中国経済新論:世界の中の中国

WTO加盟交渉者が本音を語る

龍永図
1943年湖南省生まれ。1965年貴州大学外国語学部卒業。1992年対外経済貿易部国際経済貿易関係司長、1994年対外貿易経済合作部部長助理を経て、1997年より対外貿易経済合作部副部長、対外経済合作部首席交渉代表となる。

龍永図:交渉はこうして完結した
-黒髪が白髪に:首席交渉代表龍永図が中国のWTO交渉15年の歩みを率直に語る-

……交渉の第一段階で私たちが直面した最大の困難は、当時中国が市場経済を行うことを認めなかったことです。その後(鄧)小平同志が社会主義の条件下でも市場経済をやってもいいと提起され、それから我々と外国側の交渉代表はともかくも共通言語を持てることになったのです……

記者:中国の「復関」(GATT締約国地位回復)と「入世」(WTO加盟)の交渉の過程は非常に長いものでしたが、それはこの間の政治的要素が大きくかかわっていたと理解していいのでしょうか?

龍永図:そういっていいでしょう。中国の「復関」と「入世」交渉は改革開放の歴史のプロセスの中で発生したものです。本来、中国がGATTの合法的な地位を回復するのは大変たやすいことであった筈です。1971年、台湾の代表がGATTの場から追放された後、当時のGATTの事務局長はすぐに我々に招待状を出しました。もし私たちが当時GATTを充分に理解していたなら、GATT締約国地位の回復は非常に簡単だった筈です。わが国のジュネーブ駐在大使がGATTの事務局長宛に一通の手紙を書き、そこで中国の加盟希望を表明する。その後彼らが一回会議を開けば、おそらくその時点で加盟できていたでしょう。

当時中国は加盟しませんでした。歴史的な条件の制約で、中国はGATTがひとつの「金持ち国家のクラブ」だと考えていて、GATTの主要メンバーはみな先進国でしたから、中国としては参加しないことを決めたのです。1971年、1972年当時、文化大革命はまだ終わっていませんでしたから、このような決定がなされたのも自然なことでしょう。

中国はどうして、その後十数年も経った1986年にGATT加盟の申請を決めたのでしょうか?それは主として改革開放のプロセスの中で、中国の指導者が、もしこれ以上加盟しないでいればおそらく経済的に非常に大きい損失を被るかもしれないと考えたからです。中国はGATTの締約国地位回復の申請を正式に提出する前にも、GATTの一部の交渉に参加しています。主に繊維製品の交渉です。当時、多国間繊維協定(MFA)ではクオータの配分が中心で、中国の繊維製品は当時全中国の輸出額の1/3を占めていました。もしGATTの組織するMFAの交渉に参加しなければ、中国は全世界の繊維製品の輸出割当枠から自国の分を獲得することができなくなってしまうわけです。そのため、中国は1983年から繊維製品の交渉に参加して、一部の世界の繊維製品のクオータを獲得したのです。その後中国の繊維製品の輸出は5年でほぼ倍増し、中国はそのうまみを味わうことができたのです。

当時中央政府が「復関」の決定をしたのは、中国の対外開放のニーズから出たものなのです。

記者:記憶では1987年に交渉を始めた当時は順調でしたが、その後曲折に満ちることになりました。

龍永図:確かに交渉の滑り出しは順調だったというべきでしょう。GATT全体のメンバーをリードしていたのは主に米国と一部の西側先進国でした。GATTは経済・貿易の機関ですが、彼らが新しい国をGATTメンバーに迎えるかどうかを決める際には、多くの政治的な配慮がありました。中国が交渉開始当初比較的スムーズに行けたのも主に次の理由からです。まず、米国のライバルであるソ連がまだ解体しておらず、しかも経済体制方面ではなんら改革を行っていなかった一方で、中国の改革は1978年以来すでに長く実施しており、西側は中国の改革のプロセスを評価していたことです。多くの面でまだGATTのメンバーとしての要件に達していなかったとはいえ、やはり中国をメンバーに加えようと考えていたのです。

しかし、1989年の「六・四」風波の後、米国を中心とする西側先進国は中国との交渉を中断しました。中国のWTO加盟は15年の交渉を経てきたといっていますが、本当の交渉はおよそ13年間です。間に2年余りの中断があり、1991年の下半期にやっと再開されているからです。

当時、中国はGATTの地位回復を外交と国際経済上の地位回復の交渉としてのみならず、当時の西側による中国に対する包囲と制裁の状況を打破する重要な政治的行動として捉えていました。中央政府の指導者は自ら直接この仕事に参加し、李鵬総理はGATTの全メンバー・経済組織の政府首脳に手紙を送りました。中国のGATT地位回復交渉はこのような背景の下で再開したのです。

交渉の全プロセスの中で、政治的要素は常に作用していました。だからこそ、このような非常に技術的な貿易交渉が、常に高いレベルの指導層によって、政治の面から進められていたのです。これも国際貿易交渉のひとつの法則といえるでしょう。

たとえばこの交渉の第一段階では、我々の直面した最大の困難は当時の中国が市場経済を行っているということを認めなかったということです。後になって、(鄧)小平同志が社会主義の条件下でも市場経済を行ってもいいと提起されたのです。これは我々当時の交渉代表団にとっては思想上の大きな解放でした。これを契機に、我々と外国の交渉代表の間に、一応共通言語が生まれ、本当の対話が始まったといえます。

GATTとWTOの交渉風景とは:少数が交渉し、大多数はコーヒーを飲んでいる

記者:過去の交渉で最も主要な相手は米国でした。中米交渉はどうして特別困難を極めたのでしょうか?

