第43回──RIETI政策シンポジウム「経済社会の将来展望を踏まえた大学のあり方」直前企画

長期的な日本の利益を考えた大学改革議論を

玉井 克哉
ファカルティフェロー

国立大学法人という新しい仕組みが始まってから4年、日本の大学改革をめぐって、さまざまな議論が存在しています。RIETI政策シンポジウム「経済社会の将来展望を踏まえた大学のあり方」では、知識経済への転換という大きな節目を迎えつつある日本経済の現状を見据えつつ、そこで求められる大学像とは何かについて議論を深め、合理的な根拠に基づく政策形成(evidence based policy making)の実例を示すことを目的にしています。
本コーナーでは、シンポジウム開催直前企画として、玉井克哉ファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授に、ミクロ・マクロの視点から見た国立大学法人のガバナンスの問題点や、本シンポジウムの見どころについて伺いました。

RIETI編集部:
玉井先生は国立大学法人のガバナンスについては、ミクロとマクロの両方の視点が必要とお考えですが、その観点から現在の争点を読者のためにお聞かせください。

玉井:
玉井克哉ファカルティフェロー まず国立大学は、ご承知のとおり2004年4月1日より、法人化し、国立大学法人となりました。したがって、国立大学法人運営交付金(以下交付金と記述)という自由なお金が文部科学省から各法人に配分され、それで運営するシステムとなっています。平成20年度交付金総額は、1兆727億円となっておりますが、財政事情が厳しい我が国の現状からすると、その総額を今後増やすということは考えにくい。

他方、大学側としては、学問は進化していきますし、新規の分野もできてくるわけですから、交付金を増やして欲しいわけです。そういった状況の中でやり繰りしなければならないという問題がまずあります。その場合、マクロで見れば、より効率的な交付金の使い方があるのではないかということで、これまでの交付金の配分方法を変えたらどうかという議論があります。そのことは、財務省からの声もあり、文部科学省も考えているようですし、大学にもあります。では、実際にどう変えたらいいかということですが、それを考えるにあたり、まず現状はどういう風に配分されているのか、という現状認識が前提になるべきです。

RIETI編集部:
そうですね。

玉井:
ところが、実は、現状がどうなっているかがよくわからない。もちろん、結果として、たとえば、大阪大学にいくら配分され、熊本大学にはいくら配分されましたということは、法人ごとに経理が公開されていますから明らかになっていますが、なぜその配分額になったのかという根拠は、実はよくわからないのです。

RIETI編集部:
明確な根拠の説明が公開されていないということでしょうか?

玉井:
ええ。正確な計算式まで公開されてはいないので、実際にはよくわからないということです。もう少し細かくいいますと、いわば自動的に配分される部分のほかに、特別教育研究経費といいまして、各大学法人がかくかくしかじかの理由で必要なのだと文部科学省に要求(提案)して認められる部分がありますが、それはもともと裁量的に分配されているものです。しかし、それ以外の、いわば自動的に配分される部分も、何を根拠に分配されているのかはよくわからない。私どものプロジェクトにおいて、さまざまな計算式を仮定し、シミュレーションを行ったのですが、ピタっと合うような計算式はない。しかし、大雑把には教員数に比例して配分されているということはわかっています。

RIETI編集部:
ということは、人件費の部分に重きをおかれているということなのでしょうか?

玉井:
人件費が大きいのですが、教員数に比例しているということは、教員数と比較して学生の少ない大学が、潤沢な経費をもらっているということになります。端的にいえば、東京大学や京都大学には多数の附置研究所があり、学生の教育を本務にしない教員が配置されていますが、そういうところは教員数が多くなります。そういう配分方法であるとの前提で話を進めますと、それ以外の配分方法として、さまざまなやり方が考えられる。たとえば、学生数に比例して配分する、その場合の学生数も、法学部と医学部では経費が違うから医学部生1人で法学部生10人分といった係数をかける、とかいったことです。

