中国経済新論:中国の経済改革

ロードマップなき市場経済への移行

樊綱

従来の計画経済と比べ、市場経済では、どういった製品をどのくらい生産するかという意思決定が分散され、計画にかかわる専門家よりも、民衆が主役となる。また、市場への移行も、「上から下へ」という政府主導型ではなく、「下から上へ」という民間主導型で進めるべきである。移行期においては、古い制度が破壊され、新しい制度がまだ出来上がっていないため、多くの混乱が生じている。しかし、これは、政府の力の強化ではなく、改革の深化のみによって解決できる。

一、避けられない移行期における矛盾と衝突

中国の市場化改革が始まってあっという間に25年の歳月が経過した。25年は、個人にとって短い時間ではない。しかし、25年が経った今も、われわれは毎日の生活の中に、偽物や模倣品、借金を返さない、官僚の腐敗、財産権の不明確、弱い法的統制力といった様々な問題や困難に直面し、市場経済が完成する日はまだ見えてこない。いつも「3~5年で市場経済の基本的枠組を構築する」と言っているが、「3~5年」はすでに何回も過ぎ去り、あと何回を待っていればいいか分からない。こうした中で、人々は焦燥感を覚えた。

しかし、25年間は歴史においてほんの一瞬であり、市場経済制度の育成過程でみればまだ初期段階に過ぎない。よく西側の市場経済体制と我々の現体制とを比較し、西側の体制がどれほど完璧で、われわれの体制はどれほど乱れているかを指摘する人がいる。しかし、西側の現在の市場経済体制は、少なくとも400年以上もの時間をかけて様々な試行錯誤を繰り返して徐々に出来あがったものであり、その間に幾多の矛盾や衝突、社会の動乱、戦争を経験した。中国に目を転じると、二千年以上の封建経済の後、30年余りの計画経済を経て、市場経済の実施を「思いついて」からまだ25年しか経っていない。中国の市場経済体制にどのくらいのレベルに期待することができるのだろうか。客観的に言えば、この25年間、われわれはかなり速いスピードで他の人が数十年あるいは数百年をかけて歩んだ道を進めてきた。われわれは後進国であるため、先進国の経験と教訓を汲み取ることができ、市場経済体制を育てるのに400年は要らないかもしれない。しかし、市場経済の発展段階はやはり一つずつ上らなければならない。

中国人は賢く他の人の経験を学び、他の人の教訓を吸収し、中国特有の状況に基づいて市場化改革を推進してきた。しかし、一夜ですべてのことをやり遂げて、一夜ですべての問題を解決するほど賢くない。そこまでできるのは人間ではなく、神様であり神話である。現実の改革と発展は必然的に矛盾と衝突を伴い、思い通りに行かないことはしばしばある。利益集団はあらゆる利益を獲得しようとし、あらゆる角度から自分の不満を言い、たくさんの利益を手に入れる集団もあれば、少ししか手に入れられない、または損する集団もある。しかし、人間の利益を再配分する神様あるいはスーパーマンがいなければ、非合理的配分の発生や利益の衝突は避けられない。

衝突がないことを期待することはできない。重要なのは、衝突の向かう方向が崩壊であるか、それとも調和であるかである。例を一つ挙げよう。筆者は、西側の新聞で中国はもうすぐ内戦が発生し、国が分裂するといった記事を何度も読んだことがある。このような記事の根拠は、中国において地域間の経済発展と所得水準の格差が拡大しており、地域間の利益衝突が激しくなっていることである。しかし、現実の中国では、衝突はむしろ合理的に解決する方に向かっている。このように述べる根拠の第一は、市場化改革が進めば、各地域・部門・集団はむしろ統一した国内市場の中でより緊密に依存するようになり、市場を分裂させる動機が大きくなるどころか小さくなることである。先進地域はますます後発地域の資源や労働力、製品市場に依存し、後発地域はますます先進地域の資本や技術、雇用市場に依存するためである。第二の根拠は、年平均7~8%で成長している経済では、所得分配が不公平でも、大多数の人々の実質所得は毎年上昇しているため、人々の生活は改善することである。このような場合、人々は協力という形で問題を解決する傾向が強まり、最初からやり直すような分裂行為は取らない。ほかにも中国が統一市場に向かって発展する様々な重要な政治的・経済的要因がたくさんある。

