Special Report

産業啓蒙主義:産業革命と近代経済成長の歴史的淵源

斎藤 修
一橋大学名誉教授 / 米国芸術科学アカデミー外国人名誉会員 / 日本学士院会員

経済史家にノーベル賞

米ノースウェスタン大学の経済史家ジョエル・モキア教授が今年度のノーベル経済学賞を受賞した。「技術進歩を通じた持続的成長のための前提条件を解明した」というのがその理由で、シュンペーターの提唱した「創造的破壊」プロセスを数学モデルに組み込んだ2人の経済学者フィリップ・アギヨンおよびピーター・ホーウィットと同時受賞であった。経済学と歴史学という二つの研究領域に跨(またが)っている経済史ではノーベル賞受賞者が輩出されてきたわけでなかったため、これはビッグ・ニュースであった。

ニュースを聞いて私が思い出したのは、2009年にオランダのユトレヒトで開催された世界経済史会議におけるモキア教授とボブ・アレン教授の対論セッションであった。テーマは「なぜ産業革命は英国で起きたのか?」(Why was the Industrial Revolution British?)、アレンが近世英国における高賃金と低エネルギー価格という要素価格に注目したのに対して、モキアは西欧の啓蒙思想から生まれた「役立つ知識」の拡大が技術革新の供給要因になったと主張した。通常の経済学を学んだものにはアレンの説明がわかりやすかった(と同時に実証史家には粗も目立った)のに対して、モキアの議論は面白かったけれども、いまひとつピンとこなかったというひとがいたし、二者択一でないのでは、という感想も聞かれた。

日本の経済学者の間でモキア教授の名前がどのくらい知られているのかわからないが、知っている人のほとんどは翻訳書『知識経済の形成』の著者としてであろう。日本語訳では著者名がモキイアとなっているけれども、私の記憶ではユトレヒトでも「モキア」に近い発音されていたので、ここではその表記で通すことにするが、この本が同教授の主張のエッセンスが盛り込まれている著作であることは間違いない。すなわち、産業革命は人類史上なぜあの段階で起きたのか、古代や中近世においても重要な発明はあったけれども技術革新は単発的であったのに、なぜ産業革命は18世紀から19世紀に起こり、その原動力となった技術革新もその後は持続的となりえたのだろうか、それがモキア教授の中心的な問題関心なのである。以下では、同書と、対象を英国に絞った著作(The Enlightened Economy)とを中心に、モキア教授の業績のポイントがどこにあるのか、見てゆきたい。

産業啓蒙主義と近代経済成長

その問題解明のために用意された概念は産業啓蒙主義(Industrial Enlightenment)であり、有用な知識を構成するところの、命題的知識(positive knowledge)と指図的知識(prescriptive knowledge)の区別である(前者はオメガ型、後者はラムダ型とも呼びかえられている)。オメガ型は人間が自然とその規則性について有する知識で、科学と言い換えてよい。ラムダ型は科学の体系を基礎に具体的な問題に対する処方箋を与えてくれる知識であって、技術に対応すると考えることができる。ただし両者は截然(せつぜん)と区別されていたわけではなく、むしろ連続的であったとみるべきであろう。

知性史上、18世紀のイングランドやスコットランドはそのような二種類の知識人が融合できる場が用意されていた社会であった。デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミス、その他の知識人が牽引したスコットランド啓蒙は、技術分野で実践的な仕事に従事していた人々にも影響が及んだ。その好例が蒸気機関の改良・発明家ワットであり、彼の活動を通じて英国全土の技術者や発明家にも波及した。ワットほど知名度が高くない技術者や発明家の層も厚かった。そのひとりにウィリアム・マードックがいる。彼自身スコットランド人で、ワットがボールトンと組んでイングランドのバーミンガムに設立した商会に入り、後に共同経営者となった。そのバーミンガムには、チャールズ・ダーウィンの祖父が中心となって開かれていたルナー・ソサエティがあり、集会には哲学者や学識者だけではなく、化学愛好家、経営者、個人の発明家などが出席していた。これは例外的存在ではなく、そのような自主的組織は各地に存在した。それと関連して、有用な知識への需要が社会的に存在し、それに応えるべく、項目がABC順に並ぶ事典類が出版され、中でも科学技術に強い事典の売れゆきが良好だったのも、その時代の英国に特徴的な現象だった。1728年に出版されたチェンバーズの『サイクロピーディア』はその代表的存在で、版を重ね、素人発明家の叢生(そうせい)を後押ししたのである(以上、The Enlightened Economy,chs. 3, 5-6)。