RIETI編集部:
なるほど。

玉井:
しかしそうなると、そもそも「国立大学は何のためにあるのか」という議論を避けて通るわけには行かなくなります。つまり、学生数に比例させるということは、国立大学というのは教育のための施設で、学生を教育することによって国民(納税者)に正当性を認められているのだ、だから我々納税者のお金を投入しているのだ、という説明になるのでしょう。したがって学生数に比例させて配分すればよい。しかしその際、単純に学生数に比例させるという考え方もありますが、私の出身の法学部のように大教室でマイクを持って教育するというスタイルが主なところと、薬学部や医学部のように学生1人1人の実験に十分なお金をかけるというところではお金のかかり方が違う。それはただ単にお金のかかり方が違うだけではなくて、薬剤師や医師は国家的見地から必要なものである、だからお金をかけてでも教育する、それに比べて法学部から国家的に必要な人材が出る確率は医学部の10分の1くらいである、だから法学部生1人分の10倍が医学生1人分である、というように係数を掛けるのも1つの考え方です。そのような重み付けを踏まえた比例という方法も含めて、学生数に比例させるというのは、国立大学は教育のための施設だという考え方ですね。

RIETI編集部:
たしかに1つの考え方ですね。

玉井:
他方で、そうではなく、国立大学とは研究のための施設であるという考え方もあるわけです。少々落ち目ではあるが、日本は依然として世界第二の経済大国である、国の威信を発揚するにもノーベル賞をもっと獲得したほうがいいのではないか。これは総合科学技術会議などでも議論されましたし、そういう意見は、国民の多くから賛同を得ています。それを実現するには研究水準を高めなければならない。そして研究水準というのは学生数には比例しないわけですから、それを高めるためにはどうすればいいかといえば、ノーベル賞の取れそうな分野に手厚く配分するという方法になるわけです。

同じように研究を重視するといっても、ノーベル賞を取れる研究という目標以外に、別の考え方もあるかもしれない。研究の中でも日本にとって重要な研究、あるいはその大学で行う研究があるのではないかという議論です。

たとえば「どうして日本の文学部に独文科や仏文科があるのか」「ドイツ文学はドイツ人にまかせればいいのではないか、あるいはドイツ人ではなくても、もうすこし言語的に近い、英語やフランス語が母国語の人がやる方がはるかに効率よく研究ができるはずなのに、どうして日本で研究しているのですか」と、こういうことを聞かれることもあります。そうすると日本に必要な研究とそうでもない研究があり、必要な部分に重点配分すべきではないか、たとえば国文学や日本史に重点配分すべきではないかという議論が生まれるわけです。

RIETI編集部:
それだと、いまの大学を大きく変えることになりますね。

玉井:
ええ。しかしもちろん、大きく変えるのはそれ自体いけないことだという考え方もある。大学人の大半はそのような意見だと思います。つまり、大学というのは、浮き草稼業ではない。今年必要だとされるような分野は、かえって息が短い。3年後には必要ないとされるかもしれない、10年先には要らないとされる可能性が非常に高い、そのようにころころ変わるのは、そもそも大学の本質に反するという意見です。100年単位で変わるというなら、それは仕方がない。しかし、大学が担うべき役割とは、たとえば、先日新聞に出ていたのですが、中世の思想家であるトマス・アクィナスの著作を翻訳し出版する、そういったことが、大学がやるべきことであり、それがいまの日本にとって必要だとか必要でないとか、誰かえらい人が決めて必要ないことはやらないというのはそもそもおかしいのだという考え方もあります。そういう考え方からすれば、必要な分野に重点配分しようというような議論がはじめからおかしいということになるのです。

RIETI編集部:
なるほど。しかし、変えることがそもそも良くないという考え方は、通りにくそうですね。

玉井:
残念ながらそうです。しかし、大学のあり方を大きく変えるとしても研究と教育、研究の中で日本にとって必要か必要でないかといった軸のほかに、もう一つの軸もあり得ます。今、大体80の国立大学があり、国立大学のない都道府県というのは存在しません。最低各県に1つはあるという状況ですが、それらがそれぞれ担っている役割に違いがあるのではないかという議論です。つまり、国立大学全体としてどういう役割を担うのかということを問うのではなく、たとえば、研究について中核になるような大学と、主として教育を担う大学というのは違うのではないかという議論があるわけです。