二、「秩序」と「無秩序」

市場は一夜で出来上がるものではない。市場化という長くかつ苦痛の過程において、古いルールが完全に消滅しておらず、新しいルールがまだ出来上がっていない状況の中、混乱や「無秩序」という様相を呈することがある。一部の人はこれで国中が混乱しているかのようにパニックになってしまう。しかし、実際には、混乱がない方がおかしい。それは改革が進展していないことの現れでもある。ペテン師が多く偽物や模倣品が氾濫していることで、市場経済のせいで人々は道徳観念をなくしてしまったという指摘がある。しかし、人間は聖賢ではなく、様々な機会や制度上の隙間を利用して自分自身により多くの利益をもたらそうとする。制度改革の初期において、偽物や模倣品が増えることは自然の流れで正常なことであり、むしろ喜ぶべきことである。

改革は、古いものを打破して新しいものを作り上げる過程である。古い体制やルールに適応していた道徳、規範、行動の基準が解体され拘束力を失いつつある一方、新しい市場経済のルールや規範が完全に出来上がっていない環境の中、人々は新しい体制の下で自分の利益を守り騙されるのを防ぐ方法がまだ分からないため、「制度上の真空地帯」が生じ「悪い人」の出番が多くなる。偽物や模倣品の増加は、改革が深化していることの現れである。「信用」というものは、良いものだから使われるのではなく、役に立つからみんなが守るのである。新しい商業道徳が確立する前には、偽物の発生は避けられないが、騙し合いの中で誠実に協力し合う市場経済体制が徐々に形成される。これが物事の発展のロジックである。騙す人がいれば、騙されるのを防がなければならない。騙されるのを防ぐ過程はまさに制度形成の過程である。「契約」(社会制度は社会においてみんなに受け入れられる一種の契約と見なすことができる)は騙されるのを防ぐために生まれたものである。海外の既成のルールは参考になるが、中国の特色をもつペテン師にはやはりわれわれ自身で対応しなければならない。そして様々なペテン師とのやり取りの中で新体制が徐々に形成、確立される。われわれは誰しも先覚者ではない。騙されなければ騙されるのを防ぐことの重要性を知りえないし、騙されるのを防ぐことを学べない。従って、最初からすべてのルールを完璧に精緻なものにすることは不可能である。ペテン師が増え、みんなが騙されるのを防ぐことを重視するようになって、新しいルールが初めて形成される。偽物撲滅弁公室の設立や、品質向上キャンペーン、消費者協会の発足、消費者権益法の通過など、これらはすべて市場経済制度が徐々に整備されている証である。

秩序は無秩序の中から生まれてくるものである。市場化改革は長年をかけて形成された古い体制を打破するものであるため、最初からすべて秩序良く進めると、市場経済の新しい秩序が生まれてこない。また、秩序が効率良くかつ長く存続できるかどうかは、当事者の特定の利益に符合するか、利益を増やすことができるか、自分の利益が守られているか、などによる。本当に有効な秩序は、無秩序の中で当事者の間の取引や契約、試行錯誤の繰り返しなどによって徐々に形成されるものであり、専門家やどこかの権威に教わるものではない。事前に設計・導入されたルールと秩序が正しくとも、実際に損したり騙されたりすることを繰り返してから初めて受け入れられ、人々が守りたいと考える新秩序になる。このように実践を経て確立された新秩序こそ生命力をもつことができる。例えば、証券市場では、買い手が売り手の信用状況を慎重に審査すべきというルールがある。しかし、証券市場の育成の初期において、様々な背景で多くの人は株を見ればすぐに買い、誰が売っているかは問わない。何回か損したり問題が発生したりして初めて人々の間にリスク意識が芽生え、ルールを守るだけでなく、政府にルール作りや法制の強化を求めるようになる。このようにして法制作りは経済の中で「制度に対する需要」として生まれる。中国の市場化改革はまだ長い移行期を要する。移行期において、無秩序の発生は避けられないが、それが良い方向に向っていることを見逃すと、無秩序から秩序のある方向へ市場化改革を積極的に推進することができない。問題点だけ見て市場の育成を中止し市場化改革を止めれば、古い秩序の経済に逆戻りするだけである。