龍永図:中米交渉が非常に困難を極めたのは、たぶんまず米国が力をバックに強引であり、交渉のポジションも非常に強かったからでしょう。米国のGATTにおける歴年の交渉の方式と態度といえば例えばこんな具合でした。私が1,2,3,4と要求したら、お前は1,2,3,4と必ず受け入れなければならない。しかも、「これらの問題では交渉の余地はまったくない」という調子です。米国人が我々と交渉するときの最初の語気もこうでした。米国側のこのようなやり方はGATTの交渉の場でたびたび成果を収めていたので、彼らは交渉といえばこういうゲームだと思っていたのです。

中国人はしかしこの手は食わないのです。ですから交渉は最初からいわゆる実質的交渉ではなくて、交渉態度についての交渉でした。米国人は5,6年の時間をかけてやっと、中国の平等な交渉の地位が必要だという要求に適応したのです。私のこの数年来の最大の収獲は、外国人に、中国人とうまくやりたければ平等な態度が必要だということを知らしめたということでしょう。これは大変な努力をしてやっと勝ち取ったもので、本当に容易ではありませんでした。

例えば、名前は挙げませんが、米国のある交渉代表を例にしますと、我々はお互い評価しあっていて、任を解かれてから、彼は私にはずいぶん好意的でした。しかし我々が交渉をしているときは、非常にシビアに対峙したものです。私は今でも残念に思うことがあります。それはあるとき彼が私の執務室に交渉に来たときですが、私は彼をついに追い出しました。彼のあの日の発言は、私を非常に憤慨させたからです。彼は、「およそ米国の肉類検査機関で検査合格した肉類は、無条件で中国市場に入れなければならない」と言ったのです。私は、「それなら我々はなぜ商品検査機関を必要とするのでしょうか?中国は主権国家ですから、米国の肉類は必ず検査する必要がある」と言いました。彼は、「あなたは検査の必要はない、あなた方の市場で売られている肉類などは米国では全部不合格だ」と言ったのです。私は腹が立ちました。私は彼に、あなたがすぐに私の部屋から出て行くことを提案すると言いました。

個人的に言えば、私と米国の歴代の交渉代表、つまり交渉相手方は後でみな良き友になりました。結局、彼らとしても自らの国家の利益を代表したまでで、これは我々も同じなのです。

記者:「態度を攻める」のは第一歩に過ぎなかったわけですが、その後の実質的交渉ではどのような対立があったのでしょうか?

龍永図:最も重要なのはもちろん実質的交渉です。米国人の実質的要求はおそらく一番多かったでしょう。これは理解できることで、国が小さくないと要求も少なくはならないのです。例えば、我々がアイスランドの代表と交渉したときですが、およそ1時間の交渉で終わりました。なぜか?それはアイスランドの産業構造が単一で、魚類の輸出大国であるという理由からです。アイスランドの大使は私に、数種類の魚の関税問題を解決できさえすれば、すぐ交渉を終結させられると言いました。確かジュネーブで、とても天気の良い朝でしたが、私はアイスランドの大使と交渉しました。彼は「これが私の要求です」と言いました。全要求は1ページにも満たないものでした。見ると、書いてある魚の品種と中国でとれる魚の品種には大きな開きがあり、中国の漁業にいかなる重大な影響も及ぼしえないものでした。そこで、リスト上の要求には同意できると表明し、1時間で交渉は終わり、その後調印したのです。

米国は違います。米国の通商代表は、米国の経済構造と輸出構造は非常に揃っていて、中国の輸出入の6000種の関税番号のすべてに関心があるので、「一つ一つ交渉する必要がある」といいました。

これは全く理不尽なことです。米国の経済力がどんなに強いといっても、6000種以上の商品が揃って全部強いということなどあり得ません。例えばアイスランド産のあの数種類の魚の品種さえ、米国の強い分野なのでしょうか?米国との交渉の第一段階は、彼らのいわゆる「全面的交渉」の要求を打破することでした。一つ一つ排除してゆき、最後に4000種余が残りました。この4000種余の製品に、彼らが一番関心を持っている銀行、保険、通信、ディストリビューション、それに弁護士などの分野を加えて、非常に長い交渉の内容が形成されたのです。

米国はもちろん、WTOの全メンバーを代表する「リーダー」を自認して交渉に臨んできました。実際、そのリーダー的地位は多くのメンバーが認めていました。これもWTOが130以上の経済体のメンバーがありながら、わずかそのうちの30余りしか我々と交渉を行わなかった理由です。それ以外の100余りの交渉しなかったメンバーは、米国の交渉のポジションが自分たちを十分に代表できるものと信じていたわけです。

