長期的には我々はみな死んでいる?-医薬品特許のケース-

中山 一郎
研究員

タイトルにある言葉はケインズが述べたとされているが、マクロ経済の問題ではない。医薬品特許についてである。医薬品特許の保護は医薬品へのアクセスを妨げているのではないかとの途上国の指摘に対して、先のドーハにおけるWTO閣僚会議は、TRIPS協定と公衆衛生に関する閣僚宣言を採択した。途上国の主張の背景には、深刻化するHIV/AIDSの蔓延の問題があるが、「プロパテント」の代表選手たる米国も、炭疽菌騒動に際しては上院議員から抗生物質シプロのコピー薬を導入すべきとの声が上がるなど国内は決して一枚岩ではない。特許制度は、新技術の開発へのインセンティブを作り出し、我々は長期的にはそのような新技術の恩恵を被ることができるのであるが、短期的には一定のコストを負担する必要があるという原則の上に成立している。かかる原則は、短期的に負担すべきコストが生命・健康であった時にも貫徹されるべきなのだろうか。

途上国におけるHIV/AIDS問題と特許権

国連エイズ計画とWHOの発表によると、世界のHIV/AIDS感染者約4千万人の約7割に当る2800万人がサハラ以南のアフリカ諸国に集中し、これらサブサハラ諸国の15歳~49歳における感染率は8.4%、つまり約10人に1人が感染者である。現状の治療法では感染者は症状の進行を防ぐために複数の抗エイズ薬を飲み続けるしかないようであるが、その価格は年間10000ドル程度になるとされる。一人当たりGNPが510ドル程度のサブサハラ諸国(中でも南アフリカは比較的裕福だがそれでも約3310ドル程度)にとってこれがどれほどの負担かは容易に想像がつく。より安価な医薬品の供給という目的により南アフリカでは、1997年に薬事法が改正され、特許権の効力を公衆衛生上の観点から制限することやコピー薬の輸入が認められることとなった。これに対し製薬企業39社は当該法改正が違憲であると提訴した。しかし、本年2月にはTRIPS協定上の経過措置として物質特許保護の義務を負わないインドの製薬企業がアフリカ諸国向けに350ドル程度でコピー薬を提供すると申し出たことが報じられるなど世論の圧力は高まり、ついに本年4月に至り提訴を取り下げるとともに、安価なエイズ薬の提供を約したとされる。また、サブサハラではないが、強制実施権の発動条件をめぐってブラジルをWTOに提訴していた米国も、本年6月提訴を取り下げるなどTRIPS協定締結時に経過措置等と引き換えに一旦封じ込まれた議論が形をかえて現れてきている。

プロパテントの代表たる米国の事情

「プロパテント」の代表選手である米国は、特許対象を技術分野でもって差別することや権利者の了解に基づかないいわゆる強制実施権の安易な発動については一貫して反対してきた。したがって今回のHIV/AIDSを巡る医薬品特許の問題についても、強制実施権の発動には基本的に反対であった。「HIV/AIDSの蔓延が深刻な問題だとしてもそれは特許だけの問題なのか」「医療専門家・医療施設等のインフラ不足、情報格差等貧困がもたらす諸要因の総合的解決が必要なのではないか」「問われているのは、HIV/AIDS撲滅に向けた国家意思ではないのか」これらは筆者が本年7月に訪米した際に聞いた特許弁護士等の声である。中でも最も印象的だったのは、次のような言葉だった「特許がスケープゴートになっている」。

ところが、炭疽菌騒動に関連して、本年10月、シューマー上院議員は炭疽菌に対する抗生物質であるシプロについて、米国政府が特許権者のバイエル社の了解を得ることなく、別の業者から安価なコピー薬を調達すべきであると主張した。この場合、特許権者は米国政府に差止を請求できず、補償を請求できるだけであり(28 USC §1498)、事実上国が国に強制実施権を設定することに等しい。このシューマー上院議員の提案に呼応してコピー薬の提供に名乗りを上げたのがインドの企業であるというのが何とも皮肉であるが、結局はバイエル側が増産と価格引下げに応じることとなったこと等から、この点が再び話題になることはなかったが、米国内とて決して一枚岩でないことを明らかにしたように思われる。

