プリンストン大学のAngus Deaton教授は、「消費、貧困、厚生に関する分析」の功績により、2015年のノーベル経済学賞を受賞した。
2008年の金融危機とその後の世界同時不況以降、経済学者は厳しい批判にさらされてきた。経済学者はリーマンショック後の出来事を予測することができず、危機への適切な対応についても意見が分かれた。多くの場合、その後メディア(従来型メディア、ニューメディアとも)では、経済学者は良く言っても妄想的で、「個人は超合理的で、市場は完全で最良の結果をもたらす」という、抽象的な数学モデルで表現されるファンタジーの世界に生きている人として、描かれることが多い。最悪の場合、強欲な資本主義者と多国籍企業の利益を擁護していると非難される。
ノーベル経済学賞を受賞したAngus Deatonの生涯をかけた研究は、最高の経済学者はこうした風刺の対象にはなりえないことをよく示している。常に彼の研究は、経済政策や経済発展・進歩と密接に関わる現実世界の問題から生じているが、同時に経済理論に立脚している。彼の一連の分析は、政策論議と社会科学全般に対して経済学および経済学者ができることは何かということを示している。決して困難な問題から逃げず、データに経済理論を折り込むことの重要性を常に強調することこそが彼の研究スタイルである。また、経済モデルと経済学者の洞察は、実際のデータと関連づけられてこそ有効であると証明した。
Deatonの経歴は、「完全な市場と超合理的な消費者」という抽象世界にどっぷりと浸かった視野の狭い経済学者とは対極的である。それどころか他の学問領域の知見を活用し、心理学者(Daniel Kahnemanら)や疫学者(Michael Marmotら)、哲学者(Nancy Cartwrightら)との対話を重ね、ときには共同研究にも携わっている。最後に、彼は議論を呼ぶ主張をすることも恐れなかったが、あくまでも、それはイデオロギーや政治的正当性ではなく研究に根ざした主張であった。
需要分析
Deatonの初期の研究では、消費者の支出問題の分析に重点がおかれていた。特定の財に対する需要の特徴付けは応用経済学の最も初期の例に数えられるが、Deatonの研究はこうした研究の進歩に根源的な貢献を行った。
消費者行動の理論は時間をかけて確立されたものであり、Marshall、Hicks、Gormanらの研究にまで遡る。個別の財に対する需要は、資源、その財の価格、その他の財の価格に依存すると考えられている。さらに、個別の財に対する需要は、人口動態、個人の選好やニーズの多様性など、その他の変数に影響される可能性もある。現実世界の豊かさと複雑さを捉えながらも、「理論と整合的な」実証的枠組みを見つけることが課題なのである。
その意味でDeatonの研究は先駆的だった。1978年にEconometricaに掲載された論文(4年間に同誌に掲載された最優秀論文として第1回のフリッシュ賞を受賞)、1980年に掲載されたJohn MuellbauerとのAmerican Economic Reviewの共著論文を皮切りに、Deatonは、サーベイデータを用いて容易に推計ができ、データに良くフィットし、かつ、特定化された消費者行動モデルと整合的な結果をもたらすようなモデルの構築方法を示している。このため、DeatonとMuellbauerが35年前に提案した(AIDSモデルとして知られる)「ほぼ理想的な需要システム(Almost Ideal Demand System)」モデルとその一般化理論(Q-AIDSなど)は実際に今も広く使われている。
なぜ理論との整合性が重要なのか? なぜ入手できるデータとうまく適合する回帰分析モデルを単純に推計しないのか? 需要分析は、物価、間接税、税制の変化が厚生や幸福、及びそれらの社会的分布に与える影響を評価することに使用できるという意味で、重要である。しかし、ある政策や物価の変化が厚生に及ぼす影響や貧困の測定などの評価に使用できるのは、特定化された消費者行動モデルと整合的な実証的関係のみである。
