中国経済新論:中国の経済改革

インフレからデフレへ

樊綱
中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長

中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長。1953年北京生まれ。文化大革命中における農村への「下放」生活を経て、78年に河北大学経済学部に入学。82年に中国社会科学院の大学院に進み、88年に経済学博士号を取得。その間、米国の国民経済研究所(NBER)とハーバード大学に留学し、制度分析をはじめ最先端の経済理論を学ぶ。中国社会科学院研究員、同大学院教授を経て、現職。代表作は公共選択の理論を中国の移行期経済の分析に応用した『漸進改革的政治経済学分析』(上海遠東出版社、1996年)。ポスト文革世代をリードする経済学者の一人。

中国経済は、典型的な公有制計画経済のインフレ時代から市場経済の発展初期のデフレ時代へと移行しつつある。中でも、1996年から2000年までのデフレは需要の落ち込みによるところが大きいのに対し、2001年以降のデフレは生産性の上昇という供給側の要因を反映している。このような現象を理論的に分析し理解することは、正しい政策実施の前提条件となる。

1.伝統的体制下での物不足とインフレ(1956~95年)

旧ソ連型の高度集権的な計画経済にしても、中国の分権的な公有制経済にしても、伝統的な公有制計画経済は、物不足あるいはインフレがいずれも特徴である。その制度的な背景には、公有制の下で生じる企業あるいは投資側の「ソフトな予算制約」がある。すべての投資が最終的に公的資本となり、収益は抽象的な存在である国家に帰属する一方、損失も国家(すなわち、民衆全体)が負担するという状況では、企業は資本の収益や投資の損失、借入金の返済を考える必要がない。そのため、投資意欲が常に旺盛であり、投資効率(すなわち、資源の使用効率)を高める努力をせず、国の資金で投資を行い、利益を自分のものにするといった事態が生じるのである。国有企業、あらゆる政府部門にとって、財政資金による政府投資や国有銀行が行う返済する必要のない融資は争奪の対象なのである。このような状況の下、伝統的体制下の物不足やインフレは様々な形で生成されたのである。

1)集権的計画経済下での物不足(1956~80年)

純粋な中央集権的計画経済では、インフレの発生は次の二つの場合がある。一つ目は、一定の需要を前提に、計画者が総供給能力に基づいて投資と消費の規模、さらには通貨供給量と購買力の規模を決めるが、経済構造の歪みや企業の非効率性、大量の資源の浪費など、計画自身の非効率性により公有制の様々な矛盾が顕在化し、計画実施時の実際の供給規模が当初の予想より小さくなる場合である。これは一種の「供給萎縮型」の物不足である。二つ目は、供給能力と経済効率が一定で、計画者が需要について従来の供給能力を上回る投資計画を作る傾向があり、あるいはすでに大量の資源を使って投資したが、さらに賃金を引き上げて福祉・待遇を改善しようとするため、財政赤字に陥り、総需要が膨らんで総供給を上回る場合である。このような状況は、過去にも常に観察されていた。これは「計画需要膨張型」の物不足である。

この二つの状況は、実際、同時に発生することが多い。ただ、どちらの状況にしても、物不足すなわち総需要の伸びが総供給の伸びを上回る状態であることには変わりがない。固定価格制の下では需給の不均衡は物不足を誘発するが、価格を自由化すればインフレになってしまう。公有制計画経済の国は、歴史的にも例外なく物不足あるいはインフレに陥っている。このことは、供給不足やインフレ、経済過熱がこの体制自身の必然的な帰結であることを示している。大躍進から文化大革命、さらには80年代初頭までの間の中国における景気変動は、上述した二つの状況が同時、あるいは別々に起こった結果に他ならない。これは高度集権的計画経済の典型である。旧ソ連のような計画経済の場合、中国と比べても景気変動は若干緩やかだったが、物不足とインフレが恒常化していたことには変わりがない。

2)分権制の下でのインフレ(1980~95年)

1978年以降、特に80年代半ば以降、中国の国有企業は利潤リンク制や請負制、経営責任制などの実施に伴い、生産・分配の決定権を持つようになった。このことは、一部の決定権が政府から企業に移ったことを意味する。同時に、中央政府と地方政府の関係にしても、地方政府がより多くの自主権を持つようになった。行政に関する権限だけではなく、財政面での「地方請負制」の実施に伴い、地方から中央への上納額が数年にわたって固定され、それ以上の財政収入の使い道は地方政府に任せられたため、地元経済の発展と収入の増加を求める地方政府の意欲が急速に高まったのである。

