リスキリングがここ数年メディアを賑わせている。政治の舞台では、2022年の閣議決定において「『人への投資』の抜本強化と成長分野への労働移動」がうたわれ、5年で1兆円という具体的な政策目標が設定された。産業界では、経団連が従業員に学び直しの時間を確保できるよう企業に求めている。個々の企業レベルで見ても、ヤマト運輸やJALなど、日本を代表する企業が現職者の学び直しの在り方について試行錯誤を重ねており、成果を上げ始めているようだ。そこで、本稿では、リスキリングを広い意味で企業や労働市場で必要とされる実質的なスキルを身につける成人学習・教育ととらえ、そこに関係すると考えられる学術的知見やその政策的含意を概観したい。
学生と異なり、すでに働いている従業員へのリスキリングには、雇用企業の関与や協力が必須となる。その際に重要となる考え方が、スキルの企業特殊性、つまり得られたスキルが企業の外部の労働市場でも有効かどうか、である。Becker (1964)に連なる人的資本の考え方を応用すると、たとえ会社を離れても使える汎用性のあるスキルを一般人的資本と呼び、社内でしか効果を発揮しない限られた技能を企業特殊的人的資本と呼ぶことができる。前者の例はPythonやSQLなどのプログラミング言語の知識や理解であり、後者の極端な例は部署ローテーションを通して培われる社内の組織構造やノウハウや人間関係といったものが挙げられよう。
なぜ企業がリスキリングするのか
労働経済学的には、いずれのスキルの種類においても興味深い知見の蓄積がある。一般人的資本の成人教育分野における理論研究の金字塔の1つはAcemoglu and Pischke (QJE 1998, JPE 1999, 以下AP)であろう。それまでの既存研究では、完備情報・完全競争的な労働市場の前提の下で、スキル蓄積により限界生産性が上昇した労働者への企業間競争が起こり、結果企業が余剰を得ることができないとされた。この環境下では、企業による積極的な成人教育への関与を説明できない。この限界を超え、APは、労働者の現在の雇用主と潜在的な雇用主の間に情報の非対称性があるなど、労働市場に非完備性・不完全競争がある環境を考えた。この場合、企業が限界生産性の上昇から便益を得ることができるため、現在の雇用企業がスキルへの投資を行う誘因が生ずることを示した。
実証分野でも近年重要な進展があった。APの理論の肝となる部分は、スキル蓄積による限界生産性の上昇が、労働者の賃金上昇よりも大きいということである。企業はこれらの差分を投資のリターンとして取ることで便益を得るからだ。しかし、これをデータから直接検定することは困難であった。前者の限界生産性の上昇は通常観察することができないからである。この問題に対し、Dong, Kawaguchi, and Hyslop (2023)は、日本の派遣企業というユニークな設定を使ってアプローチした。すなわち、派遣企業で労働者がスキルアップ講習を受けたとき、派遣企業がクライアントから得られる報酬の増分を当該労働者の限界生産性増分と解釈できることに着目したのである。実際、スキル蓄積による報酬の増分は派遣労働者の賃金の増分より大きいことが分かり、APのモデルと整合的な結果が得られた。
翻って、企業特殊的スキルを考えてみよう。このようなスキルは自社の下でしか使えないわけだから、一般スキルに比べて、企業が投資をするのは当然だと分かる。しかしAPはここから一歩進み、特殊スキルにおいてもさらなる示唆のある指摘をしている。一般スキルと特殊スキルが両方重要であり、かつお互いがお互いの効果を高めあうような関係にあるとしよう。例えば、企業内の組織体系を熟知したベテラン従業員がプログラミングの基礎を理解できれば、社内の人的リソースをタスクに応じて効率的に割り振って生産性を高めることができるような状況が考えられる。このとき、企業は、特殊スキルに投資するからこそ、一般スキルの投資への誘因も同時に持つということになる。
政策は何を支援すべきなのか
さて、政策を考える際に重要となるのが、どのような再教育プログラムを政策的に支援していくのか、という観点である。直感的なレベルで言えば、一般人的資本の蓄積につながる講習は積極的に奨励・補助していくべきだが、企業特殊的人的資本は企業に任せるべきということになる。しかし、上記の議論を下敷きにすると、講習により(労働者ではなく)企業が受け取れる便益が小さいときや、また一般・特殊スキル間の相互補完性が小さい状況では、一般人的資本への投資が自発的に進まないため、政策的な後押しが重要となり得るということが分かる。
特に企業特殊的人的資本に関する実証研究は進んでいない。その主な障壁としては、純粋に企業特殊的なスキルは定義上計測することが難しく、理論的にもスキルの次元が大きくなりすぎると取り扱いに困難を要するからである。この分野でのデータに基づく研究を進め、政策議論に貢献していくことが学術界では重要ではないかと考える。