日本企業が外国で事業展開をする際、さまざまな辛酸をなめることは広く知られているところである。途上国で活動するときはもとより(進出前に提示された条件と進出後の対応が違うなどという話は掃いて捨てるほどある)、先進国でも安心できない。たとえば、最近EUで事業活動する企業がEU競争法違反の容疑で1000億円レベルの課徴金を課される例が頻発している(経済産業省「競争法の国際的な執行に関する研究会中間報告」[PDF:682KB]参照)。日本企業が明確な競争法違反を行っているのであれば仕方ないが、違反が明確でないケースも相当あるようだ。それに対して日本企業は、健気なまでに自らの力だけで解決を図ろうとすることが多い。
最近は沈静化しているが、90年代頃まで、米国政府や英国政府が種々の要求を日本政府に突きつけたことを記憶している方も多いと思う(経済摩擦)。これらの要求は、おおむね個別企業の要求を政府が代わって行ったものだった。90年代半ばの日米フィルム紛争は、コダックの日本シェアの拡大を露骨に目指すものだった。このような事例は、民間企業だけの苦情であれば無視される場合であっても、政府が代弁すれば相手政府も耳を傾けざるをえないことを示している。日本企業の苦情の一部を政府が代弁すれば相手の対応が変わる可能性もある。政府は個別企業の外国における苦境に対してどのように関わることができるのか。そしてどのような関わり方をわれわれは期待すべきだろうか。
国家の外交的保護
まずは、被害者が自然人の場合を説明することから始めよう。企業の場合は自然人の場合の応用である。
外国において、その国の責に帰すような事柄で国民が被害を受けた場合に、所属国(国籍国)が救済を要求することを、「外交的保護」という。外交的保護は国際社会では古くから認められてきた。ここで「被害」というのは、財産上または身体上の被害(前者としては財産没収、また後者としては殺害が典型例)をすべて含む。また「救済」とは、加害国が、被害前の状況に戻したり、賠償金を支払ったり、また謝罪することなどを指す。
ここで問題になるのは、外国の「責に帰す」の意味である。たとえば、かつてエジプトの観光地で新婚旅行中のカップルがゲリラの襲撃を受けてそのうち何名かが亡くなったことがあった。このケースでは、エジプト政府に落ち度があったかどうかで「責」の有無が判断される。この場合は、「落ち度」の有無はその国がおおむねどの程度の治安状態にあるかで判断される。日本ではあまり報道されないが、エジプトではしばしば反政府組織ゲリラの襲撃があり、現地警察もそれを完全に封じ込める状況ではない。襲撃が行われた状況がこのようなものであった以上、被害に遭った方には気の毒だがエジプトに「責」があるとはいえない。
他方、これも少し前の事件だが、早大生がペルー奥地でアマゾン川を探検中にペルー軍隊によって殺害されたことがあった。事件直後に、ペルー奥地のような治安の悪い所に出かけたのが事件の原因だというような論評が新聞に出た。確かにエジプトと比べてペルーの方が治安が良いとはいえない。しかし、ここで注意しなければいけないのは、犯人が兵士だということである。兵士が無辜の外国人を殺害すれば、兵士の所属国に責任がある。これは政府が外交的保護を発動できる状況であるし、国民として発動を期待していい事例である。
ここで少し脇道に逸れるが、昨年ミャンマーで日本人カメラマンがミャンマー軍兵士に銃殺された事件を思い出してほしい。事件後に、支援団体はミャンマー政府を糾弾する声明を発表するなど抗議活動を行い、また国際刑事裁判所への提訴を訴えた。上記の国際法の知識があれば、何はともあれミャンマー政府の責任追及(単なるカメラの返却だけではない!)を政府外務省に要求することを考える。外務省設置法には、外務省の事務として、「日本国民の海外における法律上又は経済上の利益その他の利益の保護及び増進」、また「海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全」が掲げられている(4条)。
政府外務省が相手なら国会での質問等を通じて働きかける術はいくらもある。援助国日本がミャンマー政府の責任を追及すればその威力は相当なものであり、東京のミャンマー大使館前でシュプレヒコールを挙げるのとは格段の差がある。しかし、この点を突く報道を一度も見なかった(兵士が民家人を銃殺しても、誤解を恐れずに言うと、「その程度では」国際刑事裁判所の対象とする国際犯罪には当たらない。国際刑事裁判所を高く評価する声があるが、日本に直接関係することは実はほとんどない)。
企業の場合
外交的保護の法理は当然のことながら企業にも適用される。企業が外国でその国の責に帰すような事柄で被害を受ければ、国籍国に救済を要求できる。ここでいくつか注釈を付そう。政府は個別企業の肩をもつべきではないという考えを、官界だけでなく民間でも持つ人がいる。国内であれば、特別な場合を除いて、社会公共のために政府は活動し、特定企業の利益増進を目的とすることはほとんどない。しかし、特定の商品の販売促進を政府が行う場合はともかく(フランスなどは首脳がトップセールスをやることもあるようだが)、自国企業が外国で被害を蒙った場合に、自国企業の救済のために外国政府の責任を追及するのは国籍国の当然の役割だ。国民の生命と財産を守ることこそが、国益の中核だからである。
外国国家に「責」があるということは、政府(中央政府に限らず地方政府等も含まれる)の機関(これも行政機関に限られず裁判所であってもよい)が直接手を下した場合が典型的であるが、直接的には個人に責任があるがそれを政府機関が見逃していたような場合(外国人保護の義務の懈怠)でも国の責任になる。一昨年の中国での反日デモで群衆から投石があったが、それを警官が見逃していたとすれば国の責任となる。また責任があるかないかについても、事前に条約が結ばれていればそれに照らして判断できるが、それに加えて国際社会には不文の国際慣習法(一般国際法)があって各国を縛っており、それも責任判断の基準となる。どうも不文の国際慣習法が分かりにくいようだが、諸国が共通の規範を共有していると考えればいい(何がそれに当たるかは常識的に判断できることもあるが、分からなければ国際法学者に聞いてください)。また企業の場合、企業の設立された国が国籍国であることは間違いなく、それ以外に親子会社の場合は、親会社の設立地国も通常は国籍国と考えられる。
自国民の救済に国家が乗り出すのは常識
外国で事業活動する以上、その国の法令に従い、紛争はその国の裁判所で争うのが原則である。そうはいっても、外国政府のなかには、裁判所も含めて、不合理なことを行う政府も多い。それに対して、事前に条約を結んで外国での自国民の法的地位の安定を図ることは政府の当然の責務であるが、同時に被害を受けた個々の自国民の救済に国家が乗り出すのも当たり前のことである。タックスペイヤーとして十分政府に期待していいことである。
そもそも外国との友好関係を図るために、外国政府の責任追及の話をしたがらない外交当局者がいるとは思えない。国家として筋は筋として通さないと国際的な信用をなくすことは必然だからである。「事なかれ主義」は断固として排除しなければいけない。外国政府が理不尽とも思える行動に出た場合には、われわれは、その行動を国際法に照らして考え、自国政府の支援を仰ぐという行動様式を身につける必要がある。投資協定を結び、経済連携協定に投資章を置くのは、相手方政府の責任水準を上げることだということも肝に銘じてほしい。このことが分かれば、どこと投資協定を結んでほしいかという希望もすぐに出てくるはずである。国際社会を生き抜くためには政府と二人三脚でなければいけない。もし政府が支援してくれなければ、企業は所属国を変えることもできる。