実際、80年代の体制改革の重要な一環として、都市部の所有権構造が基本的に変わらない前提の下、中央政府は経済発展意欲を高めるために、中央政府は企業と地方政府の両方に「放権譲利」を実施した。これにより、中国の経済体制は事実上、「分権型の公有制経済」となったのである。

このような分権型の公有制経済は、中央政府にとって、地方政府と企業の効率向上に対するインセンティブを高める効果がある一方、総需要を膨脹させ、伝統的集権制計画経済よりも「計画需要膨張型」のインフレに陥りやすくなってしまったのである。さらに、企業投資は依然として公共資産であり、政府供与の資金も国有銀行の融資も事実上返済する必要がないため、各地方政府と国有企業は極めて強い投資意欲を持ち、常により多くの資金、より大きなプロジェクトを獲得してより多くの投資を行おうとしながら、投資の結果に対しては責任を負わなくなってしまった。この結果、予算制約はさらにソフトになってしまったのである。

このような状況は、特に80年代後半から90年代初めにかけて顕著に現れていた。各地方は最終的に中央が定めた融資限度額を超過し、通貨供給を大幅に増やした。また、需要と購買力を拡大する手段として地方政府によって発行された多くの「白条」(IOU、空手形)や企業間の「三角債」(企業間の債務)も中央の融資限度額を超過した。これらによって発生した経済過熱とインフレは、中央集権制の場合よりも深刻であった。92年以降の経済過熱とインフレはこのような状況を反映していた。当時の投資の名目伸び率は40%にも達し、94年のインフレ率は24%と改革開放以降の最高水準を記録した。こうした状況の中、地方と企業の投資意欲や融資規模、通貨供給の伸び率の抑制を通じて総需要を抑制することにマクロ経済政策の重点が置かれたのである。

このような分権型の公有制によるインフレは、改革開放以前にも発生したことがある。70年代初頭、地方政府に権限を委譲したことによる投資の拡大に関連するものである。しかも、これは中国特有のことではなく、旧ソ連時代の後半と崩壊後の経済改革の初期においても、同じような状況が発生している。特に、旧ソ連崩壊前後の時期、旧共和国はそれぞれの中央銀行を通じて通貨を発行する権利を持っていたが、自らの購買力を拡大しようとルーブルの発行を増やし、資源を奪い合ったのである。しかし、各共和国はインフレという結果に責任を負う必要がなかったため、ソフトな予算制約という問題が顕著に現れ、1000%以上というインフレ率を招いてしまったのである。これは、まさに「分権」を実施しながらも「大鍋飯」(親方日の丸)を維持しようとしたことの必然的な結果である。

2.国有経済の改革とデフレ(1996~2000年)

1996年以降、国有企業の「予算制約」が銀行の「貸し渋り」によってハードになったことをきっかけに、中国はインフレからデフレの時代に突入した。国有銀行の不良債権は、従来の政府介入によって発生したものに93年以降のマクロ・コントロールに伴う金融引き締めによる発生分を加えると、95~96年に極めて高い水準に達した。このため、中央政府と通貨当局は96年夏以降、銀行の不良債権の増加を防ぐために非常に厳しい政策をとり、不良債権の抑制を銀行の最優先課題とした。その対象は国有銀行であったため、政策は基本的に行政的手段の形で実施された。行政処分といった形で銀行の各レベルの融資担当者の個人責任を追求するのが特徴である。そして、貸倒れの責任を負いたくない国有銀行の担当者は、貸出を控えるようになったのである。これを受け、96年後半以降、貸出の伸び率が急速に低下した。96年第4四半期、中国で史上初めて融資限度額を使い切れないという事態が発生した。97年も年間の銀行貸出限度額を使い切れず、その年の末、中央銀行は長年実施してきた「貸出限度額制度」を撤廃したのである。

