中国経済新論:中国の経済改革

腐敗の経済学原理

樊綱
中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長

腐敗の問題は、わが国社会における難病であり、民衆たちに日常的に論議される話題でもある。度重なる「腐敗撲滅・廉潔提唱」運動にもかかわらず、効果はなかなか得られない。ここでは、腐敗を防止するもっと有効な対策を探るために、腐敗の原因を経済学のアプローチで分析することを試みたい。

腐敗の根本的な原因は、当事者の道徳問題ではなく、人々の行為に決定的な影響を与える体制にある。

腐敗の最も簡単な定義は、「公の権利を悪用し、私利を求める」ことである。仮に「公の権利」を利用し、公の利益を求めるならば、それは当たり前のことで、そもそも「公の権利」は公利のために設計されたものである。もし私権で私利を図るなら、それも合理的なことであり、法律にも違反していない。そして私権で公利を図る場合、それは「公正無私」といい、経済学の用語でいえば、「利他主義」であり、これはむしろ提唱すべきことである。しかし、「公の権利を悪用し、私利を求める」という腐敗行為だけは、人々に極度に嫌われ、反対されるだけではなく、厳しく罰すべきなのである。

このような「公の権利を悪用し、私利を求める」という行為は、まず「人事制度」に関係している。もし、社会における人々はみんなが「公正無私」なのではなく、少なくとも一部分の人は、「私欲」を持っており、機会さえ整えば、権利を利用し私利を求めることを認めるならば、われわれはまず、いかにして私欲の少ない、公利のために勤勉な努力を惜しまない人を選抜するかを研究しなければならない。この意義からいうと、まずわが国の国家機関や国有企業の人事制度、職員の選抜制度及び官僚の任命制度を改革し、「悪い人」が権力につく機会を減らすことが腐敗を防止する方法なのである。

次に、「公の権利を悪用し、私利を求める」ような違法行為はなぜ蔓延したのかというと、それは明らかに法律の不整備に関係している。なぜなら、もしわれわれがもっと現実的であれば、すなわち実際には大多数の人は、私欲を持ち、「公正無私」あるいは克己奉仕ではないことを認めるならば、いくら幹部の選抜制度を厳しくしても、一部の私欲のある人が公のポストにつくことを完全に避けられない。従って、われわれは、いかにわれわれの幹部の監督制度ならびに立法及び司法制度を改革し、公の権利を握る官僚の一人一人に自分が人民による厳格な監督下に置かれていることを知らせるのか、といった問題に取り込むべきである。「公の権利を悪用し、私利を求める」という行為が速やかに取り締まられ、そして罰せられるなら、その意義は非常に大きい。すなわち、ほかの人々はそれを教訓とし、まじめに自分の職務につき、公の権利で私利を求めるような行為を事前に防止するからである。

だが、現実の世界では、官僚の選抜、監督、そして法律を施行するといった腐敗の撲滅活動は、決して「ただ」ではなく、必ずコストが伴う。「監督と法律の施行」に伴うコストには、法律を制定する過程での費用や立法と司法の運営にかかるコストが含まれている。もちろん、腐敗を撲滅すること自体はメリットがある。その直接的な利益は、「汚職や腐敗で得たお金や品物」を回収することであり、間接的な利益は、「民衆の怒り」を解消し、社会の安定を図ることによって、経済の一層の成長に役立つことである。だが個別の事件を見る限り、腐敗撲滅運動のコストと利益とのバランスは必ずしも取れている訳ではない。100元の賄賂事件と100万元の事件を調査するのに、殆ど同じ金額の調査費用が必要であり、調査に取り組む人員の数もほぼ同じである。これは、なぜ腐敗の現象が普遍的である中で、まず「金額の大きな事件や影響の深刻な案件」から着手し、あるいは、「相当の大事件」だけが「取り締まり調査」の対象となるのかを説明している。

腐敗撲滅運動のもう一つの間接的な利益は、「一人を殺し大勢の見せしめにする」という効果にある。例えば、一つの社会、一定の期間、一定の条件での「腐敗の普及程度」を想定する場合、腐敗をより多く摘発することは、腐敗を行う人にとって、「捕まえられる可能性」が高まることを意味し、その結果、腐敗行為を「断念する」働きがある。なぜなら、腐敗を行う人にとっても、コストと利益の計算が存在している。腐敗行為の収益は、当然汚職、賄賂といった公の権利を悪用することによって、得られる利益である。これに対して、「腐敗のコスト」とは、主に二つの側面の要素によって、決定付けられている。

第一に、摘発された後に受ける処罰である。職務の格下げであれ、公職追放であれ、それによって失った従来の収入や期待収入である。公務員の給与が高ければ、この機会費用がその分だけ高まる。また、罰金や刑務所で服役するなどの追加処罰、さらに、社会において人々に軽蔑されるなどの精神的な損失も含まれる。つまり、腐敗は一旦摘発されると、それを受ける処罰が重ければ重いほど、腐敗のコストも高くなるわけである。

