中国経済新論:世界の中の中国

「中国の台頭」:夢と現実に関する思考

牛軍
北京大学国際関係学院教授

「中国の台頭」という舶来語

「中国の台頭」という言葉は国際社会において、一部の人々が1990年代以降の中国を議論するときに使う舶来語であり、後に中国本土でも訳されて用いられるようになった。この言葉はすでに一般的な用語として受け入れられている。少なくとも、現在の専門家や学者たちや、あるいは彼らの論文などにおいては、国家的な目標としてこの言葉を使っているようである。その例としては、閻学通氏の『「中国の台頭」--国際環境評価』(原題:中国崛起--国際環境評估)や、黄仁偉氏の『「中国の台頭」の時間と空間』(原題:中国崛起的時間和空間)などを挙げることができる。

「中国の台頭」という言葉が中国の出版物において登場するのは、1990年代半ばあるいは後半以降と見られる。そもそもこの言葉は、1992年の鄧小平による南巡講話以降の中国経済の急速な発展、さらに南巡講話によってもたらされた中国の積極的、かつ巨大な変化を描写したものである。この言葉が中国に輸入され、ますます使われるようになるにつれ、その意味は「発展」、「復興」、「現代化のプロセス」、さらに「顕著な上昇」という意味と混同されてきた。厳密に言えば、「中国の台頭」は中国側で明確もしくは特定の定義づけがされているわけではなく、単なるイメージとも言うべき言葉である。中国共産党代表大会の政治報告や、政府白書などの政府筋の文章において、この言葉はあまり見かけない。

「中国の台頭」はイメージを伴った概念ではあるが、中国人とそれ以外の人の間では異なる理解がなされている。その基本的な違いは以下のようなものである。すなわち、中国人から見れば、「中国の台頭」は中国の新しい姿であり、かつての「東洋的な国」、「悠久の歴史を有する国」、「かつて長期にわたって侵略され、圧迫された国」、「社会主義の国」、「発展中の国」、「大国」というようなイメージに加えて、積極的かつ人心を奮い立たせるような新たな発想が取り入れられている。それは中国が本来持っていた特性のすべてを維持すると同時に、現代化の実現を通して更なる偉大な国家になっていくという意志を示している。

「中国の台頭」という言葉は中国人を奮い立たせる。しかし、このように新しい自国のイメージがいったん決められているにもかかわらず、中国人は中国と外部の世界との関係を調整する必要があるか、そしてどのように調整するか、ということをまったく考えていない。この点は国際社会が強い関心を寄せるまさに肝心な点である。ここ200年ほどの間、中国が実際に力を蓄え、自信を備えている状況を世界の国々は経験しておらず、したがってそのような実状と態度を持った中国と交流を行った歴史がまったくない。これは中国側から見ても同じことであるが、中国人はまだこの問題については考慮する必要がないと思っている。

認識のずれと共存する夢想

「中国の台頭」に関する様々な議論を読むと、次のような傾向が見られることが判る。それは、中国人(中国共産党のエリートと一部の知識人も含まれる)の間でも、「中国の台頭」という概念は異なった位置付けがなされている。中国人は自己イメージに新たに加わった部分について、まだ、明確な認識を持っていないのである。実際、中国共産党や中国政府の重要な文書において、「中国の台頭」という舶来語は一切使われていない。そのような文書で一般的に使われるのは「中華民族の偉大なる復興」や「現代化を実現する」などといった表現である(注1)。一部の知識人は「中華民族の偉大なる復興」と「中国の台頭」を同じような意味として捉えている。しかし、それに含まれている潜在的な意義は異なっている。

「台頭」はあまり富強でない国家から繁栄した近代国家へ発展することと理解されているが、「復興」にはかつての栄光を取り戻すという意味合いが加わっている。ここには、もし民族の復興を実現することができなければ、かえって「国家の分裂、外患の再燃、社会の大動乱」の局面に陥るかもしれないという意味が含まれている(注2)。つまり、語義の角度からであれ、論者の論理構成からであれ、中国の歴史は多くの中国人が未来を考える時の比較対象となっている。未来の中国の近代化への発展の道を考える上で、「成功」はかつての輝きを回復すること、「失敗」は中国近代史上における災難の前例を繰り返すことを意味している。

中国自身の歴史経験が縦の比較対象と見なすならば、アメリカは横の比較対象と見なされる。近代中国の現代化プロセスの中で、中国の志士達は常に米国を学ぶべき相手、さらには追い抜く目標としている。彼らは一定期間にわたる努力を行うことで、いつか中国がアメリカのように豊かで強大になり、そしてアメリカのように国際社会で卓越した地位を得ることを望んでいるに違いない。