貸出伸び率が急速に低下したことは、中国において96~97年の間に貸し渋りが発生したことを反映している。銀行貸出の伸び率がそれまでの20%超から一気に10%以下にまで低下したことに伴い、有効需要(購買力)の伸び率も急速に鈍化し、総需要は相対的に不足(総供給の正常な伸び率と比較して)に陥った。銀行信用が収縮する中、97年10月(韓国での金融危機の前)に中国は史上初めて小売物価ベースでデフレに陥り、その後も44ヶ月間続いた。このようなデフレは、通貨供給量の伸び率の低下、ひいては総需要の伸び率の低下による典型的な例である。デフレとは、総需要の伸び率が低下し、総供給の伸び率を下回ることによる物価水準の下落である。この意味で、96~98年の間、中国は国内において事実上の金融危機を経験したと言える。ただ、この危機はそれほど深刻ではなく、対外収支の安定性にも特に問題がなく、国内銀行のバランスシート危機だけに留まった。このように、この危機はアジア金融危機とは直接的に関係がなく、基本的に中国国内の銀行の不良債権と信用萎縮によって引き起こされたものである。

96年以降の銀行による貸し渋りは現在もなお続いている。アジア金融危機を経て、金融危機の影響に対する人々の認識が深まり、中央政府と通貨当局も金融リスクの予防、銀行の不良債権の処理に真剣に取り組むようになった。特に2000年以降、中国のWTO加盟が確実になったこともあり、銀行は不良債権処理を加速した。これらのことを背景に、96年以降、国有企業に対する銀行のソフトな予算制約が大きく改善された。しかし、国有企業は、これまでのように無制限に銀行から借り入れを行い、結果を考慮せずに無制限に各種の資源を使用することができなくなったため、賃金やコストの支払不能状態に陥ってしまい、工場が稼動できなくなった。このため、国有企業改革が実施され、レイオフされた労働者や倒産した国有企業の数が増え、国有企業の民営化も増加したのである。2001年現在、県・市レベル以下の小型国有企業の80%がすでに民営化あるいは閉鎖された。多くの中型国有企業も民営化を開始している。

こうしたことから見て、96年以降実施された金融リスクの予防、不良債権規模のコントロールといった政策は中国の経済体制改革の転換点であり、中国のマクロ経済の転換点でもある。体制面ではこれまでの国有企業のソフトな予算制約が変わり、企業は本当の改革に着手し始めた。マクロ経済面では、需要が制限なく膨脹するという局面も改善し、総需要の伸び率が正常に戻りつつあり、予算制約にさらされるようになった。

97年以降のデフレは、総需要の伸びの低下を反映している。98年には、経済成長率の落ち込みが許容範囲を超えたことを受けて、中央政府は拡張的マクロ政策の実施に踏み切った。中央政府が経済成長率の一層の低下を防ぐために、明確かつ積極的に拡張的マクロ政策を採用したのは、中国が共産政権になってから50年間の歴史の中で初めてのことである。それまでのマクロ政策は、基本的に需要の膨脹を防ぎ、インフレを抑制するための緊縮的な政策であった。98年は、中央政府が金融緩和という拡張的な通貨政策ではなく、拡張的財政政策を採用した最初の年でもあった。拡張的財政政策を採用した背景には、第一に、国有企業制度と銀行体制の問題を反映して、金融政策の有効性が限られ、金利の変化が中国経済に与える影響が顕著ではないという状況があった。第二に、銀行が不良債権問題を抱えているため、すでに多くの債務を抱えている国有企業にこれ以上の追加的な融資を増やすわけにはいかず、金利を引き下げて貸出を増やそうとしてもなかなか難しいということがあった。第三に、中国の銀行システムがまだ大型国有銀行中心であり、中小企業に資金を供給するシステムができておらず、特に中小民間企業向け貸出を増やすことが難しいということである。これを背景に、98年以降、中央政府が貸出を増やそうとしても、中央銀行が奨励政策を打ち出しても、貸出は依然として大きく増加しなかった。第四に、中国の資本市場がいまだに効率的ではないということである。