そして、もし研究水準を担う大学があるのだとすると、研究のための予算はまずそちらに配分する、という議論です。他方で、各県に1つ以上国立大学がある体制というのは、教育のためであろう、つまり、各地域に必要な人材を生み出すためだろうと考えられます。

RIETI編集部:
各地方の核になるような大学は研究中心、それ以外はどちらかといえば教育中心、と考えるわけですか。

玉井:
ええ。それで、われわれのプロジェクトで議論したのは、もし地域に必要な人材を養成するのが多くの国立大学の役割であるなら、それぞれ地域にどういう人材が必要なのかということは、それぞれ地域ごとに決めればいいのではないかと。これは地方分権の議論とオーバーラップするわけですが、たとえばある県に教育学部と工学部と医学部を持つ国立大学があるとして、教育学部の卒業生は主として地元の学校の先生になり、工学部の卒業生では地元企業に勤める人が毎年何割かいる、しかし医学部を出た人はほぼ全員県外に去ってしまうといったことがあるとします。県の方でそういう学部をもっても意味がないと判断をし、それならば産業振興のために工学部にテコ入れしようというのであれば、それでいいのではないか、という考え方です。

にもかかわらず、そのような住民の意思に反して中央からコントロールする必要があるとすれば、それはなぜか。議論を進めるなら、中央がコントロールする必要がないなら、国立大学への交付金として国から国立大学法人に配分されているお金は地方交付税交付金と一緒にして、都道府県庁に配分すべきだということになります。うちは医学部重点にしたい、うちは教育だと、それぞれの県で決めればいいという考え方です。そういった大学と、国全体の研究水準を担う大学、あるいは国に必要な人材を世話する大学、という風に大学を分けるべきではないかという考えもあります。

RIETI編集部:
それも大きな変化になりますね。

玉井:
ええ。もちろん、国がコントロールする意味はあるという議論もあります。地方の首長というのは4年くらいで代わる可能性がある。しかし医学部を造ったり止めたり、4年単位で変えるわけにはいかないだろう、何でもかんでも地方に任せる、民意に委ねるというのは違うのではないかという意見です。それに、もしそういう考え方で一貫するのであれば、今現にある大学に、そういう配分をするのが適切かということも問題です。

つまり今までは、先ほど申し上げたように、よくわからない根拠でそれぞれの大学に交付金が配られ、それを前提にそれぞれの大学が運営されているわけです。性格が違うのだから、配分の仕方を変えましょうといって、ある大学は沢山の予算を与えられ、別の大学は少ないということになれば、それは話が違うということになると思います。学部なら基本的に学生は4年で入れ替わりますので、4年間の計画表をおけばいいわけですが、教員は定年までいるとなると何十年と居ます。現状を前提に、自分はいまいる大学で世界水準を目指して研究をしているのに、ある日、突然ここは教育重点大学である、もう研究の予算はありませんとなれば、それは話が違うという声が出るかもしれません。

それだけでなく、本当に世界水準の研究をしているのなら、それを途中で打ち切ってしまっては国家的な損失です。研究重点、教育重点ともし分けるのであれば、リシャッフルするべきでしょう。大学の現場サイドにおりますと、そういう改革は到底不可能のような気がします。しかし、日本ではこの10年くらい到底不可能だと思うような改革が次々実現していますので、可能性がないとはいえませんね。

いずれにしても、現状の配分方法がベストだという人は少ない、あるいは現状の国立大学が考えに考えを重ね、練りに練ってつくられたベストのプランであるという人は少ないのです。何らかの形で改善の余地があると思っている人は多いわけですが、ではどういう方向に改善するのがベストかという、その具体策については、それぞれビジョンが違っている。運営費交付金の配分方法というのは、国立大学全体から見れば部分的な問題ですけれども、その問題についてすら、さまざまな考え方があるわけです。

RIETI編集部:
先生ご自身は、具体策という意味では、どのような考え方をおもちでしょうか?

