ブレイン・ストーミング最前線 (2005年1月号)

ヨーロッパの視点から見たグローバル化

ジャック・アタリ
プラネット・ファイナンス会長

「ヨーロッパの視点から見たグローバル化」というテーマでお話をさせていただきますが、ヨーロッパ人の数だけヨーロッパの視点もあるわけですので、私個人の見方として理解していただきたいと思います。

「市場経済」と「民主主義」によるグローバル化

欧州から世界を見ますと、グローバル化とは、アナーキー、つまり無秩序な世界に入ってゆくことであるように映ります。ベルリンの壁の崩壊までは、世界の半分は1人の巨人に寄りかかり、もう半分はもう1人の巨人に寄りかかっていました。そのような世界は終焉を迎え、我々は「市場」と「民主主義」という2つの規制メカニズムが支配的となるであろう世界に足を踏み入れています。この2つこそ、グローバル化の二大要素であり、グローバル化を組織化できるものなのです。

歴史はグローバル化をもって終わるなどという大胆な発言もありますが、グローバル化で歴史そのものが実際に終わることはありません。未来の歴史を決める要素が「市場経済」と「民主主義」になるだけであり、それらを通して歴史は予見可能になるだけです。事実、地球上から計画経済・国家全体主義はほとんど姿を消しました。中東ではアメリカや日本などの連合が、市場と民主主義のない最後の辺境にその2つを移植しようと試みているわけです。

市場と民主主義はおのずと増幅しあうものであるから、市場は民主主義を創り、民主主義が市場につながるという相関プロセスは理論的に持続可能であるという説もあります。市場のあるところでは民主主義が発生しており、これはスペインやチリの例などで実証されています。一方、民主主義も市場を創ります。民主主義が計画経済を創った例は経験的に多くはなく、ペレストロイカは稀な事例ですがこれは民主主義が共同所有と計画経済の下で生まれたケースです。しかし、民主主義は民間主導の起動力を生み出し、結局民主主義が計画経済を破壊してしまうのを我々は目の当たりにしました。

市場と民主主義のグローバル化という意味でのグローバル化について考察してみます。これは「世界は市場と民主主義に向かって動いてゆくものであり、それ以外の道はない」、というグローバル化と民主主義に関するアメリカ的視点に理論的根拠を与えています。これに対しては多くの異論があります。ここでは3つの理論的側面から議論してみます。

「市場経済」と「民主主義」の矛盾

まず「市場と民主主義が互いに自己増幅しあう」という仮説を検討してみます。市場と民主主義には相矛盾するものがあり、この仮説はある意味真実ではありません。まず市場において空間的境界は意味を持たない一方、民主主義は、だれが民主主義の実施されている地域の市民かということを識別するために境界を必要とします。第2に、市場は人の活動領域の境界とも相容れません。市場は特定の活動領域が市場経済の外部ではなく内部にあるのかについて理由を求めません。このことは、公共財も市場経済の一部とみなされていることを意味します。他方、民主主義は公共財を管理する手段と定義することができ、市場は境界と相容れないことから、民主主義が管理することができる領域が縮小しているのです。第3の矛盾として、市場が民主主義よりはるかにダイナミックであるという点が挙げられます。市場は、個人の取り組みの集合体であり、市場が境界を越えるためには1人で越えればすむ話です。これに対し、民主主義が前進するためにはそれを構成する共同体の合意を必要とします。これが民主主義の発達が市場よりも時間がかかる理由です。つまり個人の取り組みによって成長する要素と、グローバルな取り組みを受容する過程で成長するもうひとつの要素とが拮抗しているのです。

欧州で起きていることを例にとります。欧州諸国間で障壁や国境、経済的な規制を突き崩そうという強い圧力があり、変革は非常に早く、20年で起こりました。その反面、市場の制度とバランスをとりながら民主主義の制度を作っていくのは非常に時間がかかります。そのプロセスで各国の合意を取っていかなければならないからです。欧州では、市場経済が民主主義の制度よりはるかに強く、そのシステムには不均衡があるということがはっきりと窺えます。先に述べたように、民主主義の力量の及ぶ領域が狭められてきているということなのです。民主主義の制度で取り扱うべきすべての領域、つまり公共部門が担ってきた領域が市場メカニズムで取り扱われるようになっています。民主主義は、本来力を発揮すべきこうした領域を堅持できるほど地球規模で組織化されていないのが現実です。

「市場」と「民主主義」における意思決定メカニズム

市場と民主主義両方とも集団的意思決定を行うメカニズムであると言えますが、その手続きはかけ離れています。市場メカニズムに基づく集団的決定は、個人がそれぞれの選択に応じて行動するところで決定されます。市場の決定は満場一致です。一方、民主主義では、過半数が決定に満足していることをもって最適化を計ります。従って、市場の決定は私的な財に、民主的な決定は公共財に、それぞれ適用されることが理にかなっているのです。では少数派が多数決による決定を拒否できるほど強いとき、何が起こるのでしょう?

