欧州連合(EU)が導入する国境炭素調整メカニズム(CBAM)の影響に関する研究は、生産からの排出量に与える影響のみでシミュレーションしたものが多い。本稿では構造グラビティモデルを用いて、CBAMは排出量を削減すると予想されるものの、その削減の大部分は運送活動によるものであることを示す。最も排出量削減が見込まれるのはアジア太平洋地域である。
気候変動に歯止めをかけようと、世界各国で炭素排出に対する課税など脱炭素へ向けた政策が徐々に導入されつつある。炭素税導入の先駆者であるEUは、2005年に排出量取引制度(EU ETS)を開始し、この種の制度としては初の国境を越えたキャップ・アンド・トレード制度として知られている。現在、EU ETSの炭素価格は世界で高い水準にあり、2022年の排出枠価格はおよそ100ユーロ/tCO2と予想されていた。
排出枠価格が上昇すれば、生産コストも上昇が予想されるため、産業競争力の低下が懸念される。比較的安価な外国製品への需要増加と相まって、カーボンプライシングの低い国、あるいはカーボンプライシングのない国への産業移転が起これば、それに伴い排出量も移転の可能性が高まる。このような現象を経済学者は「カーボンリーケージ」と呼んでいる。EU ETSの開始以来、果たしてこの現象がEU ETSの導入によるものなのかの研究が行われてきたが、今なおカーボンリーケージの存在に関する学術的なコンセンサスは得られていない(Böhringer et al.2022)。しかし近年のEU ETS排出枠価格の急上昇を受け、カーボンリーケージが起こる可能性はますます高まると考えられる。
国境炭素調整:カーボンリーケージ問題の解決策
こうした中、EUはカーボンリーケージの懸念に対処するため、2021年7月に国境炭素調整メカニズム(CBAM)を導入する計画を発表した。このメカニズムは、EU国境での輸入に対する炭素価格の上乗せという形をとり、その額は、ある製品についてEUの生産者と外国の生産者が支払った炭素価格の差に基づいて決定される。そうすることで、EUは自国の産業にとって公平な競争条件を確保することを目指している。CBAMはカーボンリーケージ対策として有効であると考えられているが、他方で輸出の減少を招き、輸出国間の地域的不平等を助長する可能性があること、世界貿易機関(WTO)のルールとの整合性の問題により実施困難であることを指摘する声も多い(Böhringer et al.2010、Böhringer et al.2012、Fischer and Fox 2012、Monjon and Quirion 2011)。
EU CBAMは初めて実施される国境炭素調整メカニズムであり、導入発表以来、その潜在的な影響をシミュレーションするさまざまな研究が行われてきた。これらの研究成果では、CBAMが世界の厚生に与える影響はごくわずかである一方、輸出にはマイナスの影響を与えうるという共通した傾向が見受けられる(Korpar et al 2023, Pyrka et al 2020, Takeda and Arimura 2023)。何よりも注目すべきことは、CBAMの最大の目的が世界の排出量削減であるにもかかわらず、排出量への影響は小さいと予想されている点である(Korpar et al.2023、Zhong and Pei 2022)。
アジア太平洋地域を中心とする構造グラビティ
EU CBAMが排出量に与える影響をシミュレーションした研究のほとんどは、生産からの排出量への影響のみを組み込んでいる。しかし、貿易政策が排出量に及ぼす影響には、運送活動による排出量の変化や、川下製品の需要に対する政策の間接的な影響も含まれるため、より複雑な場合が多い。筆者の最近の研究(Mortha et al. 2023)では、生産からの排出量に加え運送活動からの排出量も考慮し、2014年のデータでCBAMの影響をシミュレーションするため、貿易に焦点を当てた構造グラビティを用いている。さらに、この政策が発展途上国の多いアジア太平洋(APAC)地域に及ぼした影響についてのケーススタディも行っている。この地域はまだカーボンプライシング政策がほとんど実施されておらず、CBAM導入の影響を特に受けやすいと予想される。
分析の結果、全体としては、CBAMが厚生に与える影響は地域に関係なく小さいことが分かった。一方、この政策は輸出を減少させると予想され、その減少幅は世界全体で-0.29%(金属製品)から-1.49%(鉄鋼製品)である。南アジアと中央アジアでは輸出の減少が最も大きく、南アジアの粗鋼製品で-10.52%、中央アジアの化学製品で -7.03%と推定される。この結果は、CBAMが保護主義的な政策であることを示唆しているものの、EU域内への産業生産活動の呼び戻しが期待できるため、カーボンリーケージ対策として効果的と言える。EU諸国では、生産は1.31%(非鉄金属)から5.24%(鉄鋼)の間で回復し、生産からの排出量も同程度に増加すると推定される。
CBAMの影響をより色濃く受ける発展途上国
この政策に対する脆弱性が開発レベルによって大きく異なることは、アジア・太平洋地域のケーススタディによって例証されている。中所得国の経済は特にCBAMの影響を受け、輸出、生産、排出量が大幅に減少する。この点を説明するために、図1に日本と中国の鉄鋼輸出の変化を示す。生産における排出集約度が高く、2014年にカーボンプライシングを導入しなかった中国は、相対的に高いCBAM価格に直面することになる。その結果、シミュレーションでは、中国の対EU輸出は激減し、アフリカ向け輸出はわずかにリバウンド効果が予測される。これに対して日本は、エネルギー集約製品の炭素効率の高さと地球温暖化対策税のため、CBAM価格は相対的に低くなると予想される。シミュレーションでは、比較優位を得た日本や他の高所得国は、EU向けの輸出が増加すると予測している。したがって、本研究は、この政策が「気候クラブ(発展途上国を含まずに、主に低排出国同士で貿易を行う先進国グループ)」創設に寄与し、国家間のグローバルな不平等を拡大する可能性があることを示唆している。
運送活動からの影響を含む包括的な排出量算定
表1は、CBAMによる排出量計算である。生産活動からの排出に加え、運送活動からの排出も含まれている。世界全体では、CBAMは排出量を削減すると予想されているが、その削減の大部分は運送活動によるものである。この削減量は、2014年に政策が導入されていた場合、およそ770百万トンCO2であったと推定される。そのうちの73%は、運送活動と貿易(輸出の削減、またはより近い仕向地への輸出)による排出の減少によるものである。生産活動(化学品、非鉄金属)からの排出量に若干のリバウンド効果が見られるものの、概ね貿易からの排出量で相殺されている。最大の排出削減となった部門は鉄鋼(-693 百万トンCO2)、次いで化学(-132 百万トンCO2)、最大の削減量となった地域はアジア太平洋地域である(-768 百万トンCO2)。海上距離の計算や排出係数の選択における近似値のため、排出削減量を過大評価している可能性があるが、それでもなお、CBAMは世界全体のCO2排出量削減のために有効な政策であると結論づけることができる。
編集部注:本コラムのベースとなった主な研究(Mortha et al.2023)は、経済産業研究所(RIETI)のディスカッション・ペーパーとして発表された。
本稿は、2024年2月27日にVoxEUにて掲載されたものを、VoxEUの許可を得て、翻訳、転載したものです。