WTOの交渉ではある程度以上の経済力がなくては交渉になりません。例えば米国とバングラデシュの間で非常にシビアな交渉になるというようなことはあり得ません。かつて、GATTにはとても広いコーヒールームがあって、その周囲がすべて会議室になっていました。これらの会議室では、米国とEU、日本とEU、米国とカナダなどのライバルたちがよく交渉をしていましたが、ほかのメンバー、特に小さな経済体の代表たちは基本的にはこのコーヒールームでコーヒーを飲みながら、結果の知らせを待っているという、これがGATTの交渉の風景でした。ごく少数の人たちが交渉し、あとの大多数はコーヒーを飲んでいたのです。

そういう意味では、GATTもWTOもたいへん不公平な場で、経済的実力がないと、本当の交渉に参加することなど非常に難しかったのです。しかし別の意味からいえば、これはまた平等であるともいえます。GATTの無条件最恵国待遇の原則にもとづき、米国とカナダ、米国とEUが小部屋で交渉した結果は完全に、無条件ですべてのメンバーに適用されるのです。もし米国が苦労して日本から自動車の関税譲歩を勝ち取ったら、米国の代表は会議室を出てきて自慢げに、米国は日本と交渉を妥結させ、いくらからいくらへと譲歩させた、と言うでしょう。すると会議室の外でコーヒーを飲んでいたすべてのメンバーはみなこれに喝采を浴びせるのです。なぜならこれらの条件は彼らすべてに適用されるからです。WTOのゲームのルールはこうなのです。

ですから、米国が我々と交渉するとき、ある意味では確かにWTOの大多数のメンバーを代表していたと言えます。だから米国相手の交渉が複雑で困難なものだったわけです。

私は彼女(米国通商代表)が絶対交渉をまとめようとしているとわかりました。4時半から7時半までの3時間は、最終文書の内容を全部「クリア」し、すべてを解決するのに十分な時間だからです

記者:1999年11月15日中米協議妥結の前の6日間の交渉では非常に激しい場面もあったと聞いています。当時、アメリカ人はいつでも帰国するという態度を見せていたそうですね。では、交渉に転機はどのように訪れたのか話していただけますか?

龍永図:あの数日間の交渉は本当に高い波の起伏があって、希望が見えたかと思えばまたすぐにまったく希望はないと思えたりでした。米側の交渉代表の演技レベルは非常に高くて、私は後になって、米国人の芝居ぶりにはまったく舌を巻かされるよと言ったものです。私は彼らと長年交渉していますから、米国人のパフォーマンスの技巧はよく知っています。特に女性の交渉代表は。私は彼らがあの時、なんとしてでも交渉を成立させようという意気込みできたことを知っていました。というのは1999年4月に彼らは一度チャンスを逸して、あとでひどく後悔していたからです。

記者:1999年4月、朱鎔基総理が訪米した際、米国とのWTOバイ交渉を妥結できず、あなた方は米国訪問を終えてからカナダを訪問しました。当時クリントン大統領が非常に後悔して、あなた方に戻って再交渉をしてくれと希望したとも言われていますが?

龍永図:その通りです。米国政府が中米交渉のリストを公表すると、米国企業界から大変な反響がありました。これはすばらしい交渉成果ではないかと。米国政府の交渉代表達もそう考えていました。しかし、朱鎔基総理が訪米してクリントン大統領と会談した際、クリントン大統領は、大変残念ですが、双方の話し合いはたいへんいいものでしたが、今回はサインするわけにはいきませんと言ったのです。米国の交渉代表団のメンバーはこの知らせを聞いて、多くの人が泣きました。ハイレベルの政治的な決断で、あの時妥結にいくことができなかったのですが、彼らの失望ぶりは我々以上でした。

記者:1999年4月、もともと交渉はすぐにもまとまるはずだったのに、なぜ米国のトップは否定的な決断をしたのでしょうか?

龍永図:それはクリントン大統領が中米交渉で合意した内容に誤った判断をしたからです。彼はあれではおそらく議会の支持は得られないだろうと考えたのです。後になって財界も議会もこぞって支持していることを知って、クリントンは大変後悔しました。我々がまだ米国を離れる前、クリントン大統領から朱鎔基総理に電話をかけてきて、交渉チームだけ残してくれないだろうか、最後の修飾をちょっとすれば、妥結できるからといいました。朱鎔基総理は、米国人が合意したいときにはすぐサインするといって、そのつもりがないときはしないなど、世の中にそんな勝手なことがあるでしょうか、交渉はいたしません、するなら今度は北京に行ってくださいと言ったのです。

米国人は私をカナダまで追いかけてきて、確かカナダを離れる前、米国通商代表が北京での交渉スケジュールを決めたいと二度も電話をかけてきました。彼女は我々が一歩北京に入ったら、その翌日にはすぐ駆けつけたいと要求してきました。私は彼女に、我々にも少しは休む時間をくださいよ、あと時差だってあるのですからといいましたが、彼女はこれはとても急ぐことだからと言ったのです。我々が北京に帰ってから二日目に、米国側の交渉代表団は追いかけてきました。