玉井:
どこまで踏み込むかということだと思います。たとえば私ども教員の人生というものを考えても、私は教師以外の職に就いたことがなく、定年まであと十何年あります。この間の経験で考えても、研究者として上り坂の時期とそうでもない時期、教育者として学生を育てるのが楽しい時期と、そうでもない時期、それぞれ時期が違うわけです。あるいは、各人の人生設計の中で、たとえば女性の方であれば出産をされた直後は少しペースを落としたいという時期もあるかもしれません。そういう時期に各国立大学法人が、終身雇用の会社のようになっていて、その中で、それぞれ役割を果たすというのは、結局、自分の人生設計とうまく折り合いをつけられるような雇用環境にないとなかなかうまくいかない。研究大学と教育大学をメリハリを付けて分ける方向であるなら、教育者として自分は成熟してきたと思えば教育大学に移る、これから10年くらいは研究を存分にやりたいので研究大学に移るといった、流動性が確保されていないとうまくない。もう1つは、さきほども申したことですが、大きく物事を変えるのであれば、やはり人材面でリシャッフルをしないと、個々人にとってアンフェアなだけでなく、国全体にとっても非効率です。そういう意味でも雇用の流動性というのが必要ではないかと思います。

そこで、国立大学法人化の意味を考えてみますと、頻繁に別の大学に移るような流動性を実現するため、今まで教員全員が文部科学省所属の国家公務員であったのを、80もの法人の職員に分けたことが、果たして適切だったか。むしろもっと大きな枠組みで、大きな会社の中でいろいろ部署を移るように、人材が移れるような雇用形態にしたほうがいい、という考え方もありそうです。

RIETI編集部:
大学の世界は、学閥等もありますし、そのような流動性を確保するのはなかなか困難なのではないかと思われますが、何かいい考えをお持ちでしょうか?

玉井:
それは、このプロジェクトのもう1つのテーマでもありますが、大学教員の評価をどういう風にするのかということになります。評価についてもさまざまな議論があります。1人1人教員のパフォーマンスを評価する。研究でこういうことをやり、教育でこういうことをやり、あるいはアドミニストレーションでこれだけ力を使ったので、他の事はできなかった等々の情報を教員に申告させて評価をしようという試みがあり、そういうことを実際しておられる大学もあります。お話を伺いまいたが、当然ながら相当大変です。

たとえば営業マンであれば、同じ条件で車を100台売った人と、5台しか売れなかった人で、どちらの評価が高いかは誰の目にも明らかです。しかし大学では、数学の先生が半年の間ひたすら考えていて、結局まだ論文にはなっていませんということは、ありえることです。そういう人がひょっとすると後々フェルマーの最終定理のようなものを証明し、大成するかもしれない。それを単年度で評価するという評価基準で果たしていいのかということもあります。研究の多くのジャンルでは、1年という期間よりも長い期間を使わないとまともな成果があげられません。そのような状況の中で人為的に評価を1年で区切るということは、全く学問外的事情です。

評価の中では、たとえば教育よりは、研究のほうが簡単です。教育の成果というのは数十年単位でしか出ませんが、研究面では常に外部評価にさらされ続けているわけですから。その研究の面でも、本当に難しいということです。

