政治では情報がなぜ流通しないのか?

加藤 創太
コンサルティングフェロー

小泉・真紀子ブームと民主主義に対する意識の変化

ここ数年、政治が注目を集めている。それは地方のカリスマ知事に対する熱狂的な支持から始まり、やがて小泉・真紀子旋風で頂点に達し、最近は多少落ち着きを見せているものの、それでも政治に対する有権者の関心はいまだ強い。

そこで本コラムでは、最近の政治情勢とそれに対応する政治論争とを、「政治的な情報の流通」という面に着目しつつ、通常とは異なった理論的な角度から冒険的に見てみたいと思う。

一連の動きの中で、政治や、その根本原理である民主主義についての論調は激しく揺れ動いた。ほんの少し前まで、日本のメディアでは、民主主義という、チャーチルにいわせれば「民主主義以外の全ての政治制度を除いた中での最悪」な制度を、ほぼ全面的かつ無批判に肯定する論調が主流だった。ここ数年の間にその流れは微妙に、しかし、確実に変わったように思える。要職に就く資質がない(と大半のメディア関係者や論者が考える)人物に驚異的な支持が集まり、そうした人物を批判した者に対してはいやがらせの電話やメールが殺到した。経済がいくら危機的な状況に陥っても世論は反応せず、政治は文字どおりテレビ画面を通した政(まつりごと)と化した。海外に目を向けても、欧州各地では、EU統合の過程に呼応して極右政党が台頭している。そんな中、一時は盛り上がった首相公選論など、施政者に対する民主主義的コントロールをより直接的・強力に効かせようという動きは、いつの間にか立ち消えになった。90年代は経済不況ではなく政治不況だ、経済を一回クラッシュさせなければ政治(有権者)は本気で動かない、といった最近よく聞く本末転倒な見解の背景にも、このような意識の変化があるのだろう。

ポピュリズム的現象をどう考えるか?――合理的投票者モデルと社会心理学的モデル

論者たちはしたたかに曖昧化しているものの、こうした民主主義に対する疑義の根底にあるのは有権者の判断能力である。この時期、ポピュリズムという言葉が、本来の語源とは異なる「大衆迎合主義」という意味で用いられ、横行した。民主主義のリーダーであるべき与野党党首が、民主主義の主舞台である国会で、お互いに相手を「ポピュリスト」と批判し合う場面も発生した。つまり、「ポピュリズム」という言葉の背景には「有権者が望む政策と日本(ひいては有権者の総体)のために真に望ましい政策との間にはギャップがあり、有権者から支持を集めるため、有権者の嗜好に迎合した政策を実施する政治家(ポピュリスト)は非難されるべきだ」という考え方がある。もしこれが本当だとすれば、「有権者による政府のガバナンス」という意味での民主主義は本質的に致命的な欠落を抱えていることになる。

はたしてそうなのだろうか?

私は、たとえば単純化したモデルの中で、代表的な有権者――中位投票者(median voter)――の効用をパレート的な意味で最適化する政策(群)というものが存在し、それと有権者が支持する政策(群)との間にギャップがあるとすれば、その要因は、ポピュリズム論者が暗黙のうちに想定する有権者の判断能力ではなく、政府と有権者間の情報の非対称性によって多くを説明できる、と論じたことがある。つまり、政府-有権者間の情報格差(有権者にとっての不確実性)を原因とするリスク回避的な有権者の主観的割引価値の増大と、そのような状況を前提としたプレイヤー間のストラテジックな相互作用が「相互不信の均衡」を産み、有権者に一見非合理(近視眼)な行動を取らせるというわけである。

もちろん私は、そのような議論を立てることによって、「有権者の判断能力とその帰結」という側面から、ポピュリズムという曖昧かつ安易な表現の根拠や、歴史的に観察される政治的熱狂の本質を分析することの意義を否定しようとしたわけではない。

先日、経済学モデルの多くが前提とするプレイヤーの完全合理性、自己欲得(self interest)などに対し社会心理学的な分析で疑義を投げかけたカーネマンがノーベル経済学賞を受賞した。しかし政治学、特に世論・投票行動研究においては、60年代のミシガン学派に代表される社会心理学的モデルは、経済学と違いむしろ主流の地位を占めてきた。だから有権者の非合理性(限定合理性よりも幅広い概念)――集団的熱狂、集団帰属意識、愛他精神(altruism)、視野の狭窄化など――を心理学的側面から実証した良質の研究は多い。一方、合理的選択学派などによって、アドホックな社会心理学的なモデルに対する批判も最近では盛んに行われており、有権者の判断能力とその政治的な帰結(影響)をめぐる論争は当分続くだろう。

行動ファイナンスや実験経済学といった分野の最新の研究成果を見る限り、経済行為という、個人の自己利益にとって切実な領域においても、非合理な行動がシステマティックに観察されているようだ。そうだとすれば、そのような非合理性は、経済行為と比べ個人の自己利益などとより関係が薄い政治行為にも、当然反映されるはずだ。世論・投票行動研究において、合理的投票者モデルが実証的なサポートをほとんど受けられないのも、そうした有権者の非合理性が存在する一つの証だといえよう。しかし、人類が長い歴史を通じた試行錯誤や制度間競争を通じ、民主主義に代替可能な叡智を見出していない以上、そういった心理学的分析から得られる規範的(normative)なインプリケーションは必然的に限定的なものとならざるをえない。