三、担い手は「専門家」から「民衆」へ

市場経済メカニズムは、人と人の間の自発的な取引に基づいて相互関係を協調させる一種の社会ルールと定義することができる。経済運営メカニズムとしての市場経済メカニズムはその運営を「個人」や「民衆」の自主的かつ自発的な行為に任せるのであり、計画経済のように少数の「専門家」や「精鋭」に頼って彼らの民衆や個人に対する「指導」に任せるのではない。伝統的な計画経済体制や昔の一部の「社会主義」理論は、民衆の間の利己的な行為や相互の利益に基づいた交換は秩序のある経済運営をもたらすことができず、「専門家」と「精鋭」達の理性と智恵だけが信頼できるという根深い「精神的遺産」をわれわれに残した。このような「精鋭治国論」あるいは「専門家治国論」の考え方に基づけば、良い教育を受けた専門家からなる政府あるいは計画当局は、第一に民衆の物質と文化に対する嗜好や、社会福祉・全国民の利益とは何かを知っている、第二にこのような嗜好に基づいて生産を計画し民衆を最大限に満足させることができる。これに対し、個人は自分の利益を知らないし、自分の「目先の利益」を追求することはすなわち「無政府主義」であり、社会福祉の最大化をもたらすことができない。この考え方の中心は、民衆・個人は頼りなく、個人に任せれば混乱が起きるため任せられないため、政府の存在が必要であるというものである。また、集中的な計画体制の下で物事がうまく行かず問題が生じるのは、体制上の弊害でもなく問題解決の考え方が間違っているのでもなく、計画が科学的でないあるいは管理者の素質が良くないため、政策が誤ってしまうことによると考える。要するに、頭が悪いからなのであり、頭の良い人に換えれば、問題は解決できるということである。とにかく、専門家だけが理性的であるから、集中的に計画的に実施しなければならないというような考えである。

これに対し、市場経済の考え方は、「個人」や「民衆」に任せることにある。市場経済の基本的な運営方式は、利己心をもつ個人と個人の間の自発的な取引である。市場経済は完璧な理想郷ではなく、問題点もある。しかし、第一に、市場経済は決して無秩序ではなく、その秩序は計画経済の秩序と違うだけである。資源配分メカニズムとして、市場経済は、個人と個人、企業と企業の相互の利益のための自発的な取引と契約の上に成り立っているものであり、国と企業・個人の間の行政的隷属関係や計画配分に基づくのではない。第二に、近代的市場は実際には「無政府」ではない。個人と個人の取引は、取引双方の上に立つ社会の「第三者」すなわち政府の存在が必要である。政府は財産権を保護し、経済の安定維持と公平の促進という重要な役割を果たす。市場経済では、政府は、伝統体制の政府のように資本所有者の職務を果たしたり、あらゆる経済活動において「当事者」でありながら「政策決定者」の役割を果たしたりしない。第三に、市場経済ではまったく「制約」がない訳ではない。人々は損失を避けるために自律し、互いに侵害しないように契約を結ぶ。政府あるいは国の管理は、人々の間の制約の一種に過ぎない。人々が互いに制御しあったりして初めて、国が当事者という立場から脱却し、第三者あるいは仲裁者として、当事者の上に立って法律の権威を行使し、社会の公平を守ることができる。

