格差社会と起業

安田 武彦
ファカルティフェロー

格差社会における起業の成功の位置づけ

筆者は日本の経済において所得の不平等が進行しているのか、格差が拡大しているのかという問題は現下の経済イッシューとして最大のものであると考える。90年代以降のジニ係数の上昇に見られる所得分配格差の拡大については、人口の年齢別構成の変化による見かけ上のものであるとする地道な実証研究もあるが、「下流社会」、「希望格差社会」といったインパクトのある言葉と共に「格差論」はむしろヒートアップしている。今国会においても小泉構造改革がこうした状況を招いたとし、構造改革の負の側面としてこの問題がとりあげられ、政党間でさまざまな論戦が行われている。

これらの論争において格差の存在あるいはその拡大についての事実認識と評価は立場により異なるものの、合意が得られていることは、格差が固定化されることは望ましくないということである。一度、「負け組」となった人も再挑戦することによって、「勝ち組」に転じることができるのであれば、格差の存在は(立場の違いでより程度は違うものの)ある範囲で許容できるだろう。こうした見方から「再挑戦できる社会」といった言葉がさまざまな場で語られる。政府もこの点について十分に配慮しており、起業・就業の再挑戦支援のため「多様な機会のある社会に向けての推進会議(再チャレンジ推進会議)」を設置した。

しかし、問題はここでいう「再挑戦」とは何かということである。「負け組」の代名詞としてしばしば挙げられるニート、フリーターの正規雇用化もそうであろう。また、経営の悪化した企業でリストラされた中高年サラリーマンが成長企業に転職することもそうであろう。しかし、それだけではない。「再挑戦」の大きな柱としてリストラされた人や事業に失敗した人が、起業、あるいは再起業してそれなりの成功を収めるというパターンも考えられている。つまり、起業も格差を固定化しないための重要な一要素として捉えられているのである。

起業による再挑戦を成功させるものは何か

そうであるとすると、問題となるのは起業の成功が一体、何に依存しているのかである。もし、それが起業前に金持ちであったかどうかといった先験的要因に、もっぱら依存しているのであれば、失敗して資産の乏しい人に「起業による再挑戦」を訴えることは虚しいものとなってしまう。

ここまでくると格差社会問題への評価は経済学の研究領域に入ってくる。問題意識に沿った質問は色々な形があるがここでは以下のとおり立ててみよう:「起業家の成功は起業前の状況に依存するのか」

この問題については実は2つに分けることができる。第1は、個人の起業前の状況が起業できるか否かに影響するのかという質問である。第2は、起業家となった場合、起業後の成功が個人の起業直前の状況によって影響を受けるのかという問題である。

前者については最近に至るまで欧米において個人の保有資産とその後の起業家確率という文脈で様々な研究報告が行われている。筆者の知る範囲でそれらの報告を総括すると、保有資産規模が大きい程一般に被雇用者が自営業者となる(起業する)可能性は高く、この点では金持ちの方が起業しやすいということが出来る。しかし、こうした効果が顕著であるのは限られた富裕層(米国のある研究では資産規模上位10%以上の資産)の場合であるというものである。このことは、限られた富裕層のみが起業家として再挑戦するチャンスを特別に与えられるが、それを除く層では資産による起業確率の差は軽微なものであるということなろう。別の言い方をすれば、起業をするだけであったら「負け組」でも可能である。但し、起業家が起業前に既に背負っているその他の属性、例えば失業や倒産暦が起業の障害になるかの分析は行われていない。

次の問題に移る:「起業後の成功が個人の起業直前の状況によって影響を受けるのか」

この問いについては筆者の見る限り内外の研究によって、1)起業資金規模は起業直前の保有資産や教育水準と正の相関を有すること、2)起業資金規模が大きい場合ほど、その後の企業の成長率は高いことが確認されている。この2つを結びつけるならば、3)資産を多く保有する金持ちの起業はそうでない起業に比べ成功するということになる。つまり、起業の成功も所詮、お金を持っており、学歴が高いかどうかにかかっているということになりそうである。

しかしながら、ことはそれほど簡単ではない。1)と2)は正しくてもそれを組み合わせた3)が正しいとは限らない。「風が吹けば桶屋が儲かる」式論理は、成り立つとは限らないのである。

筆者は、RIETIディスカッション・ペーパー「どの起業家が流動性制約下に強くおかれているのか-日本の起業データからの研究-」において、1)、2)を確認し、かつ、その作業過程で3)の仮説を検証した。結果は有意水準を10%と緩く設定しても、3)の仮説が成立するという証拠は見出せなかった。

また、学歴について弱い正の相関は認められているものの、起業直前の保有資産について「起業による再挑戦」というキャッチフレーズは、意味を持たないものではないのである。

起業による再挑戦で注意するべきこと

但し、それだからといって「失敗した」と感じた誰もが起業による再挑戦に挑むことが良いわけではない。先のディスカッション・ペーパー作成過程においても明らかに起業後のパフォーマンスが悪い例が発見された。1つは「他に転職先がなかった」故に起業したものであった。また、高齢になってからの起業は退出率が高く、成長性も低いという点も内外の研究から指摘されている。それらから類推できるように起業に不向きな人もいるわけである。

普通に考えても、人に雇われるのと自主独立で仕事を行うのでは後者の方が難しいわけであり、前者は出来ても後者が出来ない人がいることは当たり前である。

したがって、こうした人に対してまで起業による再挑戦を勧めることは、失敗による人生の痛手を増幅させることに繋がりかねないものである。

「再挑戦」が出来ない社会は格差社会の固定化という観点から問題である。しかし、こと起業という形の再挑戦については、それを誰が行うかによっては格差を拡大させるという面がある。この意味でこれから行われる「再チャレンジ推進会議」での議論が、「起業」に過度な期待を寄せず、冷静に進められることを期待するものである。

2006年4月25日

2006年4月25日掲載

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