11月になると、彼らは非常に強力な交渉陣容で臨んできました。しかも高圧的手段で、より多くのものを勝ち取ってやろうという姿勢でした。でも私たちは彼らが本当はそうは思っていないことを知っていました。それは、4月段階での内容はすでに十分彼らの要求を満足するものだったからですが、ですから我々も新たな譲歩をする意思などまったくありませんでした。

記者:当時、あなた方はもう切り札が何かわかっていて、目算があったというわけですね。

龍永図:しかし、我々としても当時本当に早く交渉妥結をはかりたかったのです。中央は主として中米関係の大局的見地から、5月に駐ユーゴ大使館が爆撃される事件が発生してから中米関係はきわめて困難な状況にあり、双方とも転機を必要としていたのです。中米関係は中米双方にとって、やはり非常に重要なのです。もし中米がWTO交渉を妥結させることができれば、おそらく中米関係の大きな転換点となった筈でした。

私は、江主席と中央のほかの指導者たちは、中米交渉の妥結によって、両国の関係をもっとも困難な局面から脱却させようと考えていたと思います。中米関係の戦略的な大局から考えて、中国は交渉を妥結させたいと希望していたのです。しかし合意される交渉内容は双方にとって有利な、Win-Win である必要がありました。米国側は最後になって、更に4月の条件を超える多くの理不尽な要求を出してきました。我々はこれを一つ一つはずしていきました。しかし、米国人はどうやら、どうしても新しいものを勝ち取らないと、なぜ4月の交渉内容を受け入れなかったかが説明できないと考えていたようで、それで非常に強硬な態度を見せていたのです。彼らは最後の瞬間まで芝居を続けていました。

11月14日夜7時すぎ、米国の交渉代表団のメンバーはすべてどこかに消えてしまいました。携帯電話にかけても、ホテルの部屋にかけてもつかまえられず、ただ1回だけ通じた電話で、相手側はとにかく今はもう休みたい、メンバーはバーに行ってしまったり、買い物に出かけたりしていて、明日の朝には帰国するつもりだと言ったのです。彼らはまたホテルのコンシエルジュにも電話をかけていて、人数が多いので空港まで先導車を1台、それから空港でのVIP待遇の手配も要求していました。すべての痕跡は彼らが明日間違いなく帰国しようとしているように見えました。

その晩11時に、私は米国大使館の臨時代理大使(当時大使は米国に帰国中でした)に電話をかけました。私は、こんなに世界が注目している交渉をしたのだから、常識として最後に双方でちゃんと会って、少なくとも今回の交渉の結果をマスコミにどう発表するかぐらいは相談するべきでしょうと言いました。およそ1時間後、米国通商代表が電話をかけてきました。彼女は、出発前にちょっと会うことは確かに必要ですねと言いました。私が、結構ですね、何時にしましょうかと言うと、彼女は4時半ではどうでしょうかと言ったのです。

朝4時半。私は心の中で笑いました。もしあなた方が本当にそのまま帰国するつもりなら、どうして4時半なんかに我々に会う必要があるのでしょう?10時の飛行機なのだから、7,8時にちょっと会って、30分もあれば十分でしょうに、と心の中で思いました。そこで、それはちょっと早すぎませんかというと、彼女は、いいえちっとも早くありません、私たちはまだ米国時間に慣れていますからと答えたのです。

私は彼女(米国通商代表)が絶対交渉をまとめようとしているとわかりました。4時半から7時半までの3時間は、最終文書の内容を全部「クリア」し、すべてを解決するのに十分な時間だからです。そこで私はすぐさま上層部に報告しました。交渉成立の可能性が大きいと考えたのです。果たして我々が4時半に行くと、彼らはもう交渉の協定文書を全部用意していました。そして双方は1ページ1ページずつ字句の確認を始めて、最後に7つの問題が残りました。彼女は、この7つの問題は中国側は必ず受け入れる必要があります、もし受け入れられないならいままで話し合った数十ページから100ページ以上にのぼる協定書は認められません、この交渉は失敗ということで終わらざるを得ないのですといいました。私は、あいにくですが、もし今協定にサインするつもりなら、これらの7つの問題は交渉の対象にはできません、と答えました。この7つの問題というのは、数日来かれらが強烈な圧力をかけてきて、何とか解決しようとしていたものだったのです。

私は交渉の状況について上層部に報告しました。上層部はすぐに決定を出しました。最後の山場で、朱鎔基総理が交渉の第一線に出現したのです。最近ネット上では、私が中米交渉の最後の詳細な状況を明かしたと言っていますが、実際は当時の香港の新聞に大きな見出しで朱総理が交渉現場に現れたと書いています。私は何も漏らしたわけではありません。全世界がみな、朱総理が交渉の第一線に自ら臨んで、最終的に交渉を終結させたことを知っています。