このため、中央政府は拡張的財政政策を採用し、国債を増発して銀行に滞留している大量の預金を政府投資、ひいては総需要に変えたのである。98年以降、4年連続で1,100~1,500億元の特殊国債が発行され、政府支出を賄った。元々、銀行預金が増えつづけていたのに、銀行貸出の伸び率は低下していたため、財政支出の拡大は基本的にクラウディング・アウトを引き起こさなかった。銀行預金の一部は国債の購入を通じて政府支出拡大の財源となり、総需要を拡大させ、年間7%以上の経済成長率を支えた。98年以降、中国がアジア金融危機に直面したにもかかわらず、経済が安定したのは、拡張的財政政策の役割が大きい。デフレは2000年に基本的には終息し、経済成長率も8%に回復した。振り返ると、97~2000年は、中国にとってデフレを出発点とした最初の景気循環で、政府が初めて明確に拡張的財政政策を採用し、景気の安定に努めた最初の期間である。

この時期のマクロ政策は基本的には正しいものであり、成功を収めたが、多くの疑問点が残り、マクロ経済政策に関して多くの議論がなされた。

第一に、財政支出の増加は政府の役割を高め、体制を逆戻りさせることにつながらないかという議論である。このようなリスクは確かに存在するが、98年以降の拡張的マクロ政策による政府支出の増加はこれまでの政策とは大きく異なっている。その大部分が国有企業の設立ではなく、公共財であるインフラの整備に使われた。この意味から、今回の拡張的マクロ政策の効果は従来と比べても改善したと言えよう。

第二に、政府投資の効率性の問題である。多くの人は政府投資の効率が低いと批判した。確かに、政府投資は効率が比較的低い投資である。しかし、政府投資は、一種の拡張的マクロ政策として、その役割は投資よりも支出を増やして需要を拡大することにある。政府投資の効率が悪く、あるいは汚職・腐敗を誘発する可能性があっても、政府は拡張的政策を採用せず、景気後退を黙って見ているだけで何もしないわけにはいかないのである。需要の拡大が必要な時、政府が投資を増やすことを通じて経済成長を支えることができる。こうした職責を果たさない政府こそ効率(ミクロ面でもマクロ面でも)の悪い政府である。さらに、中国のような発展途上国はインフラが大いに不足しているため、先進国に比べても中国の政府投資は有用なインフラ・プロジェクトに使うことが容易である。これによってインフラのネックとなっている問題点が克服され、社会全体の生産能力を発揮することができるのである。この点について、中国の政府投資はまだ効率的であると言える。

第三に、政府投資の増加と政府債務の増加により、財政の負担が大きくなり、財政の維持可能性が保たれるかどうかという疑問である。これについて、マクロ政策は短期的な政策であるため、中央政府の投資で長期的な経済成長は維持できないということを認識しておかなければならない。このため、政府投資で経済成長をいつまでも促進することはできないのである。ある短期的な政策を長期的な行為として考えれば、誤った結論に至るのは当たり前の話である。現在の中国の財政状況から見れば、短期的(3~5年)に政府債務を増やすことを通じて内需を刺激することは、それほど深刻な財政危機を招くことはまだない。国債発行残高の対GDP比率は、国際的に見れば比較的低く、97年末時点で8%に過ぎなかった。ここ数年の国債増発により、2001年末時点で16%にまで上昇したが、先進国と比べてもまだ低い。また、この間に財政収入は年間20%以上で伸びており、経済成長率も7~8%で金利も低下している。このため、中国の財政および政府債務の維持可能性の余地はまだ大きく、深刻な問題にはなっていない。もちろん、中国の金融状況全体としては、銀行の不良債権問題などと一緒に考えなければならない。ただ、銀行の不良債権問題を考慮に入れても、中国の「国民負債」はまだコントロール可能な範囲内にある。

このように、デフレを出発点とした景気循環が97年以降の中国経済の一つの特徴となり、これは中国経済が市場経済の発展における新たな段階に入ったことを反映している。この間における中国のマクロ経済政策も、基本的には経済理論のロジックと実際の経済状況に沿ったものである。

3.デフレと高成長の並存局面(2001年~)

中国のデフレは2000年に終息し、経済成長も7~8%という水準を維持しているが、2001年後半から2002年前半にかけて物価水準が再び下落した。しかし、今回の物価下落は、投資や貸出・通貨供給量の伸び率の急速な低下を伴っておらず、2002年の経済成長率も好調な投資と輸出に支えられて8%を記録した。つまり、2001年後半以降、特に2002年の物価下落をどのように説明するかは、中国経済を理解する上で重要である。