少数派は、民主主義のルールよりも市場のルールを選びます。なぜなら民主主義から市場のルールに転換することで得る物があるからです。 少数派が十分に強ければ、少数派が将来多数派になり替われるという期待がないかぎり、民主主義から脱却し民営化に走ることで、利益を守ろうとするでしょう。例えば、もし富裕な少数派が、社会保障を通して貧しい人々に資金援助をしたくないと決めたとき、彼らはその制度を民営化します。公共的な再分配の代わりに、自ら年金基金と保険の仕組みを設立するのです。かつて貧しき人々が富裕層を追い出した植民地時代の終焉と対照的に、今日、富める者は、自分たちの仕組みを設け、貧者を締め出す時代に入りました。これは不平等と貧困の規模の拡大につながります。

グローバル化に伴う不確実性(Precarity)

グローバル化の3つめの困難は、市場と民主主義に共通した、非常に危険な要素です。つまり、市場においても民主主義においても、「考えを変えること」ができる、つまり可逆性があるということです。グローバル化の世界は可逆性の世界なのですが、それは奇妙な可逆性で、人々は常に新しい物を追い求めるという事実に基づいた可逆性です。変化は求めるが、以前あったものは受け入れないということです。これは、”新しさ“という概念の独裁体制で、市場と民主主義に共通しています。製品の推定寿命はかつてよりも短くなり、特定の住居に住みつづける期間も以前より短くなっています。推定婚姻期間も短くなっています。この可逆性は自由の別名でもあり、人間はそれと共生しなければなりません。ただ同時に人間は可逆性がもたらす不確実性(precarity)に富む人生はのぞみません。従ってグローバル化は次に挙げる3つの要素を伴うことになります。

「リスクの管理」不確実性の世の中に住んでいるときはその不確実性に由来するリスクに対して保険をかけておく必要があります。なぜならば金融や為替の不確実性のリスクが多大であるからです。

「娯楽」人間は不確実な世の中では生きられません。不確実性が続かないと自分を説得するための逃げ道が必要です。そのために「娯楽」があります。市場・民主主義・リスク管理と娯楽には不思議なリンクがあるのです。娯楽はグローバル化のための大事な政治的管理ツールであり、グローバル化の中枢に位置しています。現在の世の中に娯楽がこれほど幅を利かせているのは何も不思議ではないのです。勿論娯楽といいましても、映画産業や音楽産業のような狭義の娯楽を指しているわけではありません。娯楽にはたとえば「旅」も含まれます。それも観光産業だけでなく、擬似的な「旅」である小説を読むこと、ビデオゲーム、そして麻薬も含まれます。英語では麻薬のことをトリップと呼ぶではないですか。娯楽とはこの世の不確実性から抜け出すための方法なのです。

「宗教」市場経済が不確実でもろい世界を創造しているため、その中で人々はリスクを管理し、あるいは娯楽に向かいます。もうひとつのそして究極的な方法は宗教への回帰です。つまり、本当の意味での長期的な視点から、自分の将来を確実なものにするのです。

このようにして、市場経済の中枢である米国では、市場経済が作り上げた不確実性と共生するためにリスク管理、娯楽、そして宗教が非常に大きなウェイトをしめてきているのです。

グローバル化の将来

歴史を振り返れば、グローバル化は何も新しいことではありません。人類はこれまで何度もグローバル化への道のりを歩みだそうとしてきました。18世紀の終わりにはエマニュエル・カント(Emanuel Kant)のように世界政府を唱える人が現れました。しかしその反動として国家主義が萌芽しました。フランス革命もこの枠組みで考えられますし、19世紀そのものが国家主義の草創期であったと捉えることができます。19世紀の終わりは新しい技術の開発で沸きました。電話、蓄音機、ラジオ、鉄道、飛行機など、今日では当たり前になっているものはこの時期に発明されました。技術バブルがあり、それがはじけました。テロリスム、自殺攻撃もこのころ見られました。ラティナ(Latina)というヨーロッパの共通通貨もありました。「80日間世界一周」から見て取れるように、世界調和というヴィジョンもありました。しかし保護主義が台頭し第一次世界大戦へとつながります。1920年にはウードロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)と世界連盟を通して世界はグローバル化への夢を再度見ますが、これも崩壊につながります。今日、我々は「市場経済」、「民主主義」、及びそれらが作り出す不確実性に対処するための「リスク管理」、「娯楽」と「宗教」という5つの要素をもってグローバル化に再度挑んでいます。しかし、18世紀、19世紀に経験したリスクを回避するために市場経済と民主主義が世界を構築する最良のツールであるかは不明です。おそらく新たな保護主義のラウンドをむかえることになるでしょう。

実際に米国をみてみますと、おそらく保護主義に戻っていきそうです。誰が大統領になろうとも、米国の国益にとって極めて重要な地域、つまり中東ともしかしたら日本以外からは手を引くでしょう。大統領選の結果を見ても明らかです。沿岸部が負けて内陸部が勝ちました。歴史を読む上で興味深い視点として、人類の遊牧的(nomadic)な面と定住的(sedentary)な面の対立があります。米国でのブッシュ大統領の再選は定住型のアメリカの遊牧的なアメリカに対する勝利と言えます。

