1.生成AIショックはすでに始まっている
2022年12月にChatGPTが登場して以来、生成AIは急速に社会へ浸透している。文章作成や情報収集、翻訳、プログラミングなど、さまざまな事務作業で活用が進み、企業だけでなく個人レベルでも利用が広がっている。AIはもはや一部の専門家だけの技術ではなく、多くの人々が日常的に接する汎用技術となり始めた。慶應義塾大学大久保敏弘とNIRA総研が実施している就業者パネル調査(第14回調査:2026年2月-3月実施)でもこの変化は明確に表れている。例えば、仕事での生成AIの利用率は時系列で上昇し着実に増えている(図1)。2026年3月時点で27%の人が月1回以上は利用している。利用頻度にも大きなばらつきがみられる。生成AIをほとんど利用しない人がいる一方で、毎日利用する人も少なくない(9%)。また、利用目的をみると、文章作成や情報収集、アイデアの整理など、事務や知的作業を支援する用途が中心となっており(図2)、単なる物珍しさではなく、実際の仕事の中へ浸透し始めていることが分かる。さらに興味深いのは利用者は生産性の向上を実感している割合が高いが、同時にばらつきも大きい(図3)。定期的に仕事で利用している人に限定して仕事効率の変化をみると、「効率向上」が74%、「変わらない」が24%、「効率悪化」は2%である。もちろん、生成AI利用による生産性向上がそのまま賃金上昇につながるとは限らない。しかし、生成AIを効果的に活用できる人ほど、仕事の成果や評価、ひいては所得面でも優位に立つ可能性は十分考えられる。もちろん、生成AIによる格差はまだ十分観察できる段階ではないかもしれない。しかし、その格差を生み出すメカニズム、すなわち「格差の源」はすでに見え始めているようだ。したがって、本当に重要な問いは、「どれだけ多くの人が生成AIを利用しているか」ではない。AIによって利益を得る人とそうでない人が現れ始めたとき、人々はその利益を社会全体で共有すべきだと考えるのだろうか。それとも、自らの成功を期待し、再分配に否定的になるのだろうか。AI革命が本格化する中で、この問いは今後の制度設計を考える上で避けて通れない論点となる。
2.AI時代、人々はどのような社会を望むのか
生成AIの普及が経済へ与える影響については、生産性や雇用への効果を分析した研究が急速に蓄積されている(Brynjolfsson, Li, and Raymond, 2023など)。一方で、生成AIが人々の政治意識、とりわけ再分配政策(例えば、一律給付や減税による所得再分配)への支持をどのように変えるのかについてはまだ十分に分かっていない。直感的にはAIによって所得格差が拡大するのであれば、人々は再分配をより支持するようにも思える。しかし、経済学ではその答えは決して自明ではない。これまでの政治経済学の研究を踏まえると、少なくとも三つの考え方がある。
第一は、Rodrik(1998)が提示した「補償仮説(Compensation Hypothesis)」である。グローバリゼーションや技術革新は経済全体の生産性を高める一方で、一部の産業やその労働者には大きな調整コストをもたらす。そのため、人々は経済成長そのものには賛成しながらもその利益を社会全体で共有するための再分配や社会保障を求めるようになるという考え方である。AIについても将来への不確実性が高まるほど再分配への支持が強まる可能性がある。
第二は、Bénabou and Ok(2001)が示した「将来所得期待(Prospects of Upward Mobility)」の考え方である。AIを活用できる人ほど自らの所得やキャリアの向上を期待するようになる。その結果、将来自分が負担するかもしれない税や再分配を望まなくなる可能性がある。つまり、AIへの支持と再分配への支持は必ずしも両立しない。
第三は、Alesina and Angeletos(2005)の「公平性(Fairness)」の考え方である。重要なのは格差そのものではなく、その格差を人々がどのように理解・評価するのかである。AIによる成功を能力や努力の結果と考えるならば、それによる報酬は正当であるので再分配への支持はするものの弱くなるだろう。一方で、AIの恩恵が偶然や環境、あるいは利用機会の違いによって生じると考えるならば、格差是正への支持は強まり得る。こうした公平性に対する認識は、社会的信頼や地域社会とのつながりといった社会関係資本(Social Capital)とも無関係ではない可能性があり、AI時代の政策を考える上でも興味深い論点である。
3.ChatGPTショックは人々の再分配意識を変えた
このように、AIが社会へ浸透したとき、人々の政治意識がどのような方向へ変化するのかは理論だけでは判断できない。そこでOkubo and Wagner (2026)は日本全国約1万人を対象とした大久保=NIRA就業者パネル調査を用いて、この問いを実証的に検証した。このパネル調査は2020年から継続して実施されており、同じ回答者を追跡することで人々の意識がどのように変化したのかを分析できる。研究で特に注目したのは、2022年12月のChatGPT登場である。ChatGPTの登場は、生成AIを一部の研究者やIT技術者だけのものから、多くの人々が実際に利用できる技術へと一変させた。言い換えればChatGPTの登場は人々のAIに対する認識を短期間で大きく変えた「AIショック」であった。
