業の発展を加速させるべきだ。雇用を促進し、農村の余剰労働力と人口を減らし、これにより農村に残った人たちが土地の集約化による繁栄を享受できるようにする。要素の相対価格が変化する時、つまり完全雇用の達成により賃金が上昇し、資本価格が相対的に低下する時こそが、経済が価格シグナルにしたがって資本集約型産業と技術集約型産業に全面的に移行する時期なのである。

他の東アジア経済は忠実にこの経済法則にしたがい、彼らの国情に見合った道を歩んできた。彼らは、三農問題[訳注:農民、農村、農業に関する問題]を解決しただけでなく、一人当たり所得が中国を大きく上回り、さらに雇用問題を解決した後に経済の高度化を実現したため、ジニ係数に反映される所得分配の不公平さは中国より遥かに低い。中国のジニ係数はすでに0.5に迫っているが、日本、韓国、中国の台湾地区のジニ係数は0.4を大きく下回っている。「国情」を尊重し、経済の法則を尊重するには、これら経済体の成功経験は学ぶに値し、無視せず真剣に学ばなければならない。

シンガポールは中国の手本にならない

しかし、いつの間にか「国情」の二文字に新しい意味と使い方が現れ、その意味と使用範囲が都合のいいように縮小または拡大されるようになった。「国情」という言葉と中国の地理的条件、自然環境、人口の数と素質、さらには歴史、文化とも、経済の法則とも無関係となってしまった。一例を挙げると、シンガポールを熱心に訪問、見学する中国の官僚や学者が増えているが、彼らは様々な省の出身で、それぞれの省の地理的条件や、自然環境、経済発展段階が異なる。しかし、まるでシンガポールだけが中国あるいは中国のすべての省が全面的に学習すべき対象であるかのようになっている。これについて私はとても不思議で、滑稽にさえ思う。

国土面積と人口数からみれば中国は世界の大国のひとつで、シンガポールは世界の小国のひとつである。地理的条件で言えば、中国は大陸国家で大半の地域が海岸線から遠く離れているのに対し、シンガポールは海に囲まれ、世界で最も交通量の多い航路をもつ世界レベルの港湾を擁している。発展段階の面では両国の差はさらに大きい。中国は解消しなければならない膨大な数の貧困農民を抱えているのに対し、シンガポールは三農問題に悩まされることがなく、もともとスマートな都市国家で、海運や金融、ハイテクでその名を世界中に馳せている。法制面では、中国は依然として法治の道を模索しているが、シンガポールは香港と同じようにイギリスの法律制度を継承し、廉潔かつ効率的な法治を行っている。歴史背景の面でも両国の間に大きな差異がある。中国は悠久の歴史を有する古い国であるのに対し、シンガポールは近代になってイギリスの植民活動によって誕生した若くて西洋化された国である。いくら考えても、両国の共通点は、華人を中心としており、民族と文化の面で多少相似していることだけである。だが、この面でも大きな違いがある。英語はシンガポールの公用語で、中国系と、シンガポールの総人口の4分の1を占めるマレー系とインド系の間のコミュニケーションのために使用されている。中国の公用語は「普通話」であり、英語が国語になることは不可能である。

両国の差異がこれほど大きく、対照がこれほど鮮明であるにもかかわらず、シンガポールを見習うことは中国の「国情」にふさわしい方法として定着しており、シンガポールへ現地視察に行く学者や官僚が後を絶えず、10年、20年経ってもその情熱は衰えていない。だが、シンガポールの台頭の経験に基づいて中国の経済発展を全面的に指導することは誤りであり、また、都市の繁栄の経験を以て中国の都市発展を指導することも中国の都市化を誤った方向に導くだけである。その理由は単純だ。シンガポールは広い意味で完全な社会ではない。農業がなく、農業社会から工業社会に移行する痛みを経験したこともなければ、貧困農民問題も抱えていない。シンガポールの町は、さわやかで清潔、きれいで、とても印象深い。だが、シンガポールの都市発展は、主として300万人の市民が絶えず自ら近代化し、進化する過程を反映している。巨大な農村人口を吸収、消化しなければならないという難しい課題に見舞われている中国の都市にとって、あまり参考にならない。

