ライフサイエンスにおけるイノベーションの受け渡し
医薬品や医療機器といったライフサイエンス分野におけるエコシステムの在り方を近時研究してきた。その特徴は図1で示すような受け渡しの構造にある。具体的には、アカデミア、スタートアップ、ベンチャーキャピタル、大企業などといった形でイノベーションが左から右方向へ受け渡されていく。

筆者が特に関心を持っているのは社会実装の側面である。ライフサイエンスの分野では、研究開発は非常に長い期間を要して社会実装に向かう。サイエンスを出発点にエビデンスを構築し、特許を確保し、多くは許認可を受けたうえで事業化のプロセスに入り、自国およびグローバルのヘルスケア市場に届く、というプロセスである。アカデミアを起点とした場合、社会実装は時間軸としてはかなりの遠くの位置にある。
そうした特性を有する分野において、出発点であるアカデミアにおいてどのような発想で研究開発を推進することが社会実装に効果的か、といった点をルポルタージュ的に調査したレポート (注1)(以下、当レポート)を先般刊行した。
本コラムではこの中から特にエコシステム内での人材開発に絞った論考を行いたい。
インタビューから見る人材開発の重要性
当レポートはベルギーを中心とした欧州のアカデミア関係者へのインタビューを軸としている。ベルギーは人口1,100万人の規模ながらライフサイエンスという観点では産業の蓄積とアカデミアの実績がバランスよく成立しており、その創意工夫に学ぶべきところは多い。
ベルギーのフランダース地区では、1996年よりバイオテックに特化したVIBという研究機関が存在する。5つの大学などと連携してダブル・アフィリエイトの形態をとる機関なのだが、そこで行われる研究開発をピックアップする際、基本的には社会実装を前提とした案件採択を行ってはいないとの話があった。あくまでサイエンスを尖らせることを主たる目的としているのである。
しかし実際には彼らは的確に社会実装につながる研究開発をピックアップすることができている。この機能を果たしているのが技術移転機関(TTO)となるが、ポイントはこのTTOの人材である。彼らはこの人材を研究者の中からフックアップする形をとっている。もちろんその後にさまざまな教育はなされるが、研究者のキャリアパスの分岐の中で、こうした職種が存在しているのはユニークな点である。
このVIBの話は研究者側から見た際には「多様なキャリアパス」の一例であるが、今度はアカデミア内で生まれた研究開発を事業化していく段階の話である。アカデミアからスタートアップを生み出した際には当然運営人材が必要となる。ベルギーでは2022年からAMBT(注2)というプログラムを開始し、ライフサイエンスにおける1年間のアントレプレナーシップ・プログラムを設けている。受講者のプロファイル自体も多岐にわたるが、同時に教員側も85%の人材をアカデミア外からの協力で構成しており、ビジネス側からも大きな人的サポートがなされている。
こうした形での人材育成は北米がその中心地であるが、ベルギーもそれに倣いつつ独自な形で発展を遂げてきた。同じくドイツやシンガポールでもこうした人材育成は注力されており、各国の産業特性に合わせた人材育成が進んでいる。
日本におけるエコシステム形成の要諦
長い時間軸のプロセスにおける起点ということもあり、ライフサイエンスのエコシステムを形成するうえで「アカデミアにおける社会実装への対応」は避けて通れない。これは比較的世界各地で共通する課題でもあり、日本も同様の状況にある。幸い日本は産業的にはこの分野におけるグローバル化が一定程度実現できているが、アカデミアにおいてビジネスサイドを見据えたうえで案件サポート人材を幅広く置くことは現時点ではまだまだ難しい。
図2は当レポートの総括のような図であり、エコシステム形成に必要な項目を幾つかピックアップして模式化をしている。「研究を尖らせ、そのプールの中から案件をピックアップし、社会実装に長けた人材でサポートをする」という正攻法に加え、必要な人材を育成し、還流することを描いたものと考えていただきたい。

実際には医師、研究者、企業人のおのおのはその組織におけるヒエラルキーでのキャリアパスを重視し、研究者が社会実装をサポートする人材に転身することや、企業人材がアントレプレナーシップ・プログラムに積極的に関わる状況は日本では頻繁ではない。しかし社会実装に向けた動きをアカデミア内から組み立てるためには、医師、研究者、企業人のキャリアパスが多様化していく必要がある。
その道のりは平坦ではない。しかし、全体としての生産性向上もさることながら、個々人にとってそうした選択肢があると思える状況を作っていくことこそ、エコシステム形成の一つのゴールではないか、と当レポートを刊行後、さまざまな方と話す中で感じる次第である。