市場経済は個人や民衆に任せるといっても、最終的には、制度や、個人と個人の関係を調整する規則あるいは契約に頼る。これに対し、伝統的な計画体制は、制度を信じないで「専門家」を信じ、「法制」に頼らず「人治」に頼る。このため、伝統的計画体制の運営は、「人」という要素に大きく左右される。指導者は賢明かどうか、計画者のレベルはどのくらいなのか、工場長やマネージャーの経営管理の素質や教育水準、責任感、道徳の水準はどのくらいなのか、などである。また、管理される側の素質や、彼らが一緒に同志のように協力してくれるかどうかにも左右される。一方、市場運営についての要求はそれほど高くない。基本的に、勘定ができて、損を避け利益を稼ぐことを知ることができれば、専門家でなくても一般人でもできる。一般民衆の「平均値」を取った制度の方が、少数者に依存する制度よりも安定的で長続きする。確かに、科学的でないよりも科学的な方がいい、愚鈍よりは知的がいい、素人より玄人がいい、官僚の教育水準は高いに越したことはない。しかし、歴史を振り返れば分かるように、このような「専門家治国論」およびそれを実現するための集中計画体制は「経世済民の道」として成功しないものである。「お見合い結婚」は「恋愛結婚」よりも当事者の利益に合致する場合もあるが、長い目で見れば、多くの場合、面倒が多く幸が少ない。

四、「上から下へ」それとも「下から上へ」

伝統的な計画の考え方は、われわれの社会においてすでに一種の思考方式になっている。このため、市場経済体制を作る時、まず「計画の仕方」という考え方から脱却しなければならない。実際の改革の中で一つ注目すべき現象として、市場化改革の進み方について計画的な考え方が常に働いているため、一部の人の間には計画的な方法で市場経済を実施しようとする動きが見られることが挙げられる。われわれの直面している体制改革は高度集権的な計画体制から市場経済への移行という特殊性から、一部のやり方について「上から下へ」、段階的に実施するという手法をとっており、また、多くの人の既得利益に触れることがあれば強制的に統一して実施することもある。このようなことは特に改革の初期段階において顕著である。また国有経済の改革についても、多くの問題解決にこのようなやり方が必要である。これは、国有経済は高度に統一されていたため、様々な制度が関わり合っており、一斉に打破しなければ改革を進めることができないからである。

しかし、このような「上から下へ」というやり方の限界を認識しておかなければならない。効率的な制度は、人々が特定の環境・条件の下で利益獲得の機会を最少のコストで手に入れることができる社会的取り決めでなければならない。市場メカニズムの下で、人々は各々の直面している特殊な条件を十分に利用して自発的に別々に行動する(一回きりで統一して行動するのではない)ことができる。市場化の改革も同じである。様々な特殊状況に置かれる当事者だけが、どのような体制・管理方法が彼らの特殊条件に適応し、どのような改革、そして、どのくらいのスピードで改革することが彼らの状況に適応するかを知っている。当事者だけが自分の状況に最も相応しい形態を作り出すことができる。周辺分野の改革も同じで、他の分野に変化が起きて初めて対応する。すべての分野を一斉に進め、一斉に完了させることは不可能である。

いかなる専門家も、事前にどのような改革案がすべての状況に対応でき、各改革をどのように組み合わせればよいかをはっきりと知ることはできない。これは生産の問題や資源配分の問題について、すべての人の需要・嗜好を知ることができないのと同じである。このため、改革の大きな流れを示す戦略と全体の案が必要となるが、中身は細かすぎてはいけない。また全体の協調を重視し過ぎることもいけない。細かく設計された改革案の通りに実施しないと改革ができない、あるいは改革ではないという考えや、専門家が設計したものでなければならないあるいは当事者が自分で作り出したものは良くないという考え方はあってはいけない。

実際、われわれの多くの改革は当事者自ら作り出したものであり、専門家が設計したものではない。市場化改革は多くの民衆の利益に関わるため、民衆の手でないと完成できないものが多い。専門家の設計や、スタートの号令を待てば、貴重な時間を無駄にするだけでなく時機を逃してしまい、市場化改革ができなくなる。民衆が作り出し、それから理論家が総括するような下から上に上昇していく理論こそ生命力をもつことができる。先に理論があって後で実践するというのは本末転倒である。「理論面の準備が足りない」ということをよく耳にする。これは決して悪い事ではなく、むしろ正常である。本当の改革が実際に前進していることを意味するからである。

われわれは、改革を、「上から下へ」を主流とする段階から、「下から上へ」を主流とする段階に推し進めるべきである。「下」に真の自主権を与え、自分自身に適する体制を選択してもらい、自分自身の体制革新に相応しい自主権を選択してもらう。市場のやり方で市場経済を推進するのである。

2003年9月9日掲載

2003年9月9日掲載

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