申し上げますが、朱鎔基総理の交渉術は大変なレベルです。到着するとすぐに私に向かって、龍永図よ、あとどんな問題が残っているか、簡単に書き出すように、細かい説明は要らないからと言われました。何度も説明を聞いているので細かいことはわかっているから、ただ、今問題になっているのはどれとどれかを知りたいのだ、1枚にまとめて、と。さらに、もし彼らが帰国の予定を変えるなら、私が交渉に出てもいい、と言われました。話終わってすぐ、米国人がやってきましたが、予定変更の話などまったくしませんでした――というのも彼らはそもそもその日の飛行機など予約もしていなかったのです。朱鎔基総理も余分な話は一切せず、こう言われました。この7つの問題のうち、2つは私として譲歩できますが、後はあなた方に必ず譲歩していただかなければなりません。もし受け入れられるなら、すぐに協定にサインしてかまいません。私はあなたとあれこれここで交渉するために来たのではないのです。私は最終的な決定をするために来ているのですと。

5対2は決して悪い内容ではなく、こちらが譲歩した2つの問題も別に特別重要なものではありませんでした。しかし交渉代表として、我々はこの7つの問題を最終ラインとしてあれだけ長く死守してきたので、少しとはいえ譲歩するとなると、とても喜んで譲る気にはなれませんでした。もちろんメンバーの誰もが交渉の定義とは妥協の芸術であるということもわかってはいましたが。米国側はこの2つの譲歩を勝ち取ったので存外の喜びぶりでした。というのも我々が少しの面子も与えず、7つとも譲歩しないのではと恐れていたからです。この結果は実際には彼らにも面子を与え、降りる足場を提供して、双方ともにサインする可能性ができたのです。ですから米国側はすぐにこれを了承しました。

記者:ということは、朱鎔基総理の2つの問題への譲歩が、5つの問題での(中国の)不譲歩と、中米交渉そのものの妥結を勝ち取ったということですね。

龍永図:重要なのは中米交渉そのものを勝ち取り、また中米関係の転機を勝ち取ったことです。朱鎔基総理はこう言われました。自分で来たいから来たわけではないと。それは総理の意向ではなく、江主席の意向であり、政治局常務委員会の決定だったのです。7つの問題のうち2つの問題で譲歩したのも、総理個人の決定ではなく、最高指導者層の政治的決定を総理が執行したということです。このような交渉の最終局面では、確かに政治の指導者による戦略的、大局的な高みからの決定が必要です。

長年の交渉の経験は私に、交渉の最も鍵になる時には、中米交渉にしろ、中欧交渉にしろ、そのほか世界相手の交渉にしろ、政治指導者による後押しがないと、交渉はなかなか進められないということを教えてくれました。これは貿易交渉のひとつの法則ともいえるでしょうし、我々が数年間の貿易交渉の中で学んだ非常に重要なポイントです。

記者:7つの問題中譲歩した2つの問題とは、保険と金融面での譲歩ということでしょうか?

龍永図:譲歩した2つの問題は保険と金融の方面での譲歩ではありません。我々は保険と金融の面ではいかなる譲歩もしてはいません。

中国とEUとの交渉は、相当程度EUという巨大な経済体としての自尊心の要求を満たすという性格を持っていた

記者:先ほど話題になった中米交渉は15年間の交渉の中でもっとも難しかった部分ですね。精神的に相当な圧力のかかる、紆余曲折の交渉の後、当時多くの人は中国は1999年内にはWTOに加盟するのではないかと考えました。しかし、直後に中国はEUとの交渉に直面することになりました。ではどうしてまたこのような挫折が出てきてしまったのでしょうか?

龍永図:国際関係は非常に微妙なものです。米国は当然経済力を背景に鼻息が荒いのですが、EUからすれば加盟15カ国の経済総量は米国を上回っているわけで、これも決して油断できない勢力です。長年、中国としてはまず先にEUとの交渉をまとめ、それを対米交渉の弾みにしようと考えてきました。しかしEU15カ国はそれぞれ非常に強い声を持っていて、EUがこれら15カ国の立場を調整するとなると、これまた非常に難しいものなのです。一部のEUの代表達は我々にそっと、「我々には先にあなた方と合意できない政治的な事情があるのですよ」と教えてくれました。私はそれで彼らの苦しみを知りました。だから我々は米国と先に交渉を妥結させ、その後すぐにEUと妥結したのです。なぜならEUの出した要求は米国のそれと基本的にはほとんど変わりなかったからです。WTOはこういうルールです。WTOの市場開放の要求とはそれだけで、もっとも強い相手と交渉が妥結した後に、まだ不満足なところが出ることはありえないのです。

しかし、最後になって、EU側には米国と競争しようという心理が生まれました。EUの代表は我々に、晩餐会を例えに出して、あなた方が米国人に出したのとまったく同じメニューの料理を私たちにふるまおうとするならそれは困る、我々には我々の要求があるのだから、と言いました。EUとの交渉は、相当程度EUという巨大な経済体としての自尊心の要求を満たすという性格を持っていたのです。もちろん、EUは自分たちの具体的な問題を持っていて、我々は交渉に数ヵ月を要しましたが、その時間のほとんどは基本的にこれらEUが特に関心を持っている問題に費やされたのです。

外国人は中国がWTO加盟交渉で行ったこれほど多くの約束が本当に履行できるのかどうか疑っている。このような懸念は今でもなお存在している

記者:EUとの交渉妥結の後、どうしてまたさらに1年余りも交渉が続いたのでしょうか?

