産業技術政策と工業技術院の半世紀

沢井 実
通商産業政策史編纂委員

通商産業省は、終戦から第二次オイルショック頃までの期間を対象とした通商産業政策史の編纂事業を1984年に開始し、94年までに全17巻を刊行した。70年代後半から2001年の経済産業省の誕生までに20数年が経過し、この間の通商産業政策に対する歴史的な分析・評価を求める声が高まった。こうした中で(独)経済産業研究所は06年度から20世紀終盤における通商産業政策史に関する編纂事業(編纂主幹:尾高煌之助一橋大学・法政大学名誉教授、全12巻)を開始し、現在もその作業を精力的に進めている。

小生は『産業技術政策』(第9巻)の執筆を担当することになったが、以下ではまず戦後の産業技術政策と工業技術院の約半世紀におよぶ歴史の中から若干の興味深い事実を紹介してみたい。具体的には、占領下でのアメリカの対日科学技術政策の動きと工業技術庁の誕生、高度成長期におけるイギリスに範を取った共同研究体制構築の試み、つくば研究学園都市の誕生を取り上げる。

続いて今回の編纂事業の対象時期である1970年代~90年代の産業技術政策のうちとくに、石油危機を背景に開始されたサンシャイン計画、ムーンライト計画、80年代の「基礎研究ただ乗り」論への対応、バブル崩壊後の新たなナショナル・イノベーション・システムの模索のプロセスを概観し、最後に今後の産業技術政策の課題についてふれてみたい。

終戦:“研究禁止”から“復興支援”への転換

1945年8月の終戦とともに、民間企業、大学・工業専門学校(高等工業学校)、国立試験研究機関、公設試験研究機関から構成されるわが国の研究開発体制(ナショナル・イノベーション・システム)は軍民転換という大きな試練に直面する。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の命令によって陸海軍関係の諸研究機関が解体されただけでなく、国公立試験研究機関や大学などにおける軍事研究は厳禁され、民間企業も研究開発活動の軍民転換を急がねばならなかった。戦時期の科学技術動員機関の中心の1つであった技術院は1945年9月に廃止された。

原爆被害調査を別とすれば占領開始と同時に戦時中の軍事科学研究の実態と水準を把握するために、マサチューセッツ工科大学学長のカール・T・コンプトン率いる科学情報調査(コンプトン調査)が実施され、早くも11月には5巻からなる報告書がまとめられた。報告書の第1巻において、調査団は、日本には適切に活用されさえすれば戦時研究に多大の貢献をなしたであろう有能な科学者が多数いたにもかかわらず、戦時科学研究の進歩が大きく阻害されたのは、研究開発のための適切な組織が存在せず、陸海軍の協力がまったく欠如していたためであると結論付けた(注1)

GHQは各研究機関に対して研究活動の報告を義務づけるとともに、原子力、航空科学の研究を禁止し、電子技術研究を許可制とした。大学では「電子」、「電波」の名称がついた研究所・学科を「電気」に変更した。しかし、GHQの経済科学局科学技術課(ESS/ST)基礎研究班長のハリー・C・ケリー(Harry C. Kelly)らは1946年春ころから研究禁止から戦後復興のための研究支援へと対日科学技術政策のスタンスを大きく切り替え、研究制限を緩和した。

工業技術庁の誕生

研究開発のための適切な組織が存在しないこと、換言すれば研究所間の連絡の悪さといった点に日本の研究開発体制の弱点をみたケリーらはその改善案を提案し、それが1948年8月に商工省外局である工業技術庁が誕生する一因となった。従来の商工省所管の試験研究機関は原局あるいは大臣官房のもとに所属しており、機構上の横の連携が弱かった。この点の改善を図ったのが工業技術庁であり、同庁の下に鉱工業試験研究機関12機関が集められた。続いて52年8月に工業技術庁は工業技術院と改称され、外局から大臣官房の附属機関となった。

1950年度予算要求の柱として、工業技術庁は、1)試験研究機関の総合強化に必要な経費、2)新分野の試験研究機関の設置に必要な経費、3)工業化試験の積極的実施等に必要な経費など9項目を上げたが、その前提として、工業技術庁には「わが国における科学技術の発展は、その初期に政府が指導的役割を演じて以来順次民間の自力による発達に重点が移行し、政府の施策は補助的、奉仕的立場に変る傾向があったが、終戦を契機に事情は全く一変し、民間試験研究機関は衰退の徴が著しく、技術の奨励に関しては再び政府が主導的、助成的な役割を果さざるを得ない状態に立ち至った」(注2)といった現状認識があったのである。

