はじめに
新型コロナウイルス感染症の世界的流行やロシアのウクライナ侵攻など、近年の度重なる危機はサプライチェーンを分断させ、また、経済的威圧や制裁は貿易・投資の秩序を揺るがしている。経済効率性や経済統合がもたらす相互利益の重要性よりも、経済安全保障上の懸念が優先されつつあることが、いま痛切に実感される。こうした課題に直面し、世界貿易機関(WTO)やブレトンウッズ機関などの経済統治機関は、ルールに基づく経済秩序を維持する能力を失ってしまったようである。時を同じくして、経済安全保障の台頭が貿易・投資保護主義の新たな手段となり、安全保障措置の濫用が経済的相互依存の武器化に利用されているという懸念もある。こうした展開は、貿易・投資の縮小、ひいては世界経済に壊滅的な影響を及ぼすことになりかねない。
かかる近年の分断にもかかわらず、インド太平洋地域の2つの巨大自由貿易協定(FTA)である「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)」と「東アジア地域包括的経済連携(RCEP)」の加盟国は交渉を成立させ、それぞれ2018年12月と2022年1月にこれらの協定を発効させた。当初、アジア太平洋地域の13カ国で構成され、2023年7月には英国が加盟したCPTPPは、労働から環境保護、電子商取引、知的財産権保護に至るまで、高水準のルールを規定する好例となっている。日本、中国、韓国を含むアジア・太平洋地域の15カ国が加盟するRCEP(日本にとっては中国、韓国との初のFTA)は世界貿易総額の30%を占め、アジアの重要な生産ネットワークを網羅する世界最大のFTAである。国内政治を理由に世界のFTAの舞台から退いている米国をよそに、日本と中国は2024年までそれぞれのFTAネットワークを拡大し続けている。
経済安全保障上の懸念が高まる中、貿易・投資におけるこうした地域統合の取り組みは、果たして経済統合と互恵的ビジネス交流への答えとして機能しているのか。何が今なお重要で、何が変化したのか。
経済安全保障の高まり
経済安全保障については明確な定義はないが、2023年のG7広島サミットでは一定の合意が見られた。首脳陣は、経済安全保障を「デカップリング」ではなく「ディリスキング」と位置づけることの重要性を強調し、さらにこのサミットの「経済的強靱性及び経済安全保障に関するG7首脳声明」では、「我々は、経済強靭性及び経済安全保障を強化するための我々の協力が、良好に機能するルールに基づく国際的な体制の維持及び改善に根ざすものであることを確認する」と述べられている(注1)。
とはいっても、これまで各国政府は経済安全保障への取り組みに関して対照的なアプローチを取ってきた。バイデン政権は、経済安全保障を地経学的リスク軽減や米国の技術的・経済的競争力強化という形で定義する傾向がある。現在の米国の経済安全保障上の関心は、大半が中国との技術競争による国家安全保障への影響と、生産拠点の転換およびサプライチェーンの強靱性に対する国内政治上の懸念に集約される。ジェイク・サリバン米大統領安全保障担当補佐官の一連の演説では、「小さな庭、高いフェンス(“small yard, high fence”)」という概念が、米国の対中経済関係のアプローチを説明するのによく使われている。安全保障上の影響がある少数のハイテク分野には厳しい規制(つまりデカップリング)を課し、その他の経済分野では自由貿易の規範を維持するということだ。このアプローチ実現のため、新興技術と基礎技術は現在、2018 年に可決された輸出管理法で義務づけられた審査プロセスの対象となっている(注2)。
日本政府は過去十数年にわたり、中国への過度な依存から脱却するため、供給と生産を分散化させる「チャイナ・プラスワン」戦略を皮切りに経済安全保障を強化してきた。この転換は中国による2010年の対日レアアース禁輸措置に端を発し、日本政府はそれと同時に複数の機関を整備してきた。2013年に内閣官房に設置された国家安全保障の政策立案機能を担う「国家安全保障局」の中に、2020年4月には経済安全保障問題に対応する「経済班」が新設された。2020年代には都道府県や他省庁もこれに続き、経済産業省、外務省、防衛省に新たな経済安全保障部門が設置され、最終的に岸田政権は2021年10月に初の経済安全保障担当大臣を任命するに至った。2022年12月に発表された国家安全保障戦略では、経済安全保障政策は「自主的な経済的繁栄を実現する」ための手段であると定義されている。さらに2022年5月には、サプライチェーンの強靭化・多様化、基幹インフラの安全性・信頼性確保、重要先端技術開発支援、知的財産保護の4つを柱とする「経済安全保障推進法」が成立した(注3、注4)。
