10月中旬の日墨首脳会談を目指して、鋭意、交渉が続けられてきた日墨経済連携協定(EPA)交渉は、日本側が一部の農産物の輸入自由化を認めなかったため、最終的な合意には至らず交渉が続けられることとなったと報道されている。
本論では、経済連携協定の重要な部分を占める財貿易の自由化協定(FTA)に関し、一部の財の自由化を進めないことがどの程度の影響を持っているのか、経済モデルによる数値シミュレーションにより考察してみることとする。
日墨FTAが締結されれば、日本の実質GDPを0.03%程度、メキシコの実質GDPを1.08%程度上昇可能
本論で用いる応用一般均衡世界貿易モデルによれば、関税率の引き下げを始めとする貿易の自由化は、取引きされる財の価格を低下させ、貿易量を増大させる。また、輸入価格の下落は、輸出国側の生産を増大させるだけでなく、輸入国側でも貿易障壁による国内市場の歪みを削減し、生産資源の利用を効率的にする。これらの効果があいまって、FTAを締結する両国で、生産が拡大し所得や厚生水準も増加する。さらに、安価な輸入財との競争が進むことによる生産性の上昇効果、投資の増加を通じた経済成長効果など、貿易の自由化にはダイナミックな経済効果も期待できる。
なお、理論的には、FTAを締結する両国間での貿易創出効果に対して、両国の輸入がその他の効率的な地域からの輸入を代替してしまう貿易転換効果が懸念されるが、これまでの実証的な研究やモデル分析では、総じて貿易創出効果の便益が貿易転換効果の損失を上回ることが示されている。
実際、昨年7月に取りまとめられた「経済関係強化のための日墨共同研究会報告書」でも引用されている筆者のモデル分析によれば、日墨FTAの締結により全分野で貿易が自由化されれば、日本の実質GDPを0.03%程度、また、メキシコの実質GDPを1.08%程度、それぞれ上昇させることが示されている。
他方、貿易自由化に当たっては、マクロ的な貿易、生産の変化に比べ、産業レベルでの変化の方が著しく大きくなる。たとえば、同じく筆者のモデル分析によれば、我が国のメシキコに対する自動車を始めとした輸送機械の輸出は3倍に拡大する一方、我が国のメキシコからの豚肉を始めとした肉類の輸入は5倍に拡大する可能性が示されている(詳細は、拙論、川崎(2003)、「WTOとアジアにおける自由貿易地域の形成」、岩田一政編「日本の通商政策とWTO(日本経済新聞社)」の第7章を参照)。
したがって、両国の関係者がこれらの大きな変化による影響を懸念することは、理解できないところではない。モデル分析による経済効果は、そういった産業構造の調整に成功することが前提となっている。産業間での雇用調整に失敗すれば、失業が発生し、モデル試算が示すような経済的な便益は実現しないこととなる。
ただし、特定の国との貿易自由化が、各国の生産全体に与える影響は限られたものでしかないことには留意する必要がある。実際、我が国のマクロ的な生産数量は、輸送機械では0.2%上昇する一方、肉類で0.6%下降するに留まるものと推計されている。
二国間のFTAの交渉は、貿易の経済的側面を超えた政治・外交的な交渉である
国際的なルールであるWTO協定と整合的な範囲で二国間のFTAを締結するためには、相当程度の分野をカバーすることが必要となっている。多くの分野を自由化の範囲の対象から外すことは出来ないことになっている。
しかしながら、ここでは、仮に我が国が肉類の輸入自由化を含めない場合、また、メキシコが輸送機械の輸入自由化を含めない場合に、どの程度の経済的な影響があるのか、改めて、試みに推計してみることとする。
その結果、我が国が肉類を自由化しない場合、実質GDPでみたマクロ経済的な効果は、両国でそれぞれ1割弱小さくなるものと推計される。他方、メキシコが輸送機械を自由化しない場合には、両国の実質GDPの経済的効果はそれぞれ3-4割程度小さくなるものと推計される。
これらの推計結果は、第一に、非効率的な分野の貿易自由化は、マクロ経済的には、輸出国側だけでなく輸入国側にとってもプラスであることを確認するものであるといえる。更には、我が国の肉類とメキシコの輸送機械との輸入自由化の重要性を比較してみれば、メキシコの輸送機械の方が圧倒的に大きな効果、影響がある可能性を示しているものとも解釈できよう。肉類の自由化が出来ないために輸送機械の自由化が実現しないことになれば、両国とも大きな代償を払うこととなる。
二国間というような限定的な貿易自由化は、多角的な貿易自由化に比べて、経済効果も小さなものであることは確かである。二国間のFTAの推進は、セカンドベストに過ぎず、より広範な世界的な貿易自由化実現のためのステップであり、それ自身が最終的なゴールとされるべきではない。しかしながら、WTOでの貿易自由化の進捗が必ずしも思わしくない現状の下では、地域的な取組みも現実的な手段のひとつと位置付けられよう。
二国間のFTAの交渉は、貿易の経済的側面を超えた政治・外交的な交渉と考えられる。我が国の特定産業をどのようにして守るか、また、国際協調といった観点からどこまで譲るかといったような「守り」の交渉だけで終わるのではなく、相手国から何を引き出すかというような「攻め」の交渉が必要になろう。
経済モデル分析には、一定の限界があることに留意する必要がある。試算結果は、ある程度の幅をもって解釈すべきものである。しかしながら、難しい交渉に当たって、数量的に分析した相対的な重要性をある程度踏まえておくことは、依然として、経済効果を推察する上で有効であり、また、交渉を進める上で効果的であると考えられる。