高度成長期における共同研究の展開とつくば研究学園都市の建設

工業技術庁(院)は新技術開発機関および研究開発のあるべき姿を求めて欧米各国の実例を精力的に学習した。その過程でイギリスの研究組合(Research Association)が注目され、「企業の規模の大小を問わずわが国の現状においては各企業における協同研究が必要であり、このためには英国の研究組合制度が参考になる」(注3)とされた。その後の紆余曲折をへて鉱工業技術研究組合法が1961年5月6日に公布された。

当初、中小企業の共同研究の組織としても期待された鉱工業技術研究組合であったが、66~69年度には研究組合の設立はまったくなく、研究組合がふたたび活性化するのは、73年度以降、工業技術院の大型工業技術研究開発制度(大プロ、66年度に発足)の受け皿として研究組合制度が再認識されてからのことであった。民間企業の研究開発を支援する目的から通産省はさまざまな補助金政策を展開したが、67年度以降は大プロ予算が鉱工業技術試験研究補助金を大きく上回るようになった。

高度成長期になると、中央研究所ブームを迎える民間大企業の研究機関と比較した場合の国立試験研究機関の研究設備の劣悪さ・老朽化が次第に問題になった。こうした中で1961年9月の官庁移転に関する閣議決定を受けて、翌月には試験研究機関の移転が閣議了解された。続いて63年9月に政府は筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することを閣議了解し、70年5月に議員立法による筑波研究学園都市建設法が成立し、当初計画が終了した79年度には10省庁の43試験研究機関が立地することになった。

石油ショックと新エネ・省エネ

1973年10月の第4次中東戦争の勃発を機に第1次石油危機が発生するが、その2カ月前の同年8月に工業技術院は後のサンシャイン計画の基本骨格の立案を完了しており、石油危機の勃発は新エネルギー開発に関する推進体制について産業技術審議会(73年8月設置)において具体的審議が行われている最中の出来事であった。

1970年代の2度にわたる石油危機の発生は、海外資源に依存する日本経済の脆弱性を改めて認識させるものであった。この深刻な危機感が、「新エネルギー技術研究開発制度(サンシャイン計画)」(74年開始)と「省エネルギー技術研究開発計画(ムーンライト計画)」(78年)推進の原動力となった。76年にはIBMの次世代コンピュータであるフューチャー・システム(FS)に対抗して「次世代電子計算機用大規模集積回路開発促進補助金制度」(「超LSI研究開発」)が始まり、同年には「福祉機器」への関心の高まりを反映して「医療福祉機器技術研究開発制度」も開始された。

「基礎研究ただ乗り」論への対応

わが国の対米貿易黒字の急激な増加に伴い、1980年代は日米間の貿易・技術摩擦の時代であった。アメリカからは厳しい「基礎研究ただ乗り」論が出され、これに対して「世界の一割国家」としての国際貢献が強調された。基礎研究の強化は、1)次世代産業基盤技術研究開発制度(1981年)、2)民間企業の行う基礎的研究への出融資による支援(85年)、3)特別認可法人基盤技術研究促進センターの設立(85年)などの諸施策として実現した。さらに88年には産業技術研究開発体制整備法が制定され、新エネルギー総合開発機構(1980年設立、NEDO)に産業技術部が新設され、同機構は新エネルギー・産業技術総合開発機構と改称する。

以後、ナショナル・プロジェクトの企画・立案は通産省・工業技術院が行い、運営はNEDOが担当する分業体制となった。1980年代に入ると筑波研究学園都市に移転した国立研究所の研究が基礎重視の方向に動き、いわゆる「基礎シフト」が進んだ。一方産業界でも80年代後半の長期の大型好況の影響もあって「第2次中央研究所ブーム」を迎えており、産学官連携の促進といった政策の方向性とは裏腹に実態として国立研究所と産業界の乖離が生じる場面も表れた。国際技術摩擦への対応策でもあった国際研究協力の1つが、日本発の国際的な研究協力プログラムである、生体機能の解明と応用を目指すヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)の提唱(87年)であった。

新たなナショナル・イノベーション・システムの模索

バブル崩壊後、1990年代に入ってわが国のナショナル・イノベーション・システムは困難な経済状況に直面して新たな飛躍が求められた。93年度には従来からの大型工業技術研究開発制度、次世代産業基盤技術研究開発制度、医療福祉機器技術研究開発制度の3ナショナル・プロジェクトを統合して新たに産業科学技術研究開発制度(産技制度)が発足し、同時にサンシャイン計画とムーンライト計画も一本化されてニューサンシャイン計画となった。国立研究所では93年1月に化学技術研究所、微生物工業技術研究所、繊維高分子材料研究所、製品科学研究所の4所を再編して新たに物質工学工業技術研究所と生命工学工業技術研究所が設立され、同時に電子、機械、バイオなどの分野を横断・融合する産業技術融合領域研究所が創設された。「基礎研究ただ乗り」論に対する対応として世界的にみても魅力のあるCOEを設立するといった意図だけでなく、融合研設立の背景には任期制、外部研究者の積極的登用、外部有識者による評価といった新しい国研マネジメントを試行する場として「出島」的研究所が必要といった判断もあった。さらに90年代に入って不況が深刻化する中で80年代後半とは打って変わって民間企業における基礎研究が後退したため、これを補完する意味からも国立研究所における基礎研究の継続が民間から求められたのである。