Okubo and Wagner (2026)ではこのAIショックを利用して分析した結果、興味深いことが分かった。政府によるビッグデータやデジタル社会経済の推進を支持する人ほど、あるいはAIの影響を受けやすい職業ほどAIショックを通じて再分配政策(例えば、一律給付や減税)への支持が高まる傾向が確認されたのである。さらに、この結果は、一律給付や減税への支持だけでなく、所得格差の縮小や高所得者への課税強化といった、より直接的かつ具体的な再分配政策についてもおおむね同様に観察された。 この結果は、前節で紹介した三つの仮説のうち、Rodrikの補償仮説と最も整合的である。またAlesina and Angeletos(2005)の公平性も一定程度観測された。すなわち、人々はAIによる経済成長を望む一方で、その利益やリスクを社会全体で共有する制度も同時に必要だと考えていることを示唆している。
ここで重要なのは、Okubo and Wagner (2026)の研究が「AIは再分配を必要とする」と即結論付けているわけではないことである。研究で明らかにしたのは、人々の選好(preferences)である。AIが社会へ浸透するにつれて、人々がどのような制度を望むようになるのか、その方向性を日本のデータから示した点に研究の意義がある。 もちろん、こうした選好がそのまま政策として実現されるとは限らないし困難を伴う。人々の意識と実際の制度との間には政治や政策決定のプロセスという大きな隔たりが存在する。この点こそがAI時代の政治経済学に残された重要な課題である。ChatGPTショックは新技術の普及や適応といった側面だけではなく、「どのような社会を望むのか」、そして「どう制度や政策として実現させるのか」という問いも私たちに投げ掛けている。
4.AI時代にグローバリゼーションの教訓を生かせるか
このようにOkubo and Wagner (2026)は人々の選好・意識が再分配を支持する方向へ変化している可能性を示した。しかし、人々が望む制度がそのまま実際の制度になるとは限らない。ここで思い起こされるのがグローバリゼーションの経験である。1990年代以降、世界では貿易や投資の自由化が急速に進展し、世界経済は「脱国境化」した。グローバリゼーションは世界経済の成長を大きく押し上げ、多くの国で所得水準の向上をもたらした。特に中国やインドが飛躍的に発展するなど、世界経済の「大収束(Great Convergence)」が起こった。その一方で、特に先進国では国内に目を転じると産業や地域、労働者の間でグローバリゼーションによる利益と負担が均等に分配されたわけではなかった。Rodrik(1998)はこうした問題を早くから指摘していた。グローバリゼーションが進むほど貿易や投資が活発化する一方で、調整コストを負担する人々への補償や再分配が必要になるという「補償仮説(Compensation Hypothesis)」である。自由貿易を推進することと政府による再分配を充実させることは、本来は対立する政策ではなく、車の両輪であるという考え方である。
しかし、現実には必ずしもそのような制度設計は実現しなかった。グローバリゼーションがもたらした利益は決して小さくなかったものの、その果実を十分に皆で共有できたとは言い難い。その結果、多くの国で所得格差や地域間格差への不満が蓄積し、保護主義やポピュリズムの台頭、さらには近年では「ディスグローバリゼーション」とも呼ばれる世界分断の動きが広がっている。もちろん、グローバリゼーションそのものが誤っていたわけではない。世界経済全体で見れば、その恩恵は極めて大きかった。しかし、その利益を社会の中で十分に共有する制度設計が追いつかなかったことが現在の政治的・社会的な分断を生んだ一因である。
今日のAI革命も同じ岐路に立っているように思われる。大久保・NIRA就業者調査からは、生成AIを頻繁に利用する人ほど生産性向上を実感している姿が見えてきた。生成AIは経済全体の効率性を高める一方で、その利益は均等には分配されない可能性がある。人々はAIによる成長を支持すると同時に、その利益を社会全体で共有する制度も求め始めているのかもしれない。
しかし、人々の選好が実際の制度へと結び付くかどうかは、全く別の問題である。人々の強い選好があってもそれが政治の場でどのように議論され集約され、どのような制度として実現されるのかは単純には決まらない。グローバリゼーションの経験は人々の「選好」と「制度」の間には大きな隔たりがあったため、制度設計が立ち遅れ政治的・社会的分断をもたらした。したがって、AI革命の時代に問われているのは、AIを推進するかどうかという二者択一ではない。AIが生み出す利益を社会全体で共有する制度を、技術の普及と同時に構築できるかどうかである。グローバリゼーションが残した教訓を踏まえれば、その制度設計を後回しにすることのコストは決して小さくない。
5.結び
本稿では、生成AIの普及が人々の再分配に対する意識をどのように変えるのかについて、日本のデータを用いた研究を基に考察した。AIは生産性を高める大きな可能性を持つ一方で、その利益は均等には分配されない可能性がある。重要なのは技術革新そのものを止めることではなく、その果実を社会全体で共有できる制度を同時に構築することである。グローバリゼーションは世界経済に大きな恩恵をもたらした。しかし、その大きな利益を十分に共有する制度設計が追い付かなかったことが、現在の政治的・社会的分断の一因になったことも否定できない。AI革命は、こうした経験から学ぶことができる初めての大規模な技術革新である。AIがもたらす経済成長とそれを支える制度設計を両立できるかどうか、その成否が日本経済・社会の将来を左右することになるだろう。