欧州は25、30または35カ国で構成される、かなり力のある地域ですが、将来に対して自信はなく、憲法もありません。もし仮に欧州憲法が制定されたとしても政治的な集合体にはなりえないでしょう。これはちなみに、民主主義が市場に対抗して自身を構築することの難しさを物語っています。欧州はおそらく潜在的な勢力にしかならなく、さらに内向きになるでしょう。これは対外援助の激減からも見て取れます。

アジアもまた、自己責任に基づいて行動しなくてはなりません。私がみるところ、グローバル化は、超大国の米国が中国を主たる競争相手として認識し始める新しい地政学的バランスにむかっています。勿論現在の中国は米国に立ち向かうことはできませんので、そこでこの二国間に暗黙の了解が成立しているのではないでしょうか? この暗黙の了解とは、グローバル化を避けられないものと認識した上で、現状で互いに競争するのは双方にとって得にならないというものです。したがって当面の間(30年)はお互いに助け合い(中国は米国の赤字をファイナンスし、米国は中国の輸出市場を提供する)、その間、他の競争相手、つまり欧州と日本を破滅させるというシナリオです。この見解をとりますと、米中両国間で問題になっている人民元の問題など、ただの世間話にしか過ぎないことがわかります。

グローバル化、貧困削減と世界のガバナンス

最後にグローバル化する世界の中で貧困は増大するであろうということです。貧困は暴力の原因であり、その結末でもあります。私はこの悲観的な将来像を受け入れないで済むよう多くの他の仲間と一緒に取り組んでいます。ひとつの例がマイクロファイナンスと呼ばれるものです。マイクロファイナンスは世界の極貧層が市場経済、ひいては世界のガバナンスに参加できるようにするものです。

世界の人口の80パーセントは水などの生活基盤に加えてクレジットに対するアクセスがありません。この貧困層に無担保のクレジットを与えることによって、彼らは好循環に入ることができます。今日マイクロファイナンスを行っている機関は世界で1万あり、これらは大きな成功を収めています。返済率は98パーセントにのぼり、女性の借り入れが80パーセントを占めています。ある予想によりますと、現在いる6000万人の借入者が5年後には2億人に達すると見込まれています。家族を含めれば、受益者は10億人いることになります。これは貧困削減に対する効果的な貢献です。

以上は希望の光ですが、民主主義が市場経済と同じ程度組織化されることが大前提です。世界が保護主義に走らず、富裕層が貧困層を駆逐しない、そして9.11が将来を占うシンボルとならないようにするためには貧困層が市場経済に参加できるようなシステムが必要なのです。

更に必要なのは、世界の国々が参加できる世界の統治システムを構築することです。勿論この統治システムは人々の日常生活の面倒をみるものではなく、地球規模の課題に取り組むものです。それほど難しい話ではありません。G‐8にまずインドと中国をすぐにでも入れて、更にナイジェリアとブラジルを加えることでG‐12が出来上がります。これだけで立派な世界統治のメカニズムだと言えます。このG‐12には国連の安全保障理事会の常任理事国が含まれていることから安全保障理事会と合体させることもできます。すぐにでも出来ることです。問題はいつ行うか、悪夢の前に敢行できるかということです。

質疑応答

Q:

以前お書きになった本の中で、世界は大西洋グループと太平洋グループという2つのグループで構成されることになるだろうと予言されました。今日のお話は少し違うような気がいたしますが、お考えが変わったのでしょうか?

A:

その本を書いたのは1979年のことですが、その時書いたことについてはまだ誇りを持っています。当時私が言ったのは、世界における競争の場は欧州と米国の間から、米国とアジアの間に移るだろうということです。当時予見したことと現在起こっていることの違いは、当時は日本がアジアのコアをなしているであろうという認識であったことです。勿論日本がアジアのコアであり続ける可能性はありますが、2つ懸念があります。ひとつは人口の問題です。日本は少子化の傾向に歯止めをかけられるのでしょうか? あるいは外国人労働者をもっと受け入れられるのでしょうか? 2つ目は日本がアジアの中で孤立化するのか、あるいはグローバル化したアジアの一部になれるのでしょうか? これは日中関係とも必然的に関連します。

Q:

娯楽は市場と民主主義特有のものでないと思います。民主主義の体制でなくても、例えば賭博などの娯楽は効果的な政治管理ツールになると思いますが。

A:

勿論です。2つ例があります。ローマ帝国の皇帝のモットーは「パンとサーカス」(Panem et Circencus)、つまり食事と娯楽でした。また、17世紀のフランスの哲学者、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)は娯楽は己の罪深さを忘れさせる方法だと説きました、つまりこの世における責任から逃れる術でした。娯楽は今では市場経済の一部です。これの意味するところは市場はすでに自身の欠陥を補う術をもっているということです。娯楽もそうですし、リスク管理もそうです。ちなみに宗教も今では市場に取り込まれているといえます。

本意見は個人の意見であり、筆者が所属する組織のものではありません。

※本稿は11月5日に開催されたセミナーの内容に一部加筆したものです。
掲載されている内容の引用・転載を禁じます。(文責・RIETI編集部)

2005年1月28日掲載

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