中国全体あるいは自分の所在都市をシンガポールのように治めることできると考えるのは幻想に過ぎず、三農問題を意図的に避けたいだけである。私から見れば、国情にふさわしくないばかりでなく、国情の中の最も重要な問題を意図的に避けているのであり、しかもすでに悪影響が現れている。シンガポールモデルに対する崇拝により、中国の一部の都市が一方的に恣意的に都市の境目を周辺農地に拡張する一方、まだ住める古い家を取り壊し、農民が都市に定住するのを排除している。彼らのガーデン型都市の見取図の中には、「眺望を妨げ、景観を壊す」黒く日焼けした農民の姿はない。では農民はどこにいるべきかと問いかければ、彼らは「新農村」と答える。そこは農民の身分に見合った場所だという。

三農問題の解決の妨げとなる「国情論」

「国情」の二文字は、使用する人にとって思うままに使え、かつ便利な新しい意味を持つようになったほか、ほぼ万能的な使い方も生まれている。たとえば、外国の学者が中国を訪問し、中国の急速な発展振りに驚き、評価すると同時に、耳痛い提案や批判をする時、中国側は「国情」という武器さえ持ち出せばほぼ相手を黙らせることができる。

もはや文化や、民族、社会制度あるいはイデオロギーなど偏狭な理由では市場経済の普遍的な法則に対抗できない今日、「国情」は頻繁に使われるようになっており、経済法則に反する多くの考えや行為も「国情」という仮面をかぶって横行している。ひとつの例は土地制度である。市場メカニズムに基づいて生産、消費することは第17回党大会でも認められた経済法則であるが、市場経済において最も重要な経済社会制度のひとつである土地制度が市場経済の内在的要件に合うことは、その当然の帰結である。これまで、すべての先進国は市場経済を採用し、しかも農村部においても都市部においても例外なくその過程で土地の私有を認めた。逆に言えば、土地の私有を拒否した全ての国は、先進国になった例がなく、三農問題も解決されていない。しかし、一部の人は、いわゆる中国の特殊な国情をでっちあげ、要素としての土地の側面を否定し、市場経済の一般法則に従って土地の流動を配分が行われなければならないことを否定し続けている。

長い間、私は、北京、上海、海南などで土地制度改革の必要性について講演する時、いつも「文教授は国外にいる時間が長く、中国の国情を知らないのである。中国は決して土地私有制を実施してはならない。中国には特殊な国情があるからだ」と言われる。最初、私は唖然とした。確かに、長い間国外にいる学者は、国内で生活する人よりも国情を知っていると自分で言うことはできない。言えないのであれば、黙るしかない。

「国情」の二文字はどのような場面で持ち出されても、相手に返す言葉を失わせる威力を持っているが、三農問題を消す魔力を持っていない。むしろ「国情」という鋭い武器が頻繁に使われるほど、三農問題は目立つようになっている。また、頻繁に「国情」を使う人によってその解釈権が独占されていいのか。もし、彼らの提案の方が農民を豊かにすることができるのであれば、なぜ改革開放が実施されてからの30年間、東南沿海部は繁栄しているのに三農問題が厳しさを増しているのか。

「土地の私有」は中国の国情に沿わないか

もっとおかしいことがある。中国は秦漢以来の二千年余りの間、土地の私有を実施してきた。土地の私有が中国の国情に合わないというならば、なぜこの制度は中国で自発的にこれほど長い間実施されてきたのか。秦漢以降、なぜどの王朝もこの制度に戻るのか。また、この制度の下で、中国が限られた土地で世界最大の人口、最強の経済、次から次へと文明の盛り上がりを見せたことを、どのように説明するのか。農業社会における土地の私有という、経済制度の力強い支えがなければ、われわれが誇る中華文明は単なる空中の楼閣になるのではないか。

