I.リーダーシップ危機
経済的苦境におけるリーダーシップの空白
今日、世界経済は、ユーロ圏の政府債務、遍在化する債務問題、二番底を探る景気動向など、同時に取り組むべき深刻な危機に直面している。このような状況下、政治指導者は経済安定化の方策を見出すべく、国民に選ばれる。当選した政治家には、財政政策や金融政策、産業政策、規制政策、税政策を指揮する法的権限が与えられる。政治家がマクロ経済の枠組みを設定し、その枠組の中で、民間部門が無数の営利的な判断を下し、資本市場が資金や信用を割り当てる。
経済的苦境の時代においてはリーダーシップが重要となる。だが残念なことに、選挙で選ばれた指導者が適応力のある効果的な政策ソリューションを提供できず、目に見えて経済運営に失策するのも、まさに経済的苦境の時代においてである。指導者が議論に明け暮れ、争い合い、躊躇している間に、深刻な問題があちこちに飛び火し、本格的な危機に陥る。
経済的な苦境においては、民主主義政治の最悪の特徴が前面に出てくる。 政治駆け引き、党派による瀬戸際政策、大衆扇動、そして選挙区の利益を国家の利益に優先させる等々。結果、政策は行き詰まり、差し迫った経済問題は放置される。つまり先進民主主義国家においては、リーダーシップが緊急に求められるまさにその時に、苦痛を伴う政策決定が先延ばしされてしまうという非常に残念な傾向が見られるのである。
巨額な赤字と法外な支出:袋小路
先進民主主義国家の多くが巨額の公的債務と法外な支出という伝染病を患っている。人口の高齢化により社会保障サービスに多額の出費が必要であり、福祉国家の維持に必要な費用はうなぎのぼりであるのに、国民はこの費用を賄うための税金の支払いを望んでいない。財政支出が拡大する反面、税収が減少するのだから、公的債務は必然的に膨張する。持続不能な水準まで膨張する。
ギリシャは民主主義発祥の地であるが、今では放漫財政と脱税が蔓延する国家の最悪の例となっている。自己中心的かつ日和見主義的な態度が蔓延しており「寄生経済」と呼んで差し支えない。
政府債務問題の爆発的拡大
ギリシャは ユーロ圏における「政府債務問題病」患者の第1号である。いわゆるPIIGS諸国(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペイン)において債務危機の深刻な兆候が発生している。政策的見地から必要な行動はかなり明白であるにもかかわらず、欧州の指導者達はユーロ圏の債務危機を、国家による債務不履行の危機に対する長期的解決策を探る試練と捉えず、目先の流動性供給問題として捉えている。欧州の指導者達がこのような近視眼的政策に終始するようであれば、欧州の政府債務問題は悪化の一途をたどるであろう。
米国の指導者達が自国の経済問題に対処する手際も似たりよったりだ。国債発行上限引き上げのタイムリミットという直近の例を挙げよう。党派的瀬戸際政策により不必要な危機が発生した例である。下院の共和党指導者達は2011年8月2日というタイムリミットを盾にして、上院とホワイトハウスの民主党指導者達に対し、強硬に債務削減を迫った。その結果、米国、そして世界の金融システムは壊滅寸前まで追い込まれることとなった。
財政赤字タカ派の共和党指導者達は、オバマ大統領再選阻止を至上命題としている。米国経済の立て直し、雇用創出、金融セクターの安定化よりも、民主党大統領を引きずり下ろすことを優先しているのである。共和党議員の多くが、たとえ米国経済が弱体化し米国民の福祉にマイナスであっても、イデオロギーの原理に妥協しない旨の誓約に署名している。
政策決定にまつわる基本的力学
数千年という人類の歴史から見ると、民主主義は史上最良の統治制度である。人権や社会正義、法による保護、経済産出において、民主主義は独裁政治や専制政治より明らかに優れている。米国や欧州、日本などの成熟した民主国家は、ソビエト連邦や毛沢東政権下の中国、キューバよりもはるかに効率的であり、順応性も高く、ダイナミックであることが証明されている。これは、民主主義が法律や市場インセンティブ、自主的な行動を基盤として運営されており、国家による強権的支配を基礎とせず、また自由に情報を流すことができ、検閲も行われないからである。
民主主義は経済面ではダイナミックであるものの、その制度にはさまざまな本質的な弱点を内在している。 たとえば権力は、複雑な経済問題を処理する政府の能力を制限する形で分散されている。米国において権力は行政、立法、司法に分散されているが、これによって国民は権力が過剰に集中してしまう危険から守られている。その反面、政策決定は非効率的で時間を要し、次善にとどまる。日本では、1989年から続く衆参ねじれ国会によって両院での法案通過が困難で不確定、かつ党派的瀬戸際政策の影響を受けやすくなってしまった。
「合理的」な政治?
