ブレグジット(Brexit)はなぜ重要か
英国では、欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票実施の期限が近づくなか、どちらに転んでもEU自体だけでなくEUと日本や世界との経済関係をも変える可能性のあるこの問題をめぐり、議論が白熱している。キャメロン首相と同首相率いる保守党は2013年以来、英国のEU離脱の是非を問う国民投票を2017年(あるいはもっと前)に実施すると公約している。
英国がEUにとどまるか脱退するかの決断は、「離脱(exit)」と「主張(voice)」のトレードオフの決断と言い換えることができる。EU残留の道を選ぶとすれば、それは、より緩やかな統合を求める英国の要求(一部の政策領域で加盟国により大きな独立性を認めるもの)に対し、ブリュッセルのEU本部から前向きな回答が得られると期待しての決断である。その場合、EUは、政策領域によってさまざまに構造を変える柔軟な連合体となり、ほとんどの大陸欧州加盟国が現在想定しているような、深化し続ける統合を目指すという当初の決意は見直されることになる。日本などの欧州域外諸国との交渉において、EU加盟国としてではなく単独で行う場合、交渉上の立場が相当弱くなることも英国がEU残留を選ぶ理由となるだろう。もう1つ最後の理由として、EUという巨大な市場から切り離された英国の国内市場は、世界の企業や投資家にとって魅力の少ないものになってしまうことが挙げられる。
このようなEU残留支持の立場からすると、欧州内外で自国の主張を聞いてもらうために、英国はEUにとどまるべきだということになる。この場合、EUのあり方についてともすれば抽象的になりがちな大陸欧州の考え方に英国の常識がある程度注入されることによって、内側からEUの変革が促されることになるだろう。
逆に、英国がEU離脱の道を選んだ場合、EUの最重要政策課題として統合の深化がより前面に押し出されるようになり、加盟国間の経済的、政治的、社会的結びつきがさらに強まることになるだろう。その意味で、英国の離脱は、他のEU加盟国にとって「無慈悲な資本主義」とされるアングロサクソン・モデルとは異なる大陸欧州型の「思いやりのある資本主義」のさらなる発展を促す絶好の機会となる。一方、英国も、大陸欧州の特定利益団体の圧力に突き動かされるEU官僚に必要以上に厳格な規制を課されることなく、思う存分、効率性と世界経済における競争力強化を目指して、独自路線を突き進むことができる。
こうしたEU懐疑論の立場からすると、英国のEU「離脱」は英国にとってもEUにとっても望ましい選択となる。あまりにも考え方が異なる場合、主張は単に呼吸の無駄でしかなくなるからである。この場合、残りのEU加盟国による将来の意思決定はある程度、英国との対置によって形成される面もあるため、外側からEUの変革が促されることになるだろう。
いずれにせよ、英国の国民投票後、EUは、日本および世界各地の企業と投資家にとって、パートナーとしても市場としても、これまでとは大きく異なる存在になる可能性がある。
ブレグジットの影響:貿易と比較優位
上記のすべてについて経済的観点から定量的にその影響を明らかにするのは困難であるが、定量化が不可能ではない経済領域もある。貿易である。これは英国のEU離脱を考える上で重要かつ間違いなく主要な領域である。なぜなら、約40年前に欧州経済共同体(EEC)に加盟して以来、英国は、EU域内各国との貿易を大幅に拡大してきたからである。英国の輸出全体に占めるEU域内向け輸出の割合は、1973年には30%強だったのが、先般の金融危機の前には過去最高の55%近くまで上昇し、2011年でも50%を超える水準を維持した。世界(英国を除く)のGDPに占めるEU(英国を除く)の割合が20%であることを考えると、これは異常に高い数字である。逆から見ると、英国からの輸出に対するEU支出額が英国のGDPの約15%を占めており、EUは英国の主要顧客であると同時に主要供給元であることがわかる。ブレグジットによって、こうした緊密な貿易関係が損なわれるおそれはないのだろうか。仮にそうなった場合、英国民の経済厚生はどの程度失われることになるのだろうか。