中国とのハイテク競争に勝つための攻勢的アプローチ(戦略的不可欠性)と、経済の強靱性を守るための守備的アプローチ(戦略的自立性)は、日米双方にとって重要である。しかしながら、米国の経済安全保障へのアプローチは中国との競争を念頭に置いた国内保護主義的な、技術的優位性を含む安全保障への配慮が色濃い一方、日本の経済安全保障は、いかなる脅威からも自国の「戦略的自立性」を堅持するという自衛的措置に重点を置いている(注5)。
集団的レジリエンス達成のためのアプローチ
概念やアプローチに違いはあるものの、日米両国の経済安全保障アプローチの基盤として共通するのは、サプライチェーンの強靱性と、友好国または同盟国への生産移転(フレンド・ショアリングおよびアライアンス・ショアリング)のため「志を同じくする」国々による保護連合の構築に重点を置いていることである(注6)。
この「集団的レジリエンス」を実現する方法は、一部で提唱されている(注7)。世界経済の公正かつ円滑な機能を守るためには、互いに協力することが不可欠である。ただしこの目標を達成するには、集団的レジリエンスのさまざまな形態、つまり危険なアプローチと賢明なアプローチの違いを区別することが重要となる。危険なアプローチとは、一部で用いられている集団的レジリエンスの定義(「中国政府による経済的脅迫の可能性に対して、貿易分野で多国間対応を約束する」(注8))に見られるように、敵対国の侵略を抑止し対抗するため複数の国々が結束する「集団的(経済)安全保障」の感覚を呼び起こすことである。2010年の対日レアアース禁輸措置から、2020年のオーストラリアの農産物等の対中輸出品に対する巨額の関税に至るまで、中国政府が経済的威圧の戦術を頻繁に使用してきたことは事実(そして大抵の場合は暗示的)である。こうした威圧行為に立ち向かうために「志を同じくする」国々が協力することは重要だが、ことはそれほど単純ではない。例えば、米国政府は半導体生産国間で「同盟」を結成しようとし、日本、台湾、韓国のアジア3カ国に対し、米国と連携して中国を切り離すよう迫った。これにより日本、韓国、台湾は非常に困難な立場に追い込まれた(注9)。中国市場は同三国のビジネスにとって重要であり、たとえ米国から圧力がかかったとしても、単純な国家安全保障の論理のためにビジネスの利益を犠牲にすることは容易ではない。
一方、集団的レジリエンスへの賢明な道筋となりうるのは、既存の地域統合スキームの活用であろう。各国政府は数十年にわたり、APECの活動に見られるようなルールに基づく経済秩序と公正な取引の規範を支えるために、FTA等の措置を含む複数の枠組みの確立に精力的に取り組んできた(注10)。「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」に関する米国の最近の取り組みも、そうした試みの一例と言えるだろう。こうした協定のほとんどは、特定の参加国からなる志を同じくする国々から始まるが、CPTPP の場合のように、参加国を拡大するための加盟プロセスを持つものも多くある。さらに、こうした枠組みは、指導者不在に陥った中小の国々が、ルールに基づく秩序を守るための助力を得られる場として機能しうる。
地域主義への道
この10年間で米中間の緊張が高まり、とりわけアジア太平洋地域に関しては地域主義と経済連携の未来に疑問を投げかける声も多い(注11)。しかしむしろ、地域主義、地域制度、地域統合は2020年代により重要になったと筆者は考える。地域的な枠組みは、集団的レジリエンス実現のためのルールに基づく秩序を醸成する、より柔軟かつ建設的な道となりえ、また地域が確立するルールは、その地域の基本的利益を反映するものとなるはずである。経済安全保障の時代における集団的レジリエンス実現のための基盤として、地域統合に向けた努力を支援し続けることが不可欠である。