権力の分散以外にも根本的な欠陥が存在する。 国民は正確で完全な情報を入手でき、この情報を基に「合理的」に投票し行動するという誤った前提がある。ここで「合理的」とは国民が自己の最善の利益を特定し、満足のいく結果をもたらすべく行動する能力を指す。民主主義の理論によれば、何百万、何千万人という個々人が自己の合理的な利益を追求する結果、総和では対立する利害が相殺され、公益が達成されるという。民主主義のこの概念は、自由に機能する市場の安定的な枠組みの中で、個々の消費者が自己の物質的利益を追求するという複雑な相互作用の結果、市場の効率性が達成されるというアダム・スミスの理論に驚くほど類似している。
残念ながら、個人は「合理的」ではない。個人が客観的で完全な情報を入手することはできない。公共政策上の選択について個人が知りえる情報はマスメディアから得たものであり、マスメディアは不完全な情報、偏った情報を流す場合も多い。マスメディアの情報が氾濫する中、保守であれリベラルであれ、国民は自分の考えを反映し、強めてくれる情報源に惹かれる傾向がある。
国民の多くは、ある公共政策を選択した結果、自己の経済的・社会的利害にどのような影響があるのかを理解していない。たとえば、ティーパーティーのような保守派グループに属する米国の低所得労働者が富裕層への増税に反対することも考えられる。逆進課税によって低所得者層に対し、比較的高い税負担が強いられるにもかかわらず、である。同様に、高齢者が長期的な債務削減のため、政府支出の大幅削減に賛同することもあろう。政府支出が大幅に削減されれば、自らが依存しているメディケアや社会保障などの受給権が大幅にカットされる傾向にあるということを理解していないようだ。複雑な公共政策問題に関する国民の知識は浅く、断片的で曖昧である。つまり、客観的な情報に基づいて行動するのではなく、特定の政党への帰属や単純なスローガン、柔軟性のないイデオロギーなどに基づいて投票することが多い。先進民主主義国家においては、このように政党や強力な利益団体、偏向したマスメディアに権力が集中していくのである。
政治的消極性と無関心
情報に乏しいだけでなく、国民の多くは、明らかな無関心とは言えないまでも、政治的に受け身である。マンサー・オルソンの指摘にもあるように、個人が他人に政治活動・市民運動への参加を委ねることは、時間の面でも労力の面でも「合理的」なことである(『集合行為論:公共財と集団理論』ハーバード大学出版、1971年)。投票や議員への請願、街頭デモは他人に任せよう。公益実現のための政策策定は他人に任せよう。公共財は、個人が何かをしようがしまいが、誰でも享受できるのだから、時間や労力を割く必要もなかろう。
利益団体という寄生虫
民主主義国家において国民の大半が受け身である場合、資金力のある組織的な利益団体が政策決定プロセスに対し不当な影響力を持つ。また、強力なロビイスト集団が金融サービス、医療、運輸、建設、エネルギー、農業、小売など主要な分野を手中に収める。
銀行などの業界団体は、主要な立法政策、規制政策、財政政策、金融政策、産業政策等に影響を行使してもらう対価として、議員に対し巨額の寄付を行うインセンティブを有している。たとえば、日本の建設会社は与党であった自民党に巨額の献金を行い、その見返りとして選挙区で旨みの多い補助金付き建設業務契約を勝ち取っていた。
時が経つにつれ、組織的な利権グループは寄生虫のごとく国家の深部に潜り込み、補助金や税負担の軽減、政府調達、規制上の優遇等の形で貴重な資源を吸い上げるようになる。利権グループという寄生虫の大群が国家経済の残骸を食い漁っている間に、経済は徐々に活力を失い、成長率は低下する。そして、経済危機に直面しても状況に適応した変化をもたらすことが困難になる。
II.日本のリーダーシップの空白
経路依存性
日本では、民主主義国家すべてに共通する特有の構造的欠陥が強く表れてきた。これは単独政党(自由民主党)が中央省庁と緊密な関係を保ち、農家や大企業、銀行、医師、郵便局職員等、既得権グループの圧倒的な連携に支えられて長らく政権の座にあり、その統治下で、中央集権的かつ生産者寄りの経済が独自に発展してきたことによる。
自民党・官界・財界の三頭体制は1955年から1990年までの30年以上にわたり高い経済成長を実現する政策を実施してきた。1975年に、日本は世界第2位の経済大国となった。戦後の日本経済は、輸出主導、設備投資主導、生産者寄りの経済であり、旧来の英米型自由放任主義、消費者志向の資本主義的な民主主義とは構造を異にする、新たな発展のパラダイムとなった。