TRIPS協定と公衆衛生に関する閣僚宣言

そのような状況の中で、ドーハのWTO閣僚会議は、TRIPS協定と公衆衛生に関する閣僚宣言を採択した。その要点は、TRIPS協定は各国が公衆衛生上の必要な措置を取ることを妨げるものではなく、強制実施権の発動に関して権利者との事前協議の義務が免除される「国家緊急事態」の認定に関する各国の判断の自由を確認したというものであり、途上国が緊急時には独自の判断で強制実施権を発動できることを対外的に認知させたものといえよう。このようにして、WTOにおいて医薬品特許と医薬品アクセスの問題はとりあえずの決着を見たわけであるが、他方で気になる噂もある。ある欧米の新薬メーカーがHIV/AIDS関連の研究開発費を削減しつつあるというのである。真偽の程は知る由もないが、改めて特許制度が微妙なバランスの上に成立していることを思い起こさせる。

発明の恩恵を享受するのは誰か

「特許発明の恩恵は発明が生まれた次の世代が享受する」これは米国における特許法の大家であるジョージワシントン大学エーデルマン教授が、筆者が参加したシンポジウムで述べた言葉である。同教授はそのような例としてペニシリンを挙げる。ペニシリンは、20世紀最大の発明ともいわれるが、第2次世界大戦中に生産を始めた米国の企業が生産技術に関する特許を取得したため、当時は多額のライセンス料を支払わなければ当該技術を利用できなかった。ところが特許権が消滅した今日では、誰でも自由に当該技術を利用してペニシリンを生産することができる。つまり、今日我々がペニシリンの恩恵を享受できるのは、当時多額のライセンス料が権利者に支払われたおかげであり、また、特許制度の下でそのような形のリターンが確約されるが故に、製薬メーカーはリスクの高い新薬開発に手を伸ばすことができるのである。このように考えると、特許権の保護を弱体化させて新薬開発に向かうインセンティブを低下させてしまっては、新薬開発が進まず、結局、「長期的には我々はみな死んでいる」ことになるかもしれない(特にHIV/AIDSのように現在有効な治癒方法が確立していない疾病の場合、新薬開発の重要性は論を待たない)。他方、途上国側から見れば、特許発明の恩恵が長期的に幅広く均霑されるまでの間、感染者の増加を放置すれば、これまた、「長期的には我々はみな死んでいる」ことになるかもしれない。

強制実施権の発動だけに頼らない、複眼的な対策の組み合わせを

かくして一見悲観的な結論に到達しそうであるが、途上国としても、長期的に技術革新を促す特許制度の意義を理解していないわけではないし、先進国とて蔓延するHIV/AIDSの深刻さは理解している。そこで、そこで、ドーハの閣僚宣言では、途上国による強制実施権の発動にお墨付きを与えたわけであるが、仮に途上国が強制実施権の発動に踏みきったとすればその場合に問題となるのは特許権者に補償すべき対価の額の問題であろう。TRIPS協定は、強制実施権の発動は、特許権者に対する正当な補償の下で行われるべきであることを規定するが、途上国の基準での正当な補償は、先進国の製薬企業にとって正当な補償である可能性は低い。やはり途上国において強制実施権を実際に発動させることは得策ではなく、むしろ強制実施権の意義は「伝家の宝刀」として製薬企業による安価な医薬品供給を促す点にあると考えるべきではないだろうか。医薬品の価格のうち製造コストはわずかであり、その回収のためだけであれば価格引下げは可能であろうし、現に2000年5月には欧米の製薬企業はアフリカ向け価格を10分の1に引き下げたとされる。ただしその場合に問題となるのが、並行輸入(国際消尽)の問題である。製薬企業が途上国で安価に提供した医薬品が無制限に第三国の市場に並行輸入されてしまうのであれば、そのような製薬企業の動向は非常に限定的なものになってしまうであろう。TRIPS協定では消尽についての判断を基本的に各国に委ねており(ドーハ宣言でも同様)、今後早急に国際的なルールを確立していくことが望まれる。また、最貧国にとっては、先進国価格の10分の1であっても、なお高価で入手困難と思われる。したがって、世界エイズ保健基金の設立やNGOなどの動きに見られるように、先進国の資金を用いて買い上げたエイズ薬を途上国に供与するというアプローチも併せて必要となろう。新薬開発へのインセンティブを確保しつつ、直面する公衆衛生上の問題をどう解決していくのか、我々自身の知恵が試されている。

2001年12月12日

2001年12月12日掲載