なぜいま母性資本主義なのか

藤 和彦
上席研究員

多死社会の到来

終末医療や介護関係者の間で「2025年問題」が懸念され始めている。団塊世代がすべて75歳以上になる2025年になると、老化に伴うがんや慢性疾患、老衰などで死に直面する人がこれまで以上に増加するため、死にゆく者をどこで誰が看取るのかが一層深刻になると予想されているからだ。

2018年の日本の年間死亡者数は136万人となり、1980年に比べると50万人以上増加した。2025年の死亡数は150万人を超え、ピークは2040年の168万人になると予測されている。死者数を年代別に見てみると、その90%が高齢者であり、その比率は30年後には95%になるという。

「死」が社会から隠蔽されているため、われわれはこのような状況の変化をほとんど認識していないが、超高齢社会になって久しい日本では、「突然の死」よりも「長くて緩慢な死」が圧倒的に多数となる人類史上初の「多死社会」が到来するのである。

たかが資本主義、されど資本主義

多死社会の到来で日本社会は変容を余儀なくされるが、資本主義にはどのような影響が生じるのだろうか。

マルクスは19世紀後半の英国経済の現実を資本主義(資本制的生産様式)という用語で表したが、資本主義という用語には「ありうべき理想が十分に実現していない」との意味を込めたとされている。その後時が経つにつれ、当時の時代背景や理想などが後景に退き、その用語は「モノの生産を伴う組織的な活動全体」というニュートラルな意味で使われるようになった。

現在の資本主義のドライビングフォースは「デジタル化」と「グローバル化」だが、行き詰まりの兆しが出ている。デジタル化(およびAI化)が進めば進むほど「世界の仕事のほとんどが機械によって代替されると巨大なデフレが起きる」との懸念が高まっているとともに、グローバル化についても「中国における工業化バブルと米国の資産バブルが早晩崩壊する」と警告を発する論者が増えてきている。

資本主義の問題点を鋭く指摘する岩井克人国際基督教大学特別招聘教授は「ほとんどの人は資本主義がポンコツであることを知っている」としながらも、ウィンストン・チャーチルの名言をもじって「資本主義は最悪の経済システムだが、資本主義以上のシステムは存在しない」ことを認めている。

「母性」の取り組みで生き残りを図る資本主義

資本主義は「資本」から価値を生み出すことを原動力にしている。資本は①金融資本(株式など)②物的資本(建物や設備など)③人的資本(労働者の能力など)の3つに分けられるが、現在最も注目されているのは人的資本である。ビジネス活動での創造性が重視されていることがその背景にあるが、人間の知能の中味は時代とともに変化している。

われわれはともすれば「物事を抽象化して捉える能力」を知能と考えがちだが、本来の知能の役割は「生存と生殖を最低限保持するために周囲を知覚し、動的な環境世界を動き回る」ことである。認知科学者のハワード・ガードナーが30年以上前に唱えた多重知能理論によれば感情も立派な知能(対人的知能)であるが、多死社会の下では死にゆく人の尊厳を守るための「看取り」をサポートしてくれる人材の確保が欠かせなくなっている。

一般社団法人日本看取り士会の柴田久美子会長は、長年にわたり抱きしめることを基本とする「看取り」の活動を続けてきたが、自らの経験から「魂の受け渡しを経験できる看取りを実現するためには『母性』の機能が大事である」と主張している。

母性とは「困った人を助ける」という本能である。哺乳類である人間は子育てにおいて授乳することができる母親の働きが大事なのは当然だが、母性とは女性だけに備わったものではない。母性とは物事をすべて因果関係で説明するのではなく、あいまいなことはあいまいのまま受けとめるという知性の在り方であり、時代時代に応じた文化的・社会的特性の1つである。

「生まれるとどうなるのかわからない」という状態で生まれる胎児は母性に導かれて育っていくが、「未知なるモノとの邂逅」によって生じる恐怖という心理状態は死の間際も同様である。

多死社会が到来する日本では、育児以上に臨終の場面で母性の働きが必要になってくるが、世俗化が進んだ現在、かつて臨終を迎える人の心に安心を与えてきた宗教にその任を託すのは無理である。

宗教に代わってその役割を果たしつつあるのは医療・介護だが、従事者数の日本の総労働者数に占める比率は現在15%弱だが、2050年には25%に達するとの試算がある。4人に1人がケアの精神(母性)が必要となる仕事に従事するようになるのである。

資本主義はこれまで「母性」の苗床であった共同体を食いつぶして成長してきたが、このような理由から筆者は「今後資本主義は『母性』の要素を取り入れることにより、生き残りを図っていくのではないか」と考えている。

パラダイムシフトの予感

しかし乗り越えなければならない障害がある。

終末医療・介護産業の現場ではいまだに「死がタブー」であることから、従事者のモチベーションが著しく阻害されているからである。

戦後の日本では「死は無価値である」という社会通念(パラダイム)が広がったが、前述の柴田氏が「望ましい死」という概念を提唱しているように、多死社会の到来に適したパラダイムシフトが起きなければならない。

「望ましい死」という概念については「死に価値付けをすることは不謹慎だ」との批判があるかと思うが、死全体をタブー視していては社会全体がニヒリズムに覆われてしまう。 未曾有の多死社会を乗り切ることができないのである。

『善と悪の経済学』の著者である経済学者のトーマス・セドラチェク氏は「資本主義の推進力がわれわれの倫理的感情とぴったりと合えば、資本主義は完璧になる」と主張しているが、資本主義の推進力(父性)に倫理的感情(母性)を注入することにより、ポンコツ化した資本主義を血の通う温かいモノにリニューアルできるとの希望が湧いてくる。

世界で初めて恒常的な多死社会に突入する日本は、今後高齢化が進む世界に対して、母性資本主義により誰もが「満足して死ねる社会」を築くことができるということを証明する必要があるのではないだろうか。

2019年8月21日掲載

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