フリーキャッシュフロー問題と日本企業

蟻川 靖浩
ファカルティフェロー

近年、日本企業のフリーキャッシュフローが増加している。法人企業統計によると、1990年には全企業で見た場合のフリーキャッシュフローがマイナス6兆円強だったものが、2000年には約10兆円、2003年にはその2.3倍の約23兆円へ増加している(注1)。こうしたフリーキャッシュフローの増加と共に総資産に占める現預金保有比率も、東証上場(新興市場を除く)企業に関して2000年以降を見ると基本的には増加傾向にある。

過大投資により発生するフリーキャッシュフロー問題

企業の保有する余剰資金は、非効率的な企業経営を示すものとして捉えられることが多い。実際、アクティビストのターゲットになりやすい企業の特徴として、余剰資金を豊富に持つ点がしばしば指摘される(胥、2006)。こうした、企業の現預金保有に対するネガティブな見方の背景には、いわゆるフリーキャッシュフロー仮説がある。企業が保有する内部資金は、その使用方法について経営者の裁量の余地が大きく、契約などで事前に経営者に資金の最適な使用方法を強制することは困難である。その結果、内部資金を用いたモラルハザード的意思決定を経営者が行う可能性が高くなるのである。実証的にも、たとえばLang, Stulz and Walking (1991)は、トービンq(注2)が1を下回るという意味で投資機会を持たない一方でキャッシュフローが豊富な企業によるM&Aは、株主価値を上昇させない可能性が高いことを指摘している。

またMalmendier and Tate (2005)は、フリーキャッシュフロー問題が、経営者が自社の将来の見通しについて過度に楽観的な場合にも発生することを指摘している。なぜ経営者が自信過剰になるとフリーキャッシュフロー問題が発生するのだろうか。今、ある企業の新規投資機会の収益性について、市場が合理的に評価する一方で、当該企業の経営者はより楽観的に評価しているとする。この場合、経営者にとっては市場から要求される資本コストは高すぎるために、外部から資金調達を行って設備投資を実施するインセンティブは低下する。そして、内部資金が豊富な企業の場合ほど、より積極的に投資を行うことが可能となる。すなわち、設備投資は企業の内部資金量に依存するのである。ここでの議論で重要なことは、内部資金を用いて行われた投資は、経営者が自社の将来収益に対して過大な自信を持ったために行われた可能性が高いという点である。つまり、株主から見ればこのような投資は過大投資であり、フリーキャッシュフロー問題が発生していることになる。

2つの要因によって正当化される企業の現預金保有

しかし、企業の現預金保有は常に否定的に捉えられるべきものではなく、理論的には以下の2つの要因によって正当化される。第1の要因は取引費用の存在である。急な資金需要に際して外部から資金を調達すると高い取引費用を支払う必要がある場合、現預金を保有することは株主価値最大化にとっても望ましい。第2には、情報の非対称性の問題がある。外部市場との間で情報の非対称性がある場合、企業が保有する現預金は、経営者にとって最もコストの低い資金調達手段であるため、内部留保を蓄えるインセンティブを持つことになる。以上の2つの考え方に共通していえることは、企業の将来の投資機会が豊富であるほど、現預金保有比率は上昇するという点である。というのは、取引費用や情報の非対称性の存在を前提とすると、投資機会を豊富に持つ企業ほど資金が調達できない場合のコストが大きいため、資産としての収益率は低くても現預金を保有して投資機会を失うリスクをヘッジしようとするのである。

実際、筆者が1999年以降の東証上場(新興市場を除く)企業の現預金保有の決定要因を推計したところ、第1に、トービンqで示される将来の投資機会を豊富に持つ企業ほどより多くの現預金を保有していた。また、企業規模(総資産の対数値で測った)が小さいほど、現預金保有比率が高いことも確認された。規模の小さな企業ほど情報の非対称性の問題に直面する可能性が高いと考えられるので、この結果は、外部市場との間で情報の非対称性が深刻な企業ほど、投資資金の調達ができないリスクをヘッジするために、現預金保有を行っていることを示唆すると考えられる(注3)。そして、これら2つの要因で説明される現預金保有部分については、先にも述べたとおり株主価値最大化と矛盾しないと考えられる。

日本企業の近年の株主還元に関しては、ファンダメンタル価値に基かなくても市場での評価にあわせるように配当を支払っている傾向があるとの指摘もある(谷川 2006)。フリーキャッシュフロー問題を防ぐ範囲での余剰資金の株主還元は、株主価値最大化の観点から正当化されるものであり、この観点から企業のコーポレートガバナンスの体制を強化することは当然である。他方、それを超えて、将来の投資機会に備えた、あるいは情報の非対称性によって保有せざるを得ない現預金まで配当や自社株償却で株主還元に回すとすれば、それは長期的には株主価値の最大化につながらない可能性が高い。

2006年3月7日
脚注
  • (注1) ここでは当期利益+減価償却費-設備投資=フリーキャッシュフローとしている。
  • (注2) トービンのq理論 (Tobin's q theory) 。アメリカの経済学者ジェームズ・トービンが提唱した投資理論。トービンのqは株式市場で評価された企業の価値を資本の再取得価格で割った値として定義される。
  • (注3) アメリカ企業のデータを用いたOpler et al(1999)も同様の結果を示している。
文献
  • 胥 鵬(2006)「どの企業が敵対的買収のターゲットになるのか」経済産業研究所ディスカッションペーパー(06-J-008)
  • 谷川寧彦(2006)「株主還元のあり方」mimeo.
  • Lang, L.H.P., R.M.Stulz and R.A.Walking (1991) "A test of the free cash flow hypothesis: the case of bidder returns," Journal of Financial Economics 29,315-335.
  • Malmendier U. and G.Tate (2005)"CEO overconfidence and corporate investment", Journal of Finance 60,2661-2700.
  • Opler, T., L Pinkowitz, L. R. Stulz and R. Williamson. (1999), "The Determinants and Implication of Corporate Cash Holdings," Journal of Financial Economics, 52: 3-46..

2006年3月7日掲載

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