こうした疑問に対して、Ottaviano et al.(2014a, b)は、標準的ではあるものの最先端の定量的貿易モデル(注1)を用いて答えを見出そうとした。同モデルは、世界の主要40カ国の35産業部門(中間投入財を含む)の貿易を対象としている。この分析の重要な特徴は、モデルが静的であり、貿易が経済厚生に与える影響は主に各国が比較優位を有する産業に特化することによってもたらされると想定している点である。したがって、この分析は、貿易が生産性の伸びに与える動的効果や、競争、選別、生産規模、製品種類に対するその他の静的効果を勘案していない。その意味で、Ottaviano et al.(2014a, b)は、英国がEUにとどまることによる経済厚生改善効果を過小評価している。
当然ながら、このモデルでブレグジットの影響を定量化するには、英国がEUを離脱した場合に両者間の貿易コストがどのように変わるかについて何らかの仮定を置く必要がある。Ottaviano et al.(2014a, b)は2つのシナリオを想定している。まず、「楽観的」シナリオでは、英国はEU離脱後も現在と同程度のEU市場へのアクセスを享受できるという想定になっている。スイスやノルウェーは現在、ある種の「入場料」を支払うことによって単一市場の利益を享受しているが、楽観的シナリオでは、EUは英国にこうした料金を課すことなくアクセスを認めることになっている。
一方、「悲観的」シナリオでは、EU離脱後の英国は、「裏切り者」とみなされ、上記のような有利な条件を引き出すことができないと想定されている。そのため、3つの主要な要因によって、英国・EU間の貿易コストは増加する。第1に、関税が高くなる可能性がある。第2に、非関税障壁も(規制、国境措置などによって)高まるかもしれない。第3に、英国は、将来のEU統合深化のメリット(非関税障壁の削減など)を享受させてもらえない可能性がある。
Ottaviano et al.(2014a, b)は、上記2つのシナリオを以下のように定義して、シミュレーションを行った。悲観的シナリオでは、ブレグジット後、英国・EU間の財貿易は最恵国待遇(注2)に基づいて行われる。これはブレグジット直後の取り決めとして妥当にみえる。しかし、しばらく後に、ノルウェーやスイスなどと同様に、英国もEUとの間でより有利な関税協定を締結できるようになると考えられなくもない。そのため、楽観的シナリオでは、両者間の関税はゼロのまま据え置かれる。
規制関連の非関税障壁やその他の法的障害については、財とサービスの両方に関わってくる。楽観的シナリオでは、EUが現在米国からの輸入に課している非関税障壁のうち4分の1が英国に課されると想定し、悲観的シナリオは3分の2が課されると想定している。
しかし、EUを離脱した場合、英国は、EU統合の深化によって将来もたらされうる非関税障壁のさらなる削減を享受することもできなくなる。EU域内貿易コストは、これまでのところ、EU加盟国以外の経済協力開発機構(OECD)諸国を概ね40%上回るペースで減少してきており、今後10年間で、EU域内とEU域外の非関税障壁に起因する貿易コストの差は、現在の金額より大きくなりうる。そのため、悲観的シナリオでは、EU域内の非関税障壁が域外より40%速いペースで減少し続けると仮定している。これは、離脱を選択することによって、英国が貿易コスト10%相当分の利益を失うことを意味する。楽観的シナリオでは、EU域内の域外との非関税障壁の減少速度の差が20%と仮定されており、英国の損失は貿易コスト5.7%相当分にとどまる。
表1は、上記2つのシナリオで定量的貿易モデルによるシミュレーションを行い、ブレグジットが英国に与える影響を分析した結果である。これを見ると、楽観的なシナリオでも、現在と将来の非関税障壁に関するコストはGDPの1.66%に相当する経済厚生の損失につながることがわかる。このことは、非関税障壁の特徴として、英国が顕著な比較優位を誇るサービス分野に関するものが多いという事実によって説明できる。悲観的シナリオの場合、英国の損失はGDPの3.62%相当に上るが、これもやはり非関税障壁の高さが主な原因である。