私たちは、世界中に中国の儒教文明を大いに広める一方、この文明の最も重要な経済制度を誹謗中傷してはならない。土地の私有がなければ、中国の儒教文明もない。中国の奥深い文字からも分かるように、長期間に肉体労働から離れた地主の知識人を除いて、この種の文字を修得、熟達し、精緻で洗練された古典文学を創造し、あるいは十分な財力で世界でも特色のある庭園を建造し、あるいは暇があって広く深い哲学思想を発展させることができた農民は少ない。近代中国の衰退は、土地の私有によるのではなく、長期的にわたって農業を重視し、商人を差別し、民衆の思想をけん制し、鎖国政策を採ったため、世界と交流する機会を失い、工業、商業、貿易、科学技術が順調に発展できなかった結果である。

「国情」という名目で土地の私有に反対する人たちに質問したい。一部の人が賞賛する現行の土地制度は、農民が自ら受け入れたい制度なのか。もし農民が現行の土地制度を受け入れたくないのであれば、この制度が「国情」に合っているという説明は、自分も相手も欺くだけである。また、昔、農民が集団化に参加したのは自らの意思によるものであったとしても、いったん参加すると自由に脱退できないような集団は本当の自発的な組織と言えるのだろうか。自らの意思によらずに参加した制度が逆に中国の「国情」に合っているという理由と論理は何だろうか。

当時、農民が集団化に強制的に参加させられたのであれば、和諧社会〔訳注:調和の取れた社会〕に向けて努力している今日に、当時の強制命令による過ちを正すべきではなかろうか。当時、「敵」として見なされたいわゆる「胡風分子」〔訳注:反革命集団とされた作家、詩人である胡風と彼の影響を受け人たち〕や、右派分子、右傾機会主義者、文化大革命期の走資派〔訳注:共産党内で資本主義の復活を目指す人たちのこと〕、全てを取り上げられた資本家たちなどはすでに名誉回復されたことにより、党と政府の威信が高くなっているのに、革命当時の主要な原動力と盟友であり、数十年にわたり、中国の経済建設に黙々と大きく貢献してきた農民に対し、なぜ集団化に強制的に参加させたという過ちを正すことができないのか。その理由と論理は何だろうか。

農地の私有に反対する人たちは、集団化に賛成する農民も多いと言っている。だとすれば、土地の所有権を頭数で農民に振り分けることを阻止すべきではない。集団化に賛成する農民がそれほど多いと確信しているのであれば、農民たちは振り分けられた土地を集団にわたし、集団化を続けるはずである。そうすれば、集団化に反対する農民に制約されずに集団化をより良くすることができるのではないか。また、そうすれば、「集団化は真の自発によらなければならない」という党と政府が強調する原則に沿うこともできる。では、土地の所有権を農民に振り分けることを反対する理由は何だろうか。結局のところ、農地の私有に反対する人たちは、農民が集団化したがっているということに全く自信がなく、土地を分けたら、土地を集団に戻す人がほとんどないと分かっているので、全ての農民が集団に属することを強制しているのだ。

はっきりしていることは、土地の私有を主張する人は、集団化または共同化に反対しない。彼らが反対しているのは、農民の反対を無視した非自発的で強制的な集団化または共同化である。逆に集団化を主張する人たちは、昔のように強制的な方法で農民を集団に追い込むことを擁護し、しかも農民が必ずしも愛していない集団から離れることを許さない。どちらの方が農民の意思を尊重しているのか、どっちが農民の利益を守っているのかは、はっきりしているのではないか。

問題は、この強制的な土地の集団所有制は、中国の農業生産、農民の相対所得、都市化の健全な発展、労働の比較優位の長期的な維持、長期均衡レートの確立など様々なことに対する悪影響を増していることである。われわれは、現行の土地制度と市場経済の内的要因との間の矛盾を無視し続け、このような臨時的な土地制度を恒久化することができるのだろうか。

百歩譲って、仮に益々多くの生産要素市場の歪みを招き、社会の不平等性を深刻化する現在の土地制度こそ「国情」にふさわしいとしても、「国情」で経済の法則に対抗できるだろうか。市場経済の法則に極めて相反する土地制度に対し、「国情」を優先すべきか、それとも経済法則を優先すべきかを、問わなければならないが、「国情」を盾に、長期にわたって経済法則に従うことを拒否したのに、悪果を受けない国はどこにあるのだろうか。

2008年7月18日掲載

出所

経済観察網2008年6月23日
※和訳の掲載にあたり著者の許可を頂いている。

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