1930年代、中国が日本の侵略に直面していたとき、毛沢東は「中華民族は自力更生によって亡びた国を立て直す決意を有している」と宣言した。その後、1950年代末の「大躍進」においては「英米に追いつき追い越せ」と唱えた。中国が米国に追いつくまでに10年もかからないと信じていた時期さえあった。このように考えていたのは毛沢東だけではなく、孫文も同様であった。彼は毛沢東より更に早い時期に、「アメリカが最盛期に至るまでには100年を必要とした。日本は50年もかからずに富国強兵を実現した。ここから推測するに、中国が富強な地位に達するまでには10年とかからないだろう。」(注3)と述べた。中国の歴史と現在のアメリカが中国の現代化の成功を評価する比較対象とみなされることは、この100年において不変の事実であり、中国の現代化を実現するための原動力ともなっている。

夢と現実の間

自らの歴史、そして現代における最強の国家と比較しながら中国の未来を描くことは、政策決定者が自らの政策を支持するように中国の大衆に呼びかける目的がある。なぜならば、その未来は大衆に一つの夢の世界を感じさせるものであり、「百年にわたって中国が抱き続けた夢想」でもあるからである。世界の圧倒的多数の人々と同様、中国人も自分の知る歴史と直面する現実を超えた遠大な戦略や目標を理解し、受け入れることはできない。そして、そのような空想のために長期にわたって自分の体力、精力と知能を尽くすこともできない。彼らは実現可能な利益を必要としているのである。

実際、中国共産党と中国政府が策定した国家の発展目標は人々を感激させ、希望を与えるものであるとともに、かなり現実的である。すなわち、20年の奮闘を経て、中国で全面的な小康社会(いくらかゆとりのある社会)を実現し、21世紀半ばまでに中国を現在の中所得国のレベルに到達させることに目標を置いている。注意すべきことは、それによって定められた今後20年の発展目標の中で、将来の各時点での中国の世界における地位に関係する発言は一つもないことである(注4)。

中国政府首脳の正式発言から判断すると、彼らが思っている中国の直面している情勢はマスコミでよく見かける楽観論よりかなり厳しい。温家宝総理は着任当初の記者会見において、中国の貧困人口の紹介を例にとっている。温家宝総理によると、625元を1人当たりの年間収入の標準値にとした場合、農村の貧困人口数は3,000万人に達し、825元を標準値にした場合は、この貧困人口が9,000万人に上る。このように収入基準を低くおいたとしても、ヨーロッパの一つの大国の人口に相当する数の貧しい人々が存在する。これで、いわゆる「中国の台頭」に至るまでにはまだどれだけ大きな努力を払わなければならないかを想像できるだろう(注5)。中国人による「中国の台頭」論が示しているように、彼らが考えるいわゆる中国の台頭の最終結果は中国が一つの偉大な強国になることを意味する(注6)。もちろん、偉大な強国というのもはっきり定義された概念ではない。唯一明らかになっているのは、中国の台頭を議論している中国人のほとんどは、この目標を達成するためにはかなり長い時間が必要になると信じていることである。言い換えると、彼らからすると、「中国の台頭」は現実というより、(短い間に現実となることもない)一つの歴史的過程である。研究者のあるものは「中国の台頭」を準備期と台頭期に分け、あるものは「中国の台頭」を初期と急速な発展期に分けている。また、ある研究者はたとえ2050年までに今の計画を実現したとしても、中国の台頭にむけた一つの頑丈な基礎を打ち立てただけだと明確に主張している。(注7

一部の人々は現状に対してかなりの自信を持ち、楽観的な考えを表明している。彼らは、「この100年の中でも、中華民族のそびえ立つ夢がこれまでになく現実に近づいている」と思っている。また、ある人は「中国の台頭はすでに現実的な問題である」、「中国の重要性はもはや疑う余地のない事実である」と言う人もいる。もちろん、これは決して「中国の台頭は一つの過程、あるいは一つの長い過程である」と言っている人々があまり自信を持っていないというわけではない。

「中国の台頭」という概念には、主に中国人による中国の国家発展戦略と国家の運命に関する論述が誇張した予想、推測と計画が反映されている。これまでも明らかにしてきたように、これらの予想、推測と計画は、「内向的」、「内省的」であるという特徴をかなり濃厚に含んでいる。すなわち、その考えが至る所は主に中国自身の経済発展と社会の進歩である。これは中国人にとって当然のことであるが、一方で同じ物事に対して、彼らが他国の人々と異なる視角を有する原因にもなる。そして、それは相互理解の妨げとなりかねない。結局、国際社会の最大の関心事は中国の台頭が国際秩序にもたらす変化と衝撃であるが、中国人の関心は、いかに他人が理解できない困難を克服し、偉大な国家を実現するかという「百年の夢」にある。