龍永図:EUとの交渉が終わると、今度はマルチの交渉のプロセスに入りました。中国は30余りの国とバイの市場アクセス交渉を行ったのですが、WTOの規定ではこれら30余りの交渉で妥結したものを一つの協定にまとめなければなりません。中国がWTOに加盟する際、37もの議定書が存在するわけではなく、ただ一つの総合的な議定書しかあり得ないのです。この議定書を取りまとめる際、多くの技術的な問題を解決していく必要があるのです。例えば、コロンビアと妥結したコーヒーの関税率は15%で、一方ブラジルとは12%だったとします。するとWTOの規定で、最終議定書に反映集約させるのは一番いい交渉結果でなければなりません。これが大変複雑な作業なのです。

それから、我々中国の十数年来の交渉結果をひとつの報告書にとりまとめなければなりません。15年間に何を話し合って、中国はどんな約束をしたか、外国側はどのような要求を出したか、これが中国のWTO加盟の法律文書です。この法律文書の作成過程で、たいへんな困難があったのです。

当初我々はみな、もう米国、EUとの交渉が終結したのだから、これからはスムーズに行くはずだと考えていました。しかし実際は決して特別スムーズに行ったわけではありませんでした。それには彼らの問題もあれば、我々の問題もあったのです。彼らの方の問題といえば、西側諸国は中国に対する信任の度合いが終始あまり強くなかったことで、中国は果たして約束を履行することができるのだろうかといつも疑っていて、そのために大量の弁護士を動員して、出現する可能性のあるすべての法律上の漏れをふさいで、中国が今後協定を履行するときには、約束通りにきちんとできるようにしようとしたのです。

我々のほうからいえば、確かに法律上の意識があまり強くないという要素がありました。たとえば、中国人はよく「原則的に同意する」という表現を使いたがりますが、何に同意するのか?というと、どう答えてよいか自分でも分かっていないことがあります。例を挙げれば、対外貿易経営権の開放という問題において、我々は「この3年内に、中国の対外貿易経営権を全面的に開放することに原則的に同意する」といいました。最後に法律文書の作成をする段になって、彼らは、3年で開放するといっても、今まったく開放せずに、3年たってから突然全面開放するというわけにはいきません。最初の年には何を開放し、二年目には何を、更に3年目には何を、と明確にしてください、それから開放の基準は何ですか、外資企業に対してはどう開放し、国有企業に対してはどう開放するか、民営企業にはどう開放するか、明確にしてください、と言ってくるのです。彼らはちゃんと紙に文字で書き出すことを求めます。だから後になって法律文書の作成過程で、更に長い時間がかかったのです。

私はもっとも根本的な問題は、彼らの私たちに対する信任の度合いにやはり問題があるということだと思います。彼らは中国がWTO加盟交渉であれほど多くの約束をしているが、果たして本当に履行できるのか疑っています。この種の疑念は今でもまだ存在しているのです。

重要な時には、私は涙を流していません。たぶん肝心な瞬間なので、より多くの理性的なことを考えているからだと思います

記者:15年間の交渉は非常に困難で苦しい道のりだったでしょう。「開始時に黒かった髪も妥結の時にははや白髪に」なってしまったというわけですね。あなたは1992年からGATT復帰交渉の中国側秘書長(事務局長)をつとめ、その後WTO加盟交渉の首席代表となりました。その間、WTO加盟はいろいろ論議のある問題だったので、あなたの演じる役柄について、ある人はこれを「民族の英雄」と評したり、またある人は「売国奴」といったりして、非常に両極端の評価があったわけですが、あなた自身はこれをどう思いますか?

龍永図:あなたがいま言われたような評価はどちらにしてもおそらく極端すぎるきらいがあるでしょう。私自身からいえば、我々はただ当然すべきことをしたまでだ、ということです。我々に対してさまざまな毀誉褒貶があるのは、みな状況をよく理解していないからだと思います。このように大きな歴史のプロセスの中で、我々のなした貢献などは非常に限定的なものなのです。したがって我々に対する誤解も、時間の経過とともに次第に消えていくでしょう。私自身はこのことを非常に穏やかな心情で受けとめてきました。どんなことにも、終われば必ず結論というものが出ます。歴史上の多くの事実がそうであるのと同じで、たとえ最初は明確な判断ができなかったとしても、歴史はいずれ公正な評価をしてくれるはずです。

記者:報道では、あなたはこの15年の交渉の過程で何度も涙を流したことがあるそうですが、それは本当でしょうか?