一方、どの国のどのような実証研究・世論調査においてもほぼ一貫して強固(robust)に現れるのは、政府の政策、政策担当者のバックグラウンド、主要争点とそれに対する政党のポジショニングなど、投票行動決定の際に重要な意味を持つと思われる要素について有権者の持つ情報量の少なさである。日本でもたとえば、ペイオフを延期すべきか否かという重要な争点について各種世論調査で世論動向は示されるが、ペイオフの中身についての有権者の知識(情報量)が極めて乏しいこともまた、一方で示されている。こうした政府-有権者間の情報の非対称性が、有権者の(情報を持っている政府関係者・メディアの側からすると)一見非合理な行動を産み、それが有権者の判断能力、ひいては民主主義に対する疑義を、安易なポピュリズム論に代表されるように、必要以上に増幅させている。90年代の日本における政治迷走に限って言えば、私はこの政府-有権者間の情報格差の方が、有権者の非合理性などよりもはるかに大きな役割を果たしていたと考えている。

特に「大本営発表」による情報の秘匿・操作が行われるような国では、政府-有権者間の情報格差は拡がり、それを原因とする政府-有権者間の相互不信は限りなく増殖し続け、「一見不合理な政治現象」がことさらに発生しやすい。そうだとすれば、ポピュリズム論者のように有権者の判断能力に一方的にその責任を押しつけ、代替案もない民主主義に疑義を呈する前に、政府-有権者間の情報格差という視点から政治というものを掘り下げて考えてみる必要がある。

中古車と株式と投票権――政治における2つの「情報の非対称性」

政府-有権者間の情報の非対称性こそが、政治的な問題先送りや、一見ポピュリズム的な現象の根本要因、とする私の見解に対し、「楽観的過ぎる」という批判もあるだろう。実際、要職に就く資質がない人物に対し、資質に欠ける証左がメディアでいくら示されても熱狂的な人気が集まり続けた状況を捉えて、一部の有権者の判断能力にはもっと本質的な問題がある、という指摘を受けたこともあった。しかし、たとえばお互いについての情報を十分に持っている小さな町内会で、著しく資質に欠ける者がリーダーに選ばれるようなことは想定しがたい。そう考えると、有権者の心理的要素の問題は無視できないとしても、ここでもやはり、問題の根幹は情報格差なのではないか。メディア関係者は、「資質に欠ける」と自分たちが信じる人物についての過去から現在に至る報道に、有権者の信頼を得られるような一貫性があったか、情報の非対称性を真に解消する働きを一貫して持たせていたか、検証し直すべきである。これは、一連の金融機関対策に対する有権者の反応に不信感を募らせる政策当局者などについても同様に当てはまる。「悪均衡」に陥っていることに最後まで気づかないのは、往々にして当事者本人なのである。

政府-有権者間の情報の非対称性に、90年代の政治的問題の原因の多くを求める見方は、しかし、全く「楽観的」などではない。プレイヤー間の「情報の非対称性」が及ぼす帰結についての研究は経済学で発展したが、「情報の非対称性」の問題が特に根源的で深刻な影響を及ぼすのは政治の領域だと考えられるからである。

たとえばアカロフが最初に分析した中古車市場における売り手と買い手との間の情報の非対称性は、情報で劣位に立つ買い手の側に、より多くの情報を収集して割安で質の良い中古車を買いたい(=情報の非対称性を解消したい)という強いインセンティブがある。売り手にも買い手にも情報の非対称性解消のためにプレミアムを払う用意があるから、認定中古車制度や保証制度や中古車販売店チェーン(ブランド)といった情報仲介制度が自律的に発展する合理性も存在する。そこには中古車という商品の本質に根ざした「テクニカルな情報の非対称性」は存在するものの、情報の非対称性を解消しようというインセンティブが当事者間に働かないことによって発生する「インセンティブ的な情報の非対称性」はほとんど存在しない。

これに対し政府と有権者との関係では、1)有権者が政府を適切にモニターすることによって得られる「良い政治・行政」が準公共財的な性格を持つため、2)またハーシュマンが指摘したように、市場と違って政治(国政レベル)のプレイヤーは他国への移民などによる「退出(exit)」というオプションを基本的には持たないため(cf. コーポレート・ガバナンスにおける少数株主)、合理的投票者モデルを前提とするなら、有権者には「良い政治・行政」実現のために政治的な情報を収集しようというインセンティブが生じない。つまり「ただ乗り」の横行である。もちろん集団の構成員に「退出」というオプションがないことは、韓信の「背水の陣」の例が示すように当事者によるクレディブルなコミットメントの何よりの手段であり、個別の構成員に対する結果の帰属度がある閾値(threshold)を超えれば、「ただ乗り」を防ぐ効果がある。しかし、その閾値以下では、構成員の集団行為に対する無関心を増長してしまう。この差は実際にも、中古車と株式と投票権とを保有したことがある者なら明確に認識できるだろう。特に最近の日本では、公共財に対する「ただ乗り」を規律し情報伝達のネットワークを形成していた社会的・地域的共同体が瓦解しつつあり、政治の側から「ただ乗り」を規律・緩和する働きを担っていた政党に対する有権者の帰属意識も弱まっているから、この「インセンティブ的な情報の非対称性」が惹起する問題の深刻度は特に大きい。