このような困難には国際環境によってもたらされるものが含まれている。中国の知識人は中国の台頭と世界との関係を考えるとき、主に次の二つを念頭においている。一つは、現代化を実現する歴史のプロセスにおいて、中国が今の西側主導の国際関係をいかに理解し、これに対応すべきか、ということである。20年余りにおよぶ改革開放の歴史から見れば、中国はすでに今の国際関係から利益を受けており、近代史上における中国人の被害者意識も大きく変わっている。このような変化があるからこそ、「世界(国際関係)に溶け込む」という意識が中国人の主流的な考えとなりつつある。もう一つの考えはいわゆる中国の台頭を取り巻く国際環境である。たとえ中国の台頭の見通しに関して最も楽観的な予想を抱える人でさえも、今の国際環境においては多くのチャンスが存在するものの、適切に対処しなければ、中国の台頭の過程が終わってしまうかもしれないと思っている。ここから、なぜ中国人が中国の現代化の過程を取り巻く国際環境に関心を持つかが分かる。

一方で関連している国際環境についての議論も二つの内容に分かれている。一つは、国際環境の利害に関する分析である。中国共産党第16回大会においては、今後20年にわたって中国をめぐる国際情勢は平穏なままで推移するだろう、という考え方が示されたにもかかわらず、すでに発表された国際情勢の分析から見ると、多くの人々は中国の現代化が直面している国際環境には様々な利害が錯綜していると考えている(注8)。その上、更に多くの人々がむしろ国際環境をより厳しく予想している。少なくとも、比較的長きにわたって平和な環境を維持することは、かなりの努力を尽くさなければならない目標である(注9)。中米関係が改善するにつれ、楽観的な予言がすぐに数多く生まれてくることになる。しかし、流行を追わず慎重な立場を取る研究と評論は、アメリカの未曾有の優位が、常に他の国の自由度を制約するという事実を強調している。中国の現代化のプロセスに関して言えば、このような事実は当然ながら有利な要因ではない。二つ目の内容は、一つ目の論理的な延長である。すなわち、現在あるいは今後の一定期間において、直面する複雑な国際環境の中、中国の台頭が実現されるためには特別な条件が必要となる、ということである。それには、武力を含め、国家の領土と戦略的利益を維持するための手段を持つことも含まれる。それによって、中国自らの発展と安全の必要に応じて国際および地域の問題に対する自分の戦略を選択し、その他これまでにない形の脅しにも対応できる。

1990年代末以降、中国の国際問題の専門家による中国の国防力の発展に対する注目や経済発展と国防との関係についての議論は、持続的に変化する国際政治情勢が中国の現代化プロセスにもたらす不利な影響への関心と懸念を表明している。確かに、中国人が国防の建設を重視する程度は持続的に強くなりつつある。しかし、それは「中国脅威論」の主張に見られるように中国人が中国の総合国力の増加に対して楽観的に推定し、それに基づいて「力」をもって現存する国際秩序を変えようとするということを意味してはいない。むしろ彼らが国際環境の変化によって増加する不利な要素に対する懸念を反映している。

内省と外向的な考え

もし本稿の読者がすでに中国国外における「中国の台頭」論およびその関連問題や観点をすでに理解しているならば、これまでの記述によって「中国の台頭」に対する中国人と中国人以外の人々の間の認識と理解の相違を十分に提示したといえる。「中国の台頭」は中国人にとって当然のことであろう。なぜなら、中国人も先進諸国の人々と同様に豊かな生活と尊重される地位を求めているに過ぎないからである。中国人の関心は、「中国の台頭」の過程で直面する内外の困難、特に国際環境の中での不利な要素である。さらに彼らは、それらの困難を克服するために、そしてそれらの不利な要素を取り除くために、中国がどのような条件をそろえなければならないか、どのような措置をとらなければならないか、などを考えている。このような内省的な考えを持っているため、他人から見れば「中国の台頭」が国際秩序の中で、他人を心配させるような影響をもたらしかねないことを、彼らはまったく考慮していない。その理由として、中国が繁栄すること、そして中国人が裕福で文明的であることは、国際社会にとって少なくとも悪いことにならないと信じているからである。これももちろん議論の余地のない事実である。