こうした損失は、英国がEUへの純移転(GDPの推定0.53%)の消失から得られる財政節減をはるかに上回る。全体としてみると、英国の損失額(財政節減分差し引き後)は、悲観的シナリオで500億ポンド、楽観的シナリオでも180億ポンドという巨額なものになる。
悲観的シナリオ | 楽観的シナリオ | |
---|---|---|
1. 関税の増加による影響 | -0.14% | 0.00% |
2. 非関税障壁の増加による影響 | -0.93% | -0.40% |
3. 将来の非関税障壁削減による影響 | -2.55% | -1.26% |
4. 経済厚生の増減合計 | -3.62% | -1.66% |
注:経済厚生は英国の実質消費の増減で測定。 出典:Ottaviano et al.(2014a, b). |
ブレグジットの影響:比較優位を超える
表1に示した数値は、比較優位に基づく貿易特化を行わないことによる損失を定量化したものであるため、ブレグジットの総コストの下限と見るべきである。その第1の理由は、比較優位モデルでは、輸入財・サービスの種類の減少、規模の経済効果の弱まり、競争の減少、低生産性企業の市場退出が進まないことによる不適切な資源配分の増加など、その他の静的損失要因が考慮されていないことである(Corcos et al. 2012)。
もう1つの、おそらくより重要な理由は、表1の数値は貿易が成長に与える影響を勘案していないことである。重要な貿易自由化の事例(1990年代初頭のEUの単一市場計画など)に関する計量経済学的研究では、貿易が生産活動に与える影響が静的モデルによるシミュレーション結果よりはるかに大きい数値になる傾向がある。これは、貿易は競争激化によって促される先進技術の採用とイノベーションを通じて生産性を向上させうるという考え方と一致する。静的な定量的モデルにこれらの動的効果を組み入れると、先進技術採用による生産性向上効果は静的モデルで得られた結果の2倍(Bloom他、2014)もしくは3倍(Sampson、2014)になると予測される。これらの予測は、EU残留の効果に関する計量経済学的研究の結果とも一致する(Baier et al. 2008;Feyrer 2009)。
以上の追加的な貿易効果をすべて考慮に入れた場合、EU離脱による英国の損失は、表1に示した静的モデルによる推定値の少なくとも倍になり、楽観的シナリオでGDPの2.2%相当、悲観的シナリオでは10%近くになる。2008年から2009年にかけての世界的金融危機における英国のGDPの落ち込みが約7%だったことを考えれば、これらの数値がどの程度のものかがわかる。
ブレグジットが世界に与える影響
EU離脱に伴う英国の費用と便益を定量的に捉えるのは複雑な作業であるが、対外貿易に関する損失に絞って定量分析を行うだけでも、いかに膨大なコストになりうるかがわかる。
では、日本を含む諸外国に与える影響についてはどうだろうか。複数の国に焦点をあてるとより高次元での定量分析を行う必要があるため、この疑問に答えるのはさらに困難な作業になる。この問題を回避する確実な方法は特定の産業に焦点を絞ることである。これは、Head and Mayer(2015)が多国間分業に着目して、自動車産業を分析した際に用いた手法である。彼らは、Ottaviano et al.(2014b)と共通する基本要素をいくつか組み入れた定量的モデルを用いて、悲観的シナリオの場合、自動車生産の相当部分が英国(-12.1%)から、また、英国ほどではないもののEU域内のその他の主要な自動車生産国(フランスが-3.5%、ドイツが-2.2%)からEU域外の自動車生産国(日本が+1.6%、韓国が+1.7%)に移転するとの分析結果を示した。
このことは、英国のEU離脱が世界的に大きな影響を及ぼしうる重要産業があることを示している。日本をはじめとする世界各国の企業や投資家は、緊急時対応策を強化しておくべきだろう。
* 本稿執筆にあたり以下を参考にした。Ottaviano, Pessoa, Sampson and Van Reenen(2014a, b); Dhingra, Ottaviano and Sampson(2015)