評価をどうするかというのは非常に問題ですが、ただ、ご質問にあるような、学閥関係であるとかは、統計的には自分の大学出身の教員割合を見れば明らかです。それぞれの大学がベストの教員採用を行っているのであれば自分の大学出身の人の割合が非常に高い大学はひとつもないはずですが、実際には非常に多い。それは何らかのルールを設けてある程度阻止することは可能だと思います。たとえば、教員の最低半分は自大学出身者以外で採らなければならないとか。ドイツの大学などはそうですが、博士号を取ってその大学にすぐに就職することはできない、他の大学で研究業績をあげて再び戻ってくることは良いというルールを設けるといったことも考えられます。ただ、そうした手段はあくまで手段です。出身大学の大学院に進学させないようにしようという議論がありましたが、工学部などでは、修士課程の教育は学部とほとんど一体になっています。その関連を断ち切るようなことをすると、教育の成果が挙がりません。本末転倒の改革になってしまいます。

研究に関して評価基準が非常に明確な分野としては、自然科学系、特にバイオなどの分野では、インパクト・ファクターというのがあります。どの雑誌に論文が掲載されると、どの程度のインパクトがあるかといったように、雑誌ごとにインパクト・ファクターが定められています。したがって、高いインパクト・ファクターの雑誌に論文を載せることが基本的には研究者の目標になるわけです。これまで獲得したインパクト・ファクターを単純に合計するだけで、大体の研究者の能力というものが伺えるようになっているわけです。しかしそのようなジャンルですら、「いやいや、インパクト・ファクターは、現在までの過去の評価の集積にすぎないのであり、これからを切り拓くような研究は、それでは十分に評価できない」という考え方があるわけです。ましてや、インパクト・ファクターのようなものが全くない、そもそも査読付きの専門誌が成立していない法律学のような分野では、明らかに研究能力の高い人と、明らかにそれの低い人の区別は可能だとはいえ、客観的な評価は困難です。たとえばこの人は論文を沢山執筆しているが内容は非常に雑だとか、この人は論文の数は少ないが1つ1つに非常に味があるとか、そういうことになりますと、なかなか研究者の評価ということはできません。

RIETI編集部:
評価をする側の人材が不足しているということもいえるのでしょうか?

玉井:
これは、大学以外でも、たとえば医薬品の開発にはお金を使いますが、医薬品の審査にはあまりお金を使わない、正面装備費にはお金を使う、しかし後方支援にはお金を使わないというのが、この国ではいろいろなところで見られるように思います。大学の評価をする独立行政法人というのもありますが、結局、その機関のみではとても評価のための人手が足りない。そこで、どうなるかというと臨時雇いという形で大学の教師を連れてきて評価委員にするわけですが、大学教師というのは大学システムの内部にいる人ですから、利益相反の塊のような人を連れてきて評価してもらうということになります。

RIETI編集部:
たしかに。

玉井:
それは大学という組織の評価もそうですが、研究プロジェクトの予算を何処につけるかという評価についても同じですね。アメリカの厳密な審査や評価の仕組みからすれば、日本の仕組みはまだまだ遅れていると思います。

RIETI編集部:
アメリカではどういった仕組みになっているのでしょうか?

玉井:
アメリカも第一線の研究者が高く評価したプロジェクトにお金をつけるわけですから、最終的な判断は日本と同じです。しかし、その審査以前の段階で、博士号を有するような人が、そのプロジェクトはどういったものであるかを常時ウォッチしていて、最終判断をするまでに下ごしらえのようなものをするわけです。いい加減な申請書を出す人はそこで既に篩いにかけられてしまいます。ですから、どのプロジェクトにお金をつけるか、専門家がみても、博士号を取得したばかりの若手研究者が見ても甲乙つけがたい、そういうプロジェクトが並んでいる中で選択するのが大学教授である評価者の仕事になります。しかも評価者も評価される。つまり評価者が選んだプロジェクトがうまくいかないと、評価者自身の評価者としての点数が下がり、徐々にそういう人への依頼は減っていく、そういう仕組みになっているようです。

