消費者行動の実態を把握することの重要性については、かねてより指摘されている。小渕内閣時代、月例経済報告の関係閣僚会議の指摘を受けて、経済企画庁と総務庁(共に当時)の共同による「個人消費動向把握手法改善のための研究会」が発足し、家計消費関連調査の充実が図られた。しかし、消費者の行動は依然多くの謎に包まれている。
今なぜ消費者の行動なのか
消費の動きをどう見るかは景気判断の重要な分かれ目になる。橋本内閣における9兆円の国民負担増を97、98年の景気後退の主因に数える向きもあるが、実態は、大手銀行や証券会社の破綻に端を発した金融危機が家計を含め広く経済主体の心理を冷やし、財布の紐を締めさせたことによるところが大きい。10年停滞に関し、消費者が先行き不安から予備的な動機に基づく貯蓄を増やしたとの実証研究が多くなされている。踊り場を迎えている今次景気回復局面の今後を占うポイントの1つも個人消費にある。
消費者の行動はよくわからない
消費者行動の予測を難しくする理由の1つが、人は時に不可解な行動をするという、あたり前というか人生や世の中を面白くする真理の存在である。
経済学でいう消費者とは、一貫した効用関数をもち、その時点で有する全ての情報を利用して将来にわたる効用(=満足度)の最大化を図る「合理的な」経済主体である。こう聞いただけで「そんな人がいるはずない」という反論がすぐに帰ってきそうである。人間の行動に関するできるだけシンプルかつ普遍的な理論を導き出すという経済学の特性からいって、消費者行動の定式化は避けて通れない。問題は、この定式化が十分な説得力を持っているかどうかである。
経済学的には、物価の伸び率でデフレートした実質所得の伸び率に意味があるといっても、実際には、目に見える名目所得の伸び率にこだわる人が多い。気分や雰囲気で必要のないものを買ってしまい、後に後悔するなど日常茶飯事である。人が決して合理的な存在ではないことを前提としつつ、どこまで非合理か、そこに法則性がないのかを、心理学の領域に踏み込みつつ考える行動経済学という分野が、近年脚光を浴びている。大阪大学社会経済研究所には、昨年行動経済学研究センターが設置され、主観的割引率や危険回避度に関するアンケート調査を大々的に行っている。現在はまだ行動実験にとどまっているが、こうした調査をもとに消費者行動の解明が進めば、たとえば、計量モデル中の消費部門において、合理的な予測のもとに行動する消費者(=堅実な福井県人型)ともっぱらその時点の所得のみで行動する消費者(=宵越しの銭をもたない江戸っ子型)との割合を決める重要な手がかりが得られる。
消費者に関するデータの不足
消費者行動の予測を難しくするもう1つの理由が、消費者に関するデータの不足である。母集団のサンプル数からいって統計を作ることの難しさは容易に理解できるが、それだけでなく、先行きに対する予想すなわち「期待」を訊く統計が少ないという点で、質的にも企業統計に比べ見劣りがする。
企業に関しては、日銀「企業短期経済観測調査」で先行きを含めた企業の各種判断がわかるとともに、内閣府の「企業行動アンケート調査」では企業の期待成長率も調査されている。一方、消費者については、内閣府「消費動向調査」において、暮し向きや収入の増え方などに関する消費者の意識が訊かれ、同時に物価の見通しが定量的に訊かれている。しかし、全体としての消費者意識の時系列的変化は捉えられても、個票をもとに、意識や期待の形成メカニズムについて分析するには、属性や所得など必要な定性・定量情報が足りない。
増減税や金利水準など、重要な経済政策について消費者がいかなる期待を抱いているかも、政策運営上重要なポイントである。今後このようなデータ・情報の蓄積が強化されることが期待される。
パネル調査の必要性
政策効果に関しインプリケーションのあるデータを収集するという点で優れているのがパネル・データである。パネル・データとは、同一サンプルについて時点を変えて捕捉したデータであり、これにより、結婚や減税など、実際に起きたイベントに対し、個人がどう反応したかを知ることができる。米国では、PSID(Panel Study of Income Dynamics)という、ミシガン大学社会研究所が1968年以来行っている大規模なパネル調査があり、これを基にさまざまな実証分析が行われている。同調査の家族サンプルは7000、個人サンプルは6万5000に達し、最長36年間の同一サンプルが得られる。調査は、所得、雇用、家族構成など毎回聞くコア項目と、調査時点によって内容が変わる補完項目とからなる。
わが国では、(財)家計経済研究所による20、30代女性を対象とした「消費生活に関するパネル調査」や、慶應義塾大学の21世紀COEプログラム「就業と生活について」(家計パネル調査)が存在するが、これらの歴史はまだ浅い。本格的な高齢化社会到来を控え、日本の経済社会は大きく変貌しようとしている。関係各機関の連携による個人パネル調査の一層の充実と、これをもとにした研究の推進とが求められている。