さらに検証する必要があるのが、2002年の物価下落が97年のデフレとは大きく、しかも本質的に違うという仮説である。2001~02年の物価下落は、貸出あるいは投資の伸び率の急速な低下によるものではないことから、典型的なデフレではないと言える。実際、この時期において、中国では次のような事象が観測された。

まず、97年以降、多くの国有企業が体制を転換したほか、多くの郷鎮企業が民営化され、その財産権が個人のものとなったなど、各経済主体は目を見張る改革を行った。特に沿海地域の民間経済は高い成長を見せた。

第二に、2001年以降、WTO加盟が確実となり、国際経済情勢の変化も加わり、対中直接投資が年平均20%前後で伸びている。2002年の対中直接投資は500億ドルを超え、中国は世界最大の直接投資受入れ国となった。

第三に、80年代半ば以降、民間企業の発展と外資の流入に伴い、技術革新がますます重視されるようになった。大量の外資が様々な技術を持ち込んだことを受け、中国では国を挙げての技術の導入・改良が行われた。中国の企業、特に民営企業の技術が次第に向上してきた。97年以降、中国の労働生産性は年平均3~4%で上昇していることからも分かるように、ここ数年の技術進歩は目覚ましいものがある。

以上のようなことを背景に、多くの産業や企業では、体制改革と技術進歩により効率が向上し、コストが低下している。加えて、市場メカニズムも成熟しつつあり、競争にさらされる各企業はコストの削減に努力しながら、商品価格をコストと平均利潤率の合計にまで引き下げようとした。全般的に、市場メカニズムがだんだん形成されるにつれて、制度・技術の改善とコスト削減に対する意欲が高まり、競争が激しくなっている。このため、2001年以降の物価下落は典型的なデフレではなく、効率向上とコスト低下による物価水準の下落と言えるのである。

このような物価下落のマクロ経済への影響も、典型的なデフレとは異なる。第一に、物価下落が通貨の収縮によるのではなく、コストの低下によるものであるため、投資の低下を引き起こさない。例えば、コストが3%低下するのに対し、物価水準が1%低下するのであれば、企業利益は縮小どころかむしろ拡大するため、投資は増えつづけるであろう。第二に、消費面で見ても、このような物価下落は需要を刺激するものであり、消費需要の低下による物価下落を引き起こさない。

歴史を振り返ってみても、このような状況はすでに前例がある。19世紀後半、欧州では21年連続の物価水準の下落が続いていたのと同時に、経済が持続的な成長を遂げていた時期があった。これは、産業革命に伴う技術進歩や効率の向上、コストの低下と深く関係している。20世紀初頭の米国でも、7年連続で物価が下落する一方、経済が成長していたという例があった。

一方、このような状況は、中国のマクロ経済のコントロール政策に新たな課題をもたらした。現在の状況は、供給の伸び率が需要の伸び率を上回っているため長続きせず、一定の時間が経過すれば過剰生産能力が大きくなり、投資需要にマイナスの影響を与え、総需要の伸び率の循環的な低下をもたらす。その結果、総需要の伸び率の低下による従来型のデフレが発生する可能性があるのである。マルクスが指摘しているように、18~19世紀に欧州では、技術進歩と効率向上が、総供給が総需要を大きく上回る循環的な生産過剰と経済危機を招いた。現在の中国の状況は当時の欧州に似ているのである。

今後、中国経済は、経済効率の上昇と利潤の増加を目指した市場経済への移行に伴い、企業のコスト削減や生産能力の拡大など、競争がますます熾烈になり、過剰生産能力の拡大と供給が需要を上回るという特徴を持った景気循環に陥る可能性がある。この意味で、中国経済は今後、常にデフレ圧力と生産能力の過剰という状況に直面するかもしれない。政府のマクロ政策も、以前のような総需要抑制策から内需拡大策へと転換するだろう。

このように、市場経済という新しい枠組みの下で発生する景気変動は、過剰生産能力とデフレを始点とし、政府が拡張的マクロ政策で総需要を刺激し、経済を谷から救い出し、正常な経済成長に戻すという特徴を備えている。これは、将来の中国の景気循環の主なパターンとなる。このように、中国経済は公有制経済から市場経済へと移行し、市場経済が発達してくるにつれて、新しい形の景気変動が以前のようなインフレと経済過熱を始点とする景気循環に取って代わりつつあるのである。

2003年3月24日掲載

2003年3月24日掲載

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