これに対して、国際上の議論と思考を見てみると、その視角はまったく異なっている。「中国の台頭」に関する分析は、積極的であれ、消極的であれ、中国の急速な発展が国際秩序に与える影響、あるいは関係国との利害関係から出発している。もちろん、彼らに中国人の観点から考えるように求めることはできない。上述のような視点から考えると、「中国の台頭」に関する認識や議論から提出される命題が、たとえ「脅威論」「問題論」「チャンス」「促進」であったとしても、基本的に「中国の台頭」が今の世界に与える衝撃を問題にしていると言える。

両者を比較すれば、その違いは明らかである。このような違いは複雑なものではないが、それがもたらした問題には注目すべきである。なぜならば、それが中国とそれ以外の国々の間で、「中国の台頭」という問題を巡る相互理解に達するうえでの困難と障害をもたらしているからである。時には、潜在的な敵対感情をはらむことになってしまう。このような感情の存在は一部の中国人が外部環境に対してあまりにも厳しい推測をする原因ともなりうる。

その反面で、国際社会の側も改革と発展の過程において再構築され始めた中国人の愛国主義精神に対して、懸念する可能性がある。また、中国が「台頭」を実現するべく、平和で安定な国際環境をつくるためにとる防止措置に対して十分な理解をせず、それによって根本的に間違った解釈と反応をする可能性も否定できない。

国際社会において、「中国の台頭」に対する懸念が存在していることは言うまでもない。その中には、理屈に合う懸念もあれば、神経質に過ぎる考えもある。しかし中国を敵視する政治勢力も確かに存在している。彼らはもともと中華民族が豊かな生活と合理的な国際地位を持つことを望んでいない。これらの政治勢力に対しては、互いに疎通し合う必要はない。それには何の意義もないからである。このような勢力に関して言えば、相互の交流おや理解を深めることで国家間の各種の相違と対立を解決できることはない。このような政治勢力に対しては、研究者としては本気で相手をする必要はない。

国際情勢における「中国の台頭」の議論や重要な観点に対して、中国の学者は比較的詳細な研究と評価を行ってきた。彼らの観点は明らかにより理性的な方向に発展している。閻学通氏の『「中国の台頭」――国際環境評価』は1998年に出版され、全面的かつ系統的に国際社会から見た「中国の台頭」についてのさまざまな観点を紹介している最初の学術書である。閻学通氏による紹介と評論は冷静かつ詳細であり、さらには丹念に系統をたどっているという特徴を持っている。この中では、国際社会において「中国脅威論」という悪意的な扇動の外にも、様々な冷静的・理性的な考えに基づく懸念が確かに存在していることを中国人に伝えている。そのような事実は、中国人にとって真剣に考えて対応するべきものであろう(注10)。

2002年9月に出版された黄仁偉氏の『「中国の台頭」の時間と空間』はさらに議論を深めている。この本も同様に全面的に「中国の台頭」に関するさまざまな観点と見解を紹介し評論した後で、次のようなことを強調している。すなわち、「『中国の台頭』の戦略構想を研究するに当たって、各種の反対・制約・阻害勢力に対する研究をしなければならない。また、「中国の台頭」に対するあらゆる失敗の予測をも参考にしなくてはいけない。ある意味では、「中国の台頭」を失敗させる可能性のある要素を、反対勢力は我々よりも重視しており、我々より更に鋭い発見をするかもしれない。彼らの意見は我々の鑑になる」(注11)。前進する道にある障害を克服するため、中国は「敵を師とする」ことができる。このような理性的な論理がいったん中国のエリートたちの主流となれば、「中国の台頭」という議論はきっと巨大な精神的原動力になるに違いない。

2004年2月20日掲載

脚注
  1. ^ 『全面建設小康社会開創中国特色社会主義事業新局面』、2頁、人民出版社、2002。
  2. ^ 何新『中華復興与世界未来』、4頁、四川人民出版社、1996。
  3. ^ 人民日報、2001年6月25日、『中国哲学名著』、495頁、南開大学出版社、1996。
  4. ^ 同注1、19-20頁。
  5. ^ 北京晩報、2003年3月19日。
  6. ^ 『世界知識』、2002年第17期、46頁。
  7. ^ 黄仁偉『中国崛起的時間和空間』、24頁、上海社会科学院出版社、2002年
  8. ^ 同注7。
  9. ^ 閻学通氏『中国崛起--国際環境評估』、天津人民出版社、1998。
  10. ^ 同注9、58-87頁。
  11. ^ 同注7、19頁。
出所

「中国崛起--夢想与現実之間的思考」、『国際経済評論』、2003年11-12月号
※和訳の掲載にあたり先方の許可を頂いている。

2004年2月20日掲載

この著者の記事