よく知られているように、産業革命を彩る大発明(macro-inventions)が出現したのは1760—90年の30年間に集中していた。それゆえに革命という言葉が使われたのであったが、技術革新はそこで途切れなかった。次の技術革新の山、すなわち蒸気機関から石油を利用した内燃機関への転換が始まるのは19世紀後半であるが、その間も小発明(micro-inventions)は続いていたのである。例えば1828年には、18世紀のコークス製鉄法と第二次産業革命とをつなぐ、それほど有名ではないけれども技術的に重要な発明としてニールソンの熱風炉があった。綿糸紡績では1779年のミュールが大発明とされているけれども、やはり1820年代になされたロバーツの自動化装置が産業的には重要であった(『知識経済の形成』第3章)。これらがモキアのいう小発明の続発の例で、技術革新の持続こそが産業革命とそれに続く近代経済成長の時代を、大発明の単発だけで終わってしまった過去のイノベーションと区別する特徴なのである。

産業革命後、小発明に体現されたラムダ型知識の拡大はオメガ型知識の担い手たちにフィードバックされ、オメガ型知識のさらなる革新を促したのである。技術革新の持続と近代経済成長はオメガ型知識とラムダ型知識の交互作用がはたらいていたことの証であり、その交互作用を産み出した産業啓蒙主義の歴史的重要性を物語っている。

シュンペーターとの接点

ところで、モキアとともにノーベル経済学賞を受賞したアギヨンとホーウィットはシュンペーターの創造的破壊コンセプトを成長モデルに組みこんだことが評価されたのであった。両者はシュンペーターを介して結びあっているのであろうか。

この問いに直接答えことはできないけれども、モキアを読んでみたかぎりで、彼がシュンペーターに強い理論的関心を抱いてきた形跡を見出すことはできなかった。シュンペーターへの言及がないわけではないけれども、大部分は本質的な問題とは直接関係ない個所においてである。唯一の例外は、イノベーションの受容と抵抗を扱った『知識経済の形成』第6章であろう。そこでは、競争のコンセプトが重要なのは、市場における企業間の価格競争という新古典派的な意味においてではなく、シュンペーターが『資本主義・社会主義・民主主義』のなかでいうように、「資本主義の現実において重要なのは、かくのごとき[価格]競争ではなく、新商品、新技術、新供給源泉、新組織型・・・からくる競争」だからだという(引用は日本語版、132頁)。企業の名前が特定の技術と結びつくのはよくあることであるが、それは通常の意味での企業間価格競争ではなく、本質はその背後にある技術と技術の間の競争だというのである。

ここから両者に共通した発想として読みとれるのは、大文字の技術革新を市場価格の変化から解明することはできないということであろう。冒頭で紹介したユトレヒトの対論セッションで、産業革命を労働賃金とエネルギーの相対価格から説明するボブ・アレンへの批判を展開したとき、モキア教授は上に引用したシュンペーターの言葉を思い起していたのかもしれない。

参照文献
  • Allen, Robert C. (2009). The British Industrial Revolution in Global Perspective, Cambridge University Press, Cambridge; 眞嶋史叙ほか訳『世界史のなかの産業革命-資源・人的資本・グローバル経済』名古屋大学出版会,2017年.
  • Mokyr, Joel (2002). The Gifts of Athena: Historical Origins of the Knowledge Economy, Princeton University Press, Princeton, NJ; 長尾伸一・伊藤庄一訳『知識経済の形成-産業革命から情報化社会まで』名古屋大学出版会,2019年.
  • Mokyr, Joel (2009). The Enlightened Economy: An Economic History of Britain 1700-1850, Yale University Press, New Haven, CT.
  • Schumpeter,J. A. (1950). Capitalism, Socialism, and Democracy, 3rd edn, Harper & Row, New York; 『資本主義・社会主義・民主主義』中山伊知郎・東畑精一訳,新装版,東洋経済新報社,1995年,132頁。

2025年11月6日掲載

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