RIETI編集部:
そういった仕組みは日本にも必要かと思われます。

玉井:
ただ、特に大学組織について評価するのを考えた場合、その評価者も評価されるようにというのは、なかなか難しいと思います。研究プロジェクトであれば、たとえば、5年を経て、プロジェクト終了時点で、どれだけの成果があがったか、あるいはそのプロジェクト終了後、更に5年経った時点で、世の中にどういう波及効果を与えたかというのを10年単位で見るということは可能ですが、大学の評価をして予算配分をした場合、その効果がどうだったかというのを、5年経過した後にみるというのも難しいと思います。できる場合もあるでしょうが、難しい場合が多いでしょう。それをどういう風に制度設計するのか、これは非常に大きな問題だと思います。

たとえばオーストラリアの例で、オーストラリアは国として人口は多くはありませんが、アングロサクソン系ですのでオーストラリアの大学で優秀な人が、アメリカやイギリスなど他の国に引き抜かれるということがあり、非常に大学の仕組みについては入念な制度設計がされているようです。そういうところの話を聞いても、いかに精緻な評価システムを設けたところで、ある評価の基準を当てはめて急激に変更するようなことはできない。特に組織の評価については、たとえば今年は評価が悪かったので1割減らしますよといったような、少しずつの変化しかできないようです。

RIETI編集部:
本当に難問ですね。ここまでは大学のあり方としてマクロの問題を中心にお話いただきましたが、ミクロの側面、つまり個々の大学内部での問題についての議論にはどういったものがありますでしょうか?

玉井:
これについて、誰もがわかりやすい例としては、たとえば、大学の学長というのは、教員の投票で選ぶ仕組みになっています。大学によっては、何千人という教員がいて、お互い全く面識がない状況というのが実際にあります。そこで、大抵はある委員会が候補者を選び、その候補者の中で誰がいいかを投票をするわけですが、その時点で選ばれるような候補者ですら、ほぼ面識がないということが普通なわけです。その投票にどれだけの意味があるのかという議論があります。

あるいは根本的な議論としては、そのような教員の人気投票で選ばれた人が、学長になるということは、組合の投票で社長を選ぶシステムということになりはしないか。それで現状を大きく変えるような方向へ組織全体の意思決定をするということがありえますかといった批判もあるわけです。学長選びの方法は、非常にわかりやすい例としてよく用いられますが、確かにそういう点では日本の個別の大学レベルのガバナンスというのは改善の余地がおおきいと思います。

よくアメリカが引き合いにだされますが、アメリカでは、理事会があり、理事はたいていは卒業生で、出身大学を愛している。しかも、社会で功績をあげた人なので、お金が目的ではない。そういう人が、この大学はこういうことをやるのが必要だといって、学長を連れてくる。それで、時として非常に大胆な人事がなされます。また、その学長のリーダーシップは非常に強いものですから、大学全体をある方向に引っ張っていくということになるのです。こんどのシンポジウムでお見えになるユタ大学のヤング総長は、そうした例といえるのではないかと思います。

一方、日本の大学の場合は、学長のリーダーシップが弱いことがよくないとして、国立大学法人化の際に、制度上は権限を非常に強めたわけです。しかし、実際は学長が大学のことを全て知るわけでもありません。スタッフは各部局、学部や研究所から出てくるので、自前のスタッフというのはほとんどいないわけです。大学経営をする学長によって、スタッフとして雇われる専門家のような人もおらず、そもそも外部から連れてくるための人材のプールもない。それでリーダーシップが強いとはいっても、権限の振るいようがないということも多いでしょう。あるいは、実際に権限を振るいだせば間違った方向に進んでしまうことにもなりかねない。そこで、学長の権限を強め、それに伴って責任も重くなっておりますが、そんなに重い責任を負わされても困るという現状はあります。