龍永図:私は生まれつきあまり泣かないほうです。交渉の中で私がただ一度だけ涙を流したことがあるのは、2000年初めのEU大使との交渉の時でした。このEU大使はたいへん有名な中国通で、私の友人でもありましたが、しかし同時に自己の民族が非常に優越していると信じている、典型的なある種の人間でもありました。当時中米間では交渉が妥結し、EUとの交渉もすでに終わりが近づいていて、あといくつかの小さな問題を残すだけになっていました。彼は私と交渉の際、突然ある非常に強硬な手段をとったのです。彼はこういったのです。中国がもしある問題を受け入れなければ、EUとしては中国のWTO加盟を支持することはあり得なくなると。私は彼がはったりをかけているのだとわかっていましたが、友人として、どうしてそこまでやらなければならないのでしょうか?

私が最大のプレッシャーを感じたのは、中米交渉を妥結させるときではなくて、中米の交渉妥結のその後でした。なぜなら、全国、全世界の期待値は、いずれも中国はもうまもなくWTOに加盟するんだということになっていたからです。ですから私のプレッシャーが最大だったのは1999年末から今年9月にジュネーブで全面的合意に達するまでの間です。期待値がないときは、私はプレッシャーは感じませんでした。というのも、当時(党)中央の我々全交渉に対する指導思想は急がずあせらず、機が熟すのを待てばよいというものだったからです。私自身、自分が把握している交渉のリズム、ペースには非常に自信を持っていましたし。私が本当に焦りを感じたのは、1999年11月に中米交渉が妥結した後のことです。当時、全国の国民にはあれほど大きな期待があって、中央にも非常に大きな期待感がありました。そういう状況でもしすぐに問題が解決されないとなれば、いったいどう申し開きをすればいいのでしょうか?

しかし、実情は再三にわたる遅延で、当初は1999年内にと感じていたのが2000年になり、しかも多くの事情を国民に明かすわけにはいかず、またあちこち行ってどんなことが起こったか等しゃべるわけにはいかなかったのです。ですからその時期、私の情緒は非常に起伏がありました。一つのことがまもなく成功しようとしているときに、あるいは非常に重大な局面の転換の可能性、紆余曲折の可能性があったら、心穏やかにはいられません。

EUの大使がその発言をした晩、私は一晩まんじりともしませんでした。翌日、私はもともと対外経済貿易大学の学生たちに講演する約束をしていたのですが、血圧が急に上昇してしまったため、学生たちにできなくなったとお詫びをしたのです。私は、今日は講演ができなくなりましたと言って、前日に発生したことを話したのですが、そのとき涙を流してしまいました。これは心理的プレッシャーの一種の発散でした。

とはいえ、私は重要な時には、例えばあなた方がみなよくご存知の何度かのもっとも肝心なときには、涙を流したことはありません。1994年のあのときも、私と多くの同僚たちは最大の努力を傾注して、中国がWTO誕生前に、その創始メンバーとなるよう望みました。当時の私の心情は、昔中国はGATTの創始メンバーだったのだから、当然WTOの創始メンバーでなくてはいけないと考えていました。しかも、私はWTOのオブザーバー席にもう非常に長いことすわっていたので、当時WTOとGATTが会議を開く際、あまり出たくはありませんでした。オブザーバーのあの隅っこの席にこれ以上とどまり続けるという、そのような「待遇」を享受してはいたくなかったのです。WTOとGATTのすべてのメンバーの話が終わってから、私には初めて発言の資格が与えられるのです。これは一つの大国の代表としては耐えがたい屈辱です。

1994年は実はブレークスルーの希望が非常に濃厚だったのです。しかし、国内の一部の部門間の調整が不十分だったことと、中国のWTO加盟の意義への認識が不足していたために、役所間で互いに牽制しあう事態となり、これが結局足を引っ張ることになったのです。例えば当時交渉の滑り出しは非常に順調でした。オーストラリアとニュージーランドの代表は我々に対して、絶対に中国を支持するが、羊毛の輸入割当問題を解決するよう希望すると表明してきました。当時上層部が我々に授権したのは毎年16.9万トンの羊毛輸入枠で、一方オーストラリアとニュージーランドが要求してきたのは18万トンでした。彼らは、もし中国が18万トンに同意すれば、オーストラリアとニュージーランドは全力で中国(の加盟)を支持するといいました。両国とも西側で、もし西側諸国の交渉の陣営に分裂が起これば、中国のGATT復帰のチャンスは大きくなるわけです。私はこの18万トンの数字に同意したかったのですが、私が交渉代表団のほかのメンバーとこのことを話し合ったとき、彼らはすべての可能性をも封じてしまったのです。私は仕方なく16.9万トンの数字で交渉するしかなく、最後はオーストラリアとニュージーランドの要求を拒絶しました。その結果、両国とも断固として米国の側に立つことになり、非常に強硬な交渉に臨んできました。私が意気沮喪を感じたのは、1994年我々は実際には31万トンの羊毛を輸入し、18万トンの要求をはるかに上回ったことです。当時の管理は非常にゆるく、「一般貿易輸入」、「加工貿易輸入」およびその他の貿易形態の輸入がそれぞれ存在し、管理もそれぞれ別部門が担当し、自分のことしか考えていなかったので、全国で毎年どれだけ羊毛を輸入しているかさえも、はっきりと把握してはいなかったのです。その結果、16.9万トンという不可解な数字を持ち出してきたのですが、一方オーストラリア、ニュージーランド側は毎年自国がどれだけ輸出しているか、また当時の中国が毎年平均して22万トンを輸入しており、18万トンの要求は決して過大なものではないことを明々白々に知っていたのです。このような状況で、私は当時の我々の全経済管理体制、特に我々の輸入管理体制には非常に大きな問題があって、改革しなければならないところが実に多すぎるということを感じました。