第二に、腐敗防止、あるいは撲滅運動の真剣さや制度の厳格さである。特に制度が厳格であればあるほど、つまり宣伝、監督、調査、追跡などの活動が頻繁かつ真剣に行うことができれば、その効果も高まり、腐敗で「捕まえられる可能性」が高くなり、腐敗の期待コストの損失も大きくなるのである。

腐敗を必ず摘発し、厳しく罰しようとしても、取り締まりの人員が足りず、あるいは腐敗があまり多すぎて「全部を摘発しきれない」ことも考えられる。特に、みんなが腐敗を当たり前のように思い、それに対する取り締まりを緩めたり、役人同士がかばい合いをしたり、告発があってもだれも調査しない、時には告発する人が逆に罰せられるような場合、腐敗をしても「捕まえられる可能性」は事実上ゼロ、あるいはゼロに近くなる。なぜなら、理論的には、「腐敗の期待コスト」というのは、捕まえられた場合に受ける処罰と捕まえられる可能性を合わせたものであるからである。

このように、いかに腐敗を防止できるかを考える際、腐敗行為で捕まえられる可能性は最も重要な要素の一つである。

しかし、問題は、「捕まえられる可能性」が理論上では「確率」であることから、それが監督の範囲や、取り締まりの数だけではなく、一定の条件の下で、「監督の対象となる人数」にも依存することである。従って、腐敗のコストや腐敗撲滅の有効性を論じる際、われわれは一定の条件の下で、腐敗する可能性と条件が共に整った人達の数も研究しなければならない。

わが国の経済状態から言うと、「腐敗を行う条件が整った」人達の数が非常に多いことは現実の問題となっている。わが国の経済社会では、あまりにも多くの財とサービスが、「公的部門」によって、生産、供給、そして分配され、「公共財産」の社会総資産における比率はあまりにも高すぎる。「公費支出」、「政府決定」、そして「計画分配」といった事情も多すぎる。さらに言うと、政府はあまりにも多くのことを管理し、政府の規模も、抱える政府職員の数もあまりにも大きすぎる。特に、注意すべきなのは、わが国の国有企業も一種の「公共財産」を使用している機構であり、国有企業の管理者たちも一種の「公務員」であり、ある意味では、公共の金や品物に近寄ることができるということである。しかも、国有企業の職員は、売り場の職員も運転手も配電室の職員も、みんな国家財産を使用している以上、「公の権利を悪用し、私利を求める」腐敗行為を行う可能性を備えているのである。これほど大勢の人が公の権利を持っている状況下で、監督や司法を適用するのは相当難しい。腐敗を防止し、撲滅させ、さらに根本からそれを断絶するコストはきわめて高い。有効な監督によって公務員の廉潔を求めることは決して容易ではなく、むしろ監督の範囲があまりにも広いため、腐敗行為を阻止すること自体ができなくなるかもしれない。例えば、国有商店の売り場での職員、国有倉庫の警備員といった人々すら賄賂行為をし、公の権利で私利を図ることになれば、われわれはどれほど多くの人力と財力を投入してから、法律の完全化を図ることができるのだろうか。

要するに、わが国のような経済社会で、腐敗の現象が多く存在している原因は、私欲の人が多いわけでもなければ、「法制の不健全性」によるものでもない。もちろん、法制がすでに健全になっているという意味ではなく、むしろ監督しなければならない範囲があまりにも広すぎて、健全化することがとても難しいのである。つまり、腐敗が存在している根本的な原因は、公の権利があまりにも多く存在していることにある。従って、もしわが国のような経済社会で「公の権利を悪用し、私利を求める」ような腐敗行為を最小限に抑えようとしたら、次のような制度改革を行うことが最も重要である。すなわち、「公の権利の数を減少」させ、政府の規模を縮小すること。また、国有資産を悪用する機会を制限し、より多くのことを個人や市場に任せることである。われわれの状況から言うと、腐敗の撲滅の根本的な方法は、「厳しい取り締まり」でもなければ、宣伝と教育でもない。こういったことも完全に効果がないわけではないのであるが、根本的なことは体制改革にある。大多数の人々は「私欲」を持っているという現実の中、「公の権利を悪用し、私利を求める」現象をなくす根本的な方法は、その「私欲」自体を否定するのではなく、人々が「私欲」ばかりを追求するのを懸命に阻止することでもない。それよりできるだけ「公の権利」を減らすことによって、「公の権利を悪用し、私利を求める」行為の減少、そして腐敗を根本からなくすことを目指すべきである。

2002年1月7日掲載

出所

『樊綱集』、黒龍江教育出版社、1995年。原文は中国語、和文の掲載に当たって、著者の許可を頂いている。

2002年1月7日掲載

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