また、全国に80の国立大学がありますが、規模は全く違うわけです。たとえば新日鉄やトヨタのような大規模な会社と町の八百屋さんとでは、同じ株式会社でも全然ガバナンスのあり方が違うわけですが、国立大学法人のガバナンスというのは、理事や副学長の人数が少しずつ違うというのはあるものの、基本的に同じ仕組みになっています。それぞれの国立大学法人の創意工夫でいろいろ自由にやらせるべきではないかという考え方もありますし、もっといえば大きな国立大学法人になると、1人の学長で統合すること自体が不可能ではないかという考え方もあると思います。このことはマクロの議論とも連動しますが、非常に大規模な大学になると、たとえばカリフォルニア大学などがモデルとなりますが、カリフォルニア大学という名前ではありますが、バークレー、サンフランシスコ、UCLAというように、いくつかにわかれていて、それぞれほぼ独立して大学運営を行っているわけです。それで、同じような分野、たとえばロースクールなんかがいろんなところにあったりします。そのような分権的なやり方のほうがいいのではないかという考え方もあると思います。

大学のガバナンスについてもさまざまな議論があります。私立大学の先進的な事例のヒアリングも行いましたが、この問題は難しいだけでなく、全体のガバナンスと連動します。交付金配分の仕方が変わるなら、たとえば先ほど申し上げたように、研究大学と教育大学を分けるという改革をするのであれば、当然、個々の大学でガバナンスの仕方が違ってこなければいけません。今回のシンポジウムでは、全体の交付金配分の仕方というようなことも論点になりますし、個々の大学のガバナンスのところも論点になります。個々の大学のガバナンスについては、ユタ大学総長のマイケル・ヤング先生とイギリスの大学改革の現場を見てこられたクエンティン・トンプソン氏をシンポジウムにお招きし、お話を伺うことになっております。

RIETI編集部:
アメリカやイギリスなどの海外では評価に基づいて競争的に資金の配分を行っています。また、アメリカでは研究大学と教育大学のようにそもそもの役割が別れていたりもするようですが、先生は海外の大学と日本の大学を比較して、今後、日本の大学のあり方がどういう方向に進むのが好ましいとお考えでしょうか?

玉井:
その点はこのプロジェクトで正面から議論してはいないのですが、私立大学の存在は日本については重要です。研究についても教育についてもそうですが、特に教育については、私立大学との役割分担は特に重要です。私立大学といいましても、イギリス、アメリカと日本の大学では全然違います。アメリカでもイギリスでもご承知のとおり、ハーバードやスタンフォード、オックスフォードやケンブリッジ等、日本においては私立大学にあたるところが、伝統もあり、研究水準でもトップクラスの大学であるとされているわけです。何より、大学が国より先にあるのです。ハーバードなどは、合衆国よりはるかに古い歴史を持っています。そういうところと、欧米をまねて明治時代に制度を移植した日本の大学のあり方というのは、根本的に違うわけです。しかしそうはいっても、納税者から見れば、税金が入っているかどうかという点では日本の国立大学とアメリカ、イギリスの国立、あるいは公立大学と共通点はあるわけですので、役割分担をどうするのかといった問題は大いにあります。

RIETI編集部:
地方の国立大学のあり方についてはどういう風にお考えでしょうか。たとえば、以前に公開された財務省の交付金配分の試算によれば、地方国立大学はこれまでのように運営を維持できない事態に陥るのではないかといわれています。選択と集中の方向への考えもありますが、一方で、教育はナショナルミニマムだという考えもあります。そのあたりはどうお考えでしょうか。

玉井:
私の印象では、文部科学省も財務省も、考えが揺れているのではないかと思います。ただ、実施をあずかる文部科学省の立場として、とにかく大きな変革を突然することはできないということだと思います。やはり80の国立大学法人をつくったのは文部科学省ですので、そのいくつかが3年先にもう運営できない、そういうことが突然起こるというのは困るということだと思います。ただ、政策当局でもありますので、現状のままでは良くないということもよくわかっているはずです。どうすればいいかというのは、かなり迷っておられる現状でしょう。そして、これは特に強調すべきだと思っていますが、あるとき突然大学改革問題が政治的な争点となり、誰かが思いつきでキャッチフレーズ的なことをいう、そのキャッチフレーズにしたがって、バタバタっと何かが大きく変わってしまうということは、非常によくないと考えています。このプロジェクトは、そういうことのないように議論を深めていくためにあると言っていい。そういう意味では、文部科学省のお手伝いをしているということになるかもしれませんし、それは同時に予算配分の仕方を考えている財務省のお手伝いでもあるといえます。しかし、それは単に目先の、来年の政策作りのお手伝いをするということではなくて、長期的な日本の利益を考えたものであるということです。