実際、需要分析とその実証分析は、まさに「理想的な」物価指数の構築(あるいは、特定の物価指数が「理想」にどの程度近似しているかを判断)の中核をなすものである。「インフレ調整」や「名目値」から「実質値」への換算は馴染みのあるものとなった。それでもなお、物価指数構築の背景には需要理論が存在する。
貯蓄と異時点間の選択
Deatonの業績における重要な功績の2つ目は、消費者の経時的な資源配分についての考察である。1950年代にFriedmanの恒常所得仮説とModiglianiのライフサイクル仮説が出現して以来(Friedman 1957、Modigliani and Brumberg 1954を参照)、個人が消費の量と貯蓄の量を選択する際、それぞれの量は、現在と将来の消費の相対価格を考慮するという意味において、現在の所得だけでなく、将来の所得と利子率の期待値にも依存すると考えられている。実際、FriedmanモデルとModiglianiモデルの主な洞察は、現在の消費と将来の消費を別ものとして分析でき、それぞれその需要が資源の総量と相対価格に左右されるという点である。
もちろん、静的な需要理論と、経年的な消費の動的配分理論との間にはいくつかの重要な違いがある。後者の問題を扱う場合、不確実性とリスク回避がもたらすかもしれない影響も考慮しなければならない。将来についての選好も、忍耐をモデルにどう組み込むかによって微妙に変化する。そして、忘れてはならない重要なことは、時間とともに消費を賄うための資源、特に将来の資源の場合、その移動は難しくなる可能性があることである。
Deatonは上記の問題について重要な論文を何本か書いている。まず、これまで国民総所得データを用いて分析されることの多かった異時点間モデルについても、ミクロデータの使用が重要であると認識した。長期時系列データが入手できない場合、クロスセクションデータを時系列的に繰り返し用いる技法を開発し、分析が可能になった。1985年、Economietricaに掲載されたMargaret Irish、Martin Browningとの共著論文では、関係性を特定できるよう、個人ではなく集団を追跡するという素晴らしいアイデアを用いた。
2番目に、Deatonは所得を生み出す過程の特性と消費との関係を重視した。所得へのイノベーションが一時的であれば消費に反映されるべきでないし、それが恒久的な性質のものであれば、消費は全面的に、あるいはほぼ全面的にイノベーションに対して調整されるべきである(これについては1989年にReview of Economic Studiesに掲載されたJohn Campbellとの共著論文を参照)。
3番目に、Deatonはライフサイクル仮説分析のために数値計算を使用した先駆者であり、現在ではこれが標準的である(1991年のDeatonのEconometrica論文を参照)。この論文は予備的貯蓄の役割に着目している。さらに、ライフサイクルにおける消費格差進展の標準モデル(および所得過程に関する特定の特性)の影響について指摘している。Christina Paxsonと共著のJournal of Political Economy論文は、このような観点から非常に的確で説得力がある。
開発経済学-需要、計測、健康、幸福
Deatonの消費者行動への関心は、開発経済学、特に食糧と栄養の需要への強い関心につながり、重要な貢献を多数成し遂げることになった(例:Deaton 1989、Deaton and Paxson 1998)。多数の論文が理論的制約とデータのパターンとのマッピング分析に基づいており、時として重要な難題(Deaton and Paxson 1998における家計規模、所得、食糧需要の関係など)が特定され、他の論文や研究に大いなる刺激を与えた。Deaton論文はすべて確かな需要分析に基づいている。
