日本には世界に例を見ない通勤定期・通勤手当の制度がある。通勤定期が無料、換言すれば遠くに住むほど年収が増えるという不自然な制度である。ここでは、この通勤定期・通勤手当が日本の都市、家庭、人材に及ぼす影響を考察する。
1.通勤定期・通勤手当は誰が負担しているか
サラリーマンにとって通勤定期は無料である。そのコストは誰が負担しているのか。
まず通勤定期は切符の運賃から約半額を割引されている。本来、鉄道は設備産業なので朝夕の特定の時間帯に集中する通勤客にはピーク割増料金を課すのが合理的である。にもかかわらず現実には逆に大幅な値引きをしている。この不合理な値引きは、鉄道会社が負担している(総括原価方式により他の時間帯の乗客も負担している)。さらに鉄道会社の法人税の減少を通じて国家財政もこの値引き分の相当割合を負担している。
次に通勤定期をサラリーマンが購入すると、同額が勤務先の企業から通勤手当として給料に上乗せされる。企業側はこれを人件費として経費計上するので法人税が減少する。ところがサラリーマン側では給与所得には算入しないので無税である。その結果、通勤手当は勤務先企業と国家財政がほぼ折半で負担することになる。
このように定期割引・通勤手当として鉄道会社、勤務先企業、国家財政が毎年数兆円を負担することで「無料の通勤定期」が支えられている。
2.通勤定期が形成した広くて薄い「首都圏」
この通勤定期・通勤手当は、サラリーマンの居住地選択に影響を与え、日本の都市や国土の構造に影響を与える。
まず通勤定期が無料になることで、サラリーマンはより遠方に居住するインセンティブを与えられる。首都圏では放射状の鉄道沿線の駅ごとにサラリーマンが居住し100キロ近い遠距離まで「通勤圏」となっている。この「通勤圏」で都市圏を定義すると「東京都市圏」は人口3,700万人、南関東全域まで広がるほどである。
東京都市圏では通勤定期の効果で遠距離通勤が多い一方、中心部の人口密度は低い。航空写真を見ると都心も郊外も木造2階建て住居ばかりの極端に薄くて広い独特の構造となっている。無料の通勤定期は、狭いはずの日本の国土の有効な活用を妨げている。
3.通勤定期の目的外使用による「商」の分離
通勤定期は「職」と「住」を数十キロの遠距離に分離するだけでなく、もう1つ大きな影響を都市の構造に与えている。それは「途中下車」と「休日の私的利用」という目的外使用が許されているため、通勤経路上のターミナル駅に商業や飲食の集積が形成されることである。
通勤経路上なら、定期券を目的外使用することで交通費をかけずに飲食や買い物に行ける。これにより新宿や渋谷といったターミナル駅に巨大な商業・飲食エリアが形成されてきた。通勤定期により「職・住」が分離するだけでなく、その中間に「商」のエリアが発展し職・商・住が分離した独特の都市構造が形成されている。
4.通勤時間を節約する「合理的な家庭内分業」が男女共同参画を阻害
通勤定期・通勤手当制度により、多くのサラリーマンはより遠方の安くて広くて自然豊かな住宅を選ぶ。しかしサラリーマン側のコストもゼロではない。通勤時間というコストが必要となる。往復3時間だと労働時間の4割にも相当するし、人間の活動可能時間から見ても非常に大きな負担である。
多くのサラリーマンは、この問題に対し優れた解決方法を見いだしている。それは「家庭内分業」である。郊外の自宅から都心の職場まで通勤に往復3時間かかるなら、夫婦がそれぞれ3時間をかけて都心まで通勤して働き帰宅後に家事も折半するより、一方が職場で多く働きもう一方が通勤せずに家事を担当する家庭内分業によって1人分の通勤時間を節約できる。都心まで通勤する働き手を1人に絞ることで、より遠方に住める。さらに3時間かけて通勤する以上は定時に帰宅するより家事は妻に任せ、家族のために長時間働き残業代やボーナスを稼ぎ昇進昇格も勝ち取るほうが合理的な選択である。
実際、単身世帯よりも家族世帯のほうがより遠方に住み、多くの場合は夫だけが長時間通勤をする。残業をして高い年収を得る。妻が家事を全て担当し、夫は疲れ切って深夜に帰宅して家事分担はゼロ、という昭和型の完全分業となる。通勤定期・通勤手当制度の下では、この家庭内分業により1人分の通勤時間を節約することができるので非常に効率的な選択である。
しかしこの家庭内分業は「夫が仕事、妻が家事」となる場合が多く、女性の職場での活躍や男性の家庭での活躍が失われる結果となる。通勤定期によるこの分業が男女共同参画を大きく阻害していることは言うまでもない。
5.長時間通勤で失われる優秀な人材の創造的活動
通勤手当は、全てのサラリーマンに同一条件で与えられているわけではない。非正社員は対象外であったり、中小企業では上限額が低かったりする。高い通勤定期を利用し遠方から通勤できるのは福利厚生の充実した優良企業の正社員である。つまり年収が高く優秀な人材ほど、この「通勤手当の罠」にとらわれ遠距離通勤を選び人生の多くの部分を電車の中で過ごすことになる。
さらにこうした優秀な人材の配偶者は、やはり同様に優秀な人材である傾向があると考えられる。典型的には「エリートサラリーマンの妻」が家庭内分業によって本来発揮できたはずの能力を発揮できない損失は大きい。
もし通勤定期がなくこうした有能な夫婦が都心に居住していたとすれば、単に労働供給が増加しただけでなく日本の生産性を向上させる創造的活動が特に多く供給され日本の成長のエンジンとなっていた可能性が大きい。
6.結論と提案 通勤定期・通勤手当の廃止を
通勤定期・通勤手当は、毎年数兆円の負担を鉄道会社、勤務先企業、国家財政が分担している。それによってサラリーマンは不合理な遠距離通勤を選ぶインセンティブを与えられてきた。通勤定期によって、日本の都市は「薄く広く」ゆがみ、職・商・住が不自然に分離した。家庭内でも多くの有能な女性が専業主婦を選び、有能な男性ほど長時間通勤し長時間残業してきた。通勤定期・通勤手当は広く深い影響を及ぼし「昭和型の日本」を強化してきた。
変化はすでに始まっている。先進的な企業では、通勤手当を廃止したり職場の近くに住む場合に限って住宅手当を追加する動きが始まっている。コロナ流行期に在宅勤務の通信技術や労働スタイルが確立したことで、長時間通勤や男女家庭内分業という従来のワーク・ライフスタイルも変化を始めている。こうした変化を受けて都市構造についても、都心のオフィスの空室が増える一方で、都心のマンションの人気が高まっている。通勤定期によって作られた職・商・住の分離が弱まり混在する方向に動き始めている。
通勤定期・通勤手当が廃止された将来においては、片道2時間のような通勤は減り、群馬県が東京通勤圏に含まれることもなくなる。東京のサイズは小さくなり、他の大都市が発展すると予想される。都心では土地が高度活用され木造2階建てが減って高層建築が増える。職・住・商はより近くに立地するようになり利便性が高まる。残業が減り、共働きが増え、男女の優れた人材が創造性を発揮し日本経済に生産性の継続的な向上をもたらすであろう。
通勤定期・通勤手当の制度改革に当たっては、労働経済学、都市経済学はもちろん、ジェンダーや社会学の観点からの研究と所管省庁の積極的関与が必要である。通勤定期・通勤手当の制度改革は、データに基づく政策研究によって実際の政策を変え、それによって数千万人の日本人の人生や世界最大の東京都市圏の構造まで改善できる重要な政策課題である。