景気を先導する経済成長と政治的安定が数十年間続いたが、この間に、政治体制の中核である自民党・官界・強力な生産者団体と三頭体制が深く根付いた。このシステムにはいくつかの特徴がある。
- 政党間の不完全な競争
- 弱体な「半永久的」野党
- 政党内(派閥間)および政党間の権力分散
- 透明性と説明責任の低下
- 政権政党(自民党および民主党)に対する草の根的支持の薄さ
- 利権グループの強力な連携(日本経済の利益を貪り、経済効率が低下、変化への抵抗が増す)
- 蔓延するコンセンサス重視
- 現状維持の並外れた耐久力(変化への抵抗が組み込まれている)
- 不毛な政策論争
- 顕著なリスク回避
- 政策の策定において中央省庁の専門知識に依存
- 発展途上な政策研究・分析インフラ
- 生産者団体の力と比較して国民・消費者団体の声が弱い
日本の戦後システムは数十年にわたって大きな成功を収めたが、定型的な政策策定やリスク回避、断片的な改革、経済危機に直面してもなお先送りをするといった要素が深く根付いた制度へと除々に変化してきた。
つまり、四半世紀にわたる目覚しい成功によって、国内経済や国際制度の基本的変化に柔軟に対応することなく、現状維持を目指す政治経済体制が出来上がったのである。
日本は10年以上もデフレスパイラルにあるにもかかわらず、政治は、旧態依然とした政策を次々に打ち出すのみで、経済の弱体化に対処できていない。以下の問題点が挙げられよう。
- 民間部門の支出の不振
- (産出可能量と実際の経済産出量の間の)産出ギャップ
- 財政赤字の急増
- 公的債務残高の急増
- キャリートレード (carry trade) による資本流出につながるゼロ金利
- 世界的に不整合な為替レート
- 労働と資本の不適正配分
- イノベーション、リスクをいとわない精神、企業家精神を抑圧する過剰な規制
- 労働人口と総人口の減少、高齢化
- 持続不可能な日本の福祉セクター
- 製造・組立など従来型輸出志向産業の相対的な優位性の低下
国民の自制心
日本経済の不振は1991年から継続しており、自民党が2009年まで政権の座を維持したことは驚くべきことである。賃金水準の低迷、非正規雇用の急増、所得と富の分配における格差拡大、株式・信用・実物資産市場の急落など、主要な経済指標は軒並み芳しくない。1991年から2009年にかけて、日本の家計は大きな打撃を受けている。
欧米の民主主義国家であれば、不満を抱いた国民は間違いなく政権交代を実現していたと思われるが、日本の国民はなぜ与党自由民主党の責を問い、2009年よりさらに早い時期にこれを実現しようとしなかったのであろうか。
理由の1つとして、1955年から1990年という長期間にわたる経済成長という自民党の輝かしい実績が挙げられる。このため、国民は低迷する経済の立て直しを図るべく、自民党に進んで裁量権を委ねた。野党に政権運営の実績がなかったことも大きな理由である。さらに、不況は長期にわたっていたが、大多数の日本の家計にとって耐えがたい痛みというほどではなかった。国民は「悪党ども(自民党)を追い出す」必然性を感じていなかった。国民の自制心の結果と言えよう。
さらに明確な理由として政権与党に非常に有利な日本の選挙区制度が挙げられる。有権者人口に釣り合わない議席数が農村部や地方都市に割り当てられている。そして、農村部や地方都市は、自民党の強力な支持地盤である。このような恣意的な選挙区制度により、自民党は得票総数では負けても政権党の立場を維持できたのである。
国民の直接的な支持
2001年から2006年の間、小泉純一郎元首相は国民による直接的な支持基盤を確立した。小泉首相は、大派閥や補助金のばらまき、利益団体からの献金など、自民党従来の権力の源泉への支配で権力を手にしたわけではない。
大衆から直接支持を得て、小泉首相は、小泉後の首相が誰一人として挑もうとしなかった大胆な改革を推進できた。小泉首相は伝統的な自民党政治に決別したのみならず、郵政民営化など大胆にも、自民党の従来的な権力基盤を崩すことを目指す改革をも実行した。野田首相が大規模な改革を実行に移し、あるいは困難な法案を成立させようと望むのであれば、小泉首相同様、大衆との強固