こうした「インセンティブ的な情報の非対称性」が存在するという点で、「情報の流通」という側面において、中古車のような通常の市場取引と政治との間の根本的な違いがある。だから、政治では、わずかな努力で解消できるような情報の非対称性がなかなか解消されない。あらゆる国・時代の実証研究・世論調査で有権者の政治的情報量の少なさが観察されるのも、こうした理論的な背景があるからである。90年代を通じて主要な政治争点となってきた金融経済問題のように争点の中身が非常に複雑で難解だと「テクニカルな情報の非対称性」も併存することになるから、問題はさらに厄介になる。

情報流通のためにはまず原因の徹底分析が必要――情報開示は必要条件に過ぎない

政府-有権者間の情報格差解消のためにまず必要なのは、政府による徹底的な情報開示である。しかし、問題はそれだけでは全く解決しない。「インセンティブ的な情報の非対称性」が存在する政治の領域では、政府による徹底的な情報公開や説明責任の履行は、政府-有権者間の情報の非対称性低減・解消のための必要条件にはなるが、十分条件にはならないからである。領域を区切ることによって参加者を減らし「ただ乗り」を防ごうとすれば、利益団体政治の横行など、また別の問題が生じる。そこで重要な役割を担うことになるのが、NGO、メディア、政策シンクタンクなどの情報仲介組織だが、ここでも「インセンティブ的な情報の非対称性」は困難な問題を投げかける。つまり、市場と違って有権者(政策の買い手)の情報格差を解消しようというインセンティブが(通常無視できるほど)小さいため、政治の場における情報仲介組織が、市場における格付け機関やクレジット機関(credit agency)のように「中立性の評判」を競争優位とする情報仲介組織に自律的に発展するという合理性も保証もないのである。利益団体化し暴走気味の一部NGOの説明責任(アカウンタビリティ)が欧米で大きな問題となるのも、ワイドショー的報道の偏向ぶりが問題となるのも、「たけしのTVタックル」が高視聴率を集めて出演者が選挙に当選するのも、こうした政治や民主主義の本質的な性質に起因しており、NGOやテレビ局のモラル低下を嘆いても問題の解決にはならない。政治的な情報の流通のためには、個々人のインセンティブのレベルまで掘り下げた緻密な制度設計が必要となるのである。

経済論争に比べ、政治論争はともするとムードやイデオロギーに流され、理論や実証をないがしろにした二元論的な議論が横行しやすい。民主主義の機能が盲信され、単純な直接民主主義の実施が唱えられたかと思うと、今度は一転してポピュリズム論が流布する。さらにポピュリズム論に対しては「国民を馬鹿にしているのか?」というあまりにナイーブな反論が投げかけられる。NGOがあたかも「正義の味方」のように絶対視されたかと思うと、他方では徹底的に政策過程から排除される。小選挙区制導入が政治腐敗解決の究極の手段だと一気に盛り上がり、導入後には批判が噴出する。こうした政治論争の単純化とそのぶれが、90年代の政治迷走の一因になってきた。

しかし今、必要なのは、民主主義原理を透徹すべきか否か、などというイデオロギー的な二元論ではない。民主主義だけを根拠に、全ての政治的決断をネット上の国民投票で決定すべきというのも暴論だが、ポピュリズムなど曖昧な概念を根拠に、政策当局の恣意性(特に情報の秘匿・操作)を幅広く認めようというのも暴論である。そうした二元論に陥らず、多面的な要素を考慮しつつきめ細かな判断をしていくには、やはり地道かつ緻密な理論と実証の積み重ねしかない。

たとえば本コラムで述べた論点に関していえば、有権者の一見不合理な行動が観察されたとしても、それを民主主義の安易な否定につながりかねない(そのくせ理論も実証もろくに存在しない)安易なポピュリズム論で説明するのではなく、1)その現象がどこまで政府―有権者間の「情報の非対称性」を原因とする合理的なものなのか、2)なぜそもそもそのような「情報の非対称性」は発生しいっこうに埋まらないのか、3)どのような政策領域で「情報の非対称性」は特に深刻で、どのような対策を採ることが考えられるのか、4)NGOなど情報仲介組織の説明責任はどう確保すべきなのか、といった点について、理論的・実証的に分析していかなければならない。そうやって各政策領域における政府-有権者間の情報流通の仕組み、情報格差の度合いを見極めた上で、政策領域ごとに、政治的に効率的な制度・組織を構築していく地道な作業こそが(たとえば中央銀行の政治からの独立性維持なども、そういった模索の過程で生まれた制度の一例)、今は求められている。

2002年12月3日

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2002年12月3日掲載