しかし1990年代後半になっても景気低迷が続き、製造業の空洞化が深刻化する中で、欧米各国における産業技術力強化の動きに対する危機感が高まり、国際技術・研究協力よりも、国内における雇用の増加をもたらす新規産業の創出、研究開発の効率化・評価、産学連携・国内技術移転強化などのナショナル・イノベーション・システムの強化・見直しを目指す政策が積極的に展開されるようになった。「基礎シフト」から「実用化シフト」への産業技術政策の重心移動がふたたび生じたのである。こうした中で95年11月には議員立法である科学技術基本法が成立し、96年6月から科学技術基本計画がスタートすることになる。

省庁再編、“工技院”から“産総研”へ

1990年代後半の橋本龍太郎内閣期(1996年1月~98年7月)になると従来の縦割り行政を排して、内閣総理大臣の強いリーダーシップの下で重点施策を敏速に決定し、その政策目標を達成するために各省庁が協力するといった政策決定プロセスの大きな変化が顕著になった。そうした動きを代表するのが、1996年12月の閣議決定「経済構造の変革と創造のためのプログラム」およびそれに基づく97年5月の「経済構造の変革と創造のための行動計画」であり、新規産業創出が大きな課題となった。通産省でも従来のように個々の新政策構想を下から積み上げていくのではなく、新規産業15分野を創出するために他省庁と連携しながら通産省として何をなすべきかといったように、政策決定プロセスが決定的に変化する。

1998年には大学等技術移転促進法(TLO法)が制定されて、大学、高専、大学共同利用機関および国立研究所の研究成果を民間部門に移転する動きが始まり、99年には産業活力再生特別措置法(日本版バイドール法)によって国の委託事業の研究成果に係わる特許権の民間移転が促進されるようになった。続いて2000年4月制定の産業技術力強化法によって「産業技術力」、「技術経営力」および産学官の研究開発ネットワークの強化が目指された。2001年1月の中央省庁再編に伴い、工業技術院は経済産業省産業技術総合研究所に改組され、同年4月には(独)産業技術総合研究所に組織変更した。同年1月に産業技術審議会は産業構造審議会・産業技術分科会に移行し、科学技術会議(総理府)は総合科学技術会議(内閣府)となり、経済財政諮問会議と並ぶ存在となった。

産業技術政策の課題

20世紀の終盤約20年間、ナショナル・プロジェクトという名の共同研究開発は、テーマ選定のあり方、メンバーの構成、研究開発成果の評価のあり方を巡って模索を続けた。また「基礎的・先導的科学技術分野及び地球環境問題等の全人類的課題への取り組み強化」(注4)を高らかに謳った「基礎シフト」路線は、その後の長期不況の中で「実用化シフト」へと大きく舵を切った。しかし振り子は元の場所に戻った訳ではなく、この間に地球環境問題、資源エネルギー問題、食糧問題はいずれも深刻の度を増し、わが国はアメリカ・EUとともに研究開発のフロンティアの位置に立つことになった。明日の問題が今日の問題となり、「基礎」と「実用化」の線引きがますます難しくなり、研究開発の国際的連関が一挙に深まった現在、フロント・ランナーとして研究開発の不確実性を引き受けるためには、同じ問題に直面する他者・他国・他地域との交流をさらに深める必要がある。産業技術政策が「全人類的課題」と正面から向き合うことの中からしか、産業の未来は見えてこないだろう。異なる者同士にさまざまな交流の場を設定し、そこでの成果をふたたび私的な研究開発活動に持ち帰る仕組みをいかに構想するか、今後の産業技術政策の大きな課題の1つである。

2009年7月21日
脚注
  • 注1)General Headquarters, United States Army Forces, Pacific, Scientific and Technological Advisory Section, Report of Scientific Intelligence Survey in Japan, September and October 1945, Volume 1, 1 November 1945, p. 8.
  • 注2)工業技術庁「工業技術振興費の予算要求について」昭和24年9月2日。
  • 注3)杉本正雄「英国の研究組合制度について」(『日本機械学会誌』第59巻第451号、1956年8月)593頁。
  • 注4)通商産業省工業技術院編『90年代の産業科学技術ビジョン-豊かで住みよい地球への知的挑戦』(財)通商産業調査会、1990年、16頁。

2009年7月21日掲載

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