Richard Stone (編集部注:ケンブリッジ大学教授。1984年にノーベル経済学賞受賞)の弟子であるDeatonは当然ながら、計測の問題に長年、関心を寄せてきた。物価と価格の計測(および各国の物価比較)、さらに貧困ラインと途上国における貧困率の計測に関する自身の研究においてはなおさらである。インドの貧困調査や購買力平価の調整に関する研究は、Deatonの典型的な業績である。これらの研究も、需要理論にしっかりと裏打ちされた、根源的に重要な実証研究の典型例である。計測への関心に端を発したこの分野におけるDeatonの功績は、途上国における調査の設計に関する著書(Deaton 1997)や世界銀行での研究など、非常に大きな影響力を持つものである。
近年、Deatonはさらに2つの重要な研究分野に着手している。1つ目は健康研究、いわゆる健康格差であり、より一般的には開発過程における健康の決定要因に関する研究である。Deatonの研究は、疫学者によって解明された多くの知見を取り入れつつ、健康と経済的幸福度の複雑な関係、また、両者の因果関係が双方向である可能性を認識している。数年前に始められたこの研究の一部(Deaton 2001)は、ベストセラーとなったThe Great Escape (邦題『大脱出』2014)にわかりやすくまとめられている。
2番目は生活満足度と「幸福」に関するデータの分析で、このような概念を計測すべく大規模な調査を行った調査会社、心理学者(最も有名なところではKahneman。Kahneman and Deaton 2010を参照)と緊密に連携し、物質的資源の計測を超えた研究を行っている。
論争
上述のように、Deatonは物議を醸す意見を強い口調で述べることにためらいがない。セミナーや会議の場で彼を見たことのある人たちの間では、彼がときに挑発的で痛烈な批判を述べることは有名である。しかし、常に彼の立場は、関連する理論への深い理解(統計上の課題であれ、経済上の課題であれ)と実証的エビデンスの豊富な知識、関連文献の幅広い知識に基づいていることも明らかである。
最も注目を集めたのは、ランダム化比較実験の有効性に関する議論と、開発援助の効果に関する議論の2つである。
Deatonは2010年の論文で、ランダム化比較実験 (RCT) の利用を重視する応用経済学、特に開発研究の分野において、RCTを「効果のあるもの」がわかる理論の代替的手法としてみなす最近の傾向に警鐘を鳴らしている。彼は重要な方法論的批判から始め、多くの課題を特定している(ランダム化の手続から一般的なRCTの実施に使われるサンプリングの種類まで)。しかし、「RCTは有効であっても、理論の代用にはなりえない」という発言が最も重要な批判だと思う。私たちは政策の仕組みを理解しているに過ぎず、一連のデータに整合的かつ明確な理論的枠組みを用いて、データから導き出した実証的エビデンスを推定するしかない。データの一部は、入念に設計されたRCTから導き出すことができる。また、うまく構成されたサンプル調査かもしれない。それはたぶん理論と、現実やその機能の仕組みに対する私たちの理解と関連性のある数量を評価するための新しい計測ツールを備えているだろう。
国際援助のケースでは、Deatonは、援助がもたらす効果(あるいは効果がないこと)を無視し、野放図な援助拡大を擁護する開発経済学者を厳しく批判する側に回った。著書『大脱出』の末尾の章では、先進国は、貧困と悲惨な状況から脱け出せない世界各地の数十億人に対して倫理的な義務を負ってはいるが、思慮のない援助資金が弱体化した国をさらに蝕み、腐敗を増幅させ、本格的な経済成長と開発を妨げる場合もあり、利益以上に害をもたらす可能性が高いことは無視できない、と強調している。
まとめ
ノーベル委員会は2015年に素晴らしい選択をした。委員会は、計測、理論、データ分析を最も有意義な方法で統合し、消費者行動や厚生、経済開発の決定要因に関する学識の前進に貢献した、影響力の大きい応用経済学者Deatonの功績を高く評価した。消費の分野では、Deatonは、同時点間と異時点間の資源配分理論と、その理論がどのようにしてデータと対応するのかを深く理解している数少ない経済学者の1人である。彼は既存モデルを発展させ、データとの対応を可能にした。また、その過程において、彼は多数の応用経済学者に影響を与えた。
本稿は、2015年10月23日にwww.VoxEU.orgにて掲載されたものを、VoxEUの許可を得て、翻訳、転載したものです。