1994年の攻めでは攻めきることができなかったその大きな問題は、内部調整と管理体制にあったのです。ですから私が感じたのは失望でした。失望を感じた人間、特に私のような人間は泣くことはまずあり得ません。

その後が1999年ですが、新聞には1999年11月中米交渉妥結後、私が泣いたと書いてありました。しかし、それは間違いです。私は感情が高揚しているときには泣きません。泣いてどうなるのでしょうか!最後合意に達したとき、私がそのとき頭の中で思い当たったのは、合意が成立したということではなくて、それぞれの問題についてどう交渉すればもっとよかったかということでした。私には残念なことが多くあって、その日私は調印式には出席せず、その交渉の協定の条文のことばかり考えていました。私はいまだかつて、勝利の喜びというようなものは感じたことがありませんし、まして泣いたことなどありません。皆さんがテレビをご覧になれば、私があの日、少しも笑っていないことがわかるでしょう。あの時私はまだ交渉の細かい状況を思い出しながら、どこをどう押さえておけばもっとよかったのではないか等と考えていたのです。私は責任感の強い、完全主義者なのです。

一部のある人たちは、私が今回9月、最終的に交渉が全面的に終結するとき、涙を流したといっています。これも間違いです。私はあの時も、まったく笑顔がなかったと思います。ただ外国人が私と乾杯をする際、外交儀礼上私は笑いましたが。私は重荷をやっと下ろして、一応これで終わったということしか考えていませんでした。特に激しい感動もなく、まして涙を流すなど考えられません。時々ネット上のニュースのタイトルに「泣くな龍永図」等と書いてあるのを目にしますが、私が何の涙を流すというのでしょうか?

しかし、私のことをまったく感情のない人間だということはできません。私はとても感情のある人間なのです。時々普通のテレビドラマを見ていても、涙がでることがあります。しかし、重要な時には、私は涙を流していません。たぶん肝心な瞬間なので、より多くの理性的なことを考えているからだと思います。

記者:私たちは最近WTO加盟前後の法律の改正の仕事を取材しましたが、この問題についてはどうお考えですか?

龍永図:中国の対外経済貿易法律体系で存在する主な問題点は、まず透明性の問題です。かつてはいわゆる内部文書というものが非常に多く、今我々としてはこれら大量の内部文書の整理にとりかからなければならないのですが、廃止するか、公開するか、または改正後公開しなければなりません。これが我々がWTO加盟で約束した点です。

二番目の問題は、WTO加盟後、我々はこれまで不足していた多くの法律法規の制定に着手しなければなりません。たとえば「アンチ・ダンピング法」、「反補助金法」や、セーフガードに関する法律などです。我々はこれらの国内法規を整備することによって初めて、自己の利益の保護を実現できるのです。WTOの規定によれば、WTOのルールは決してメンバーに対して自動適用になるのではなく、そのメンバーがまずWTOの法律の条文を自身の「国内法」に転化させ、その後ですべてのメンバーが自身の「国内法」として実行しなければならないのです。

記者:最近上海で閉幕したAPECの会議をどう評価されますか?今回の会議はまもなくドーハで開かれるWTO閣僚級会議に積極的な影響があるでしょうか?

龍永図:今回のAPECの会議は世界経済に困難が生じ、WTOも困難な状況に置かれる中で開かれるものです。WTOの新ラウンドの交渉が今後行えるかどうかは、新たな経済現象の出現後に新たなゲームのルールを制定しなければならないというだけではなく、更に重要なことはWTOへの信頼回復の問題です。なぜなら1999年のシアトル会議の失敗は、多国間貿易体制にとっては非常に大きな衝撃であり、WTOの地盤沈下をどう救うか?という問題だからです。このほかに、世界の地域的経済の発展も、全世界の貿易体制に対する挑戦であり、このような状況下で地域経済ブロックと多国間貿易体制との関係をどのように処理していくかも、非常に重要な問題です。今回上海APEC会議は確かに新ラウンド交渉の場の創設に明確な意思表示を行い、政治的に新ラウンドの交渉実施を後押ししました。私は新ラウンドの交渉の展望はいまだかつてこれほどよかったことはないと思いますので、APEC会議は非常に大きな貢献をしたと評価しています。

翻訳:日中経済協会 中島俊輔

2001年12月18日掲載

出所

『財経』雑誌 2001年11月5日号 「龍永図:談判是這様完成的」 記者 胡舒立 特約記者 胡野碧(文)
※和訳の掲載に当たって、『財経』雑誌の許可を頂いている

2001年12月18日掲載

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