RIETI編集部:
今、地方分権が流行っているというか、そういった流れにありますが、あまりに急激に進みすぎてしまいますと、日本にとって何らかのマイナスの影響が考えられる気がします。一度東京を経験した教師が、地方で教えるということも、またその逆もいいことだと思います。先生が仰いますように、日本国内において、教育者や研究者の流動性がうまくいくような人事システムの設計は困難な課題ではありますが、実現できるといいと思います。

玉井:
日本では、国立大学があるような場所では既に社会インフラが整備されています。たとえば、夫婦共働きの家庭の片方が東京、片方が地方に住んでいてもそれほどの不自由はない。子供が小さい時は家族で一緒に暮らしたいということはあるでしょうが、子供が高校生くらいになれば、週末だけ一緒でもかまわないという考えも多くあるかと思います。個人的には、一時期、地方に行って教えて、また東京に戻り、また違ったところで研究するような姿が大学教員の普通になってもよいのではないかと思います。

また、地方分権がうまく機能するためには、地方から声があがって、それが実現するという形でなければならないでしょう。国が地方に地方分権を強制するというのは、少し矛盾している。たとえば、九州が道州制で州になる。そうすると九州大学というのも州立になり、あるいは熊本大学、鹿児島大学なども州立大学になる。そのとき、九州政府として、たとえば、わが九州はかつてシリコン・アイランドといわれたところであり、今後も半導体産業を大いに振興したい。次世代半導体の設計をおおいに進めよう、その代わりその他の分野はある程度遅れても仕方がないという決断をする、そして地元の大学に、優れた研究者を世界中から、欧米だけでなく、中国や台湾、韓国からも呼んでくる。給料も高くする。そこで得られた研究成果が韓国や台湾の生産基地で生かされてもいい、そういったコラボレーションが成り立つとすると、日本企業だけではない、中国、韓国、台湾の企業を含む世界の企業から研究費を産学連携で持ってくることが可能になる。これはまったくの例ですが、たとえばそういう形で連動して、地方の創意工夫で大学の経営がうまくいくなら、それは一番望ましい事だと思います。

たとえば、北海道で、うちは牧畜の研究が盛んだから、いい牛を育て、外国に輸出しよう。それで和牛の美味しさを世界中の人に知ってもおう。そういうような研究をするというのは非常にいいことだと思うのです。大筋として、地方分権というのは、悪いことではないと思います。しかし、地方の人がこれをやりたいというモチベーションがなければ、うまくいかないでしょう。

RIETI編集部:
先生のお話を伺っていると、地方に任せた教育にはいろいろな可能性が秘められていると思いますが、首長の権限で全ての地方の教育が決まってしまうというのには不安を感じます。

玉井:
そうですね。問題は、知事や市長が4年ごとに選挙で変わるということです。教育も研究も息長く続ける必要のあることですから、くるくる変わっては困ります。しかしたとえば、ある県が教育に大いにお金を使いたいと思っている、教育立県で行きたい。それなのに、大学が私立、県立、国立と仕組みが別れていて、非常にやりにくい。一本化して、県のリーダーシップで盛り立てたい、それが県民の総意なのだという場合であれば、うまく行くでしょう。というわけで、いろいろと難しい問題です。したがって、今回のシンポジウムで何か特定の結論が出るというわけではないと思います。ただ、関係する問題を真剣に考えておられる方がいろんなところにいらっしゃいますので、そういう方々に少しでも参考になる情報が提供できればと思っております。

RIETI編集部:
たくさんの貴重なご意見をありがとうございました。

取材・文/RIETIウェブ編集部 谷本桐子、RIETIリサーチアシスタント 中村悦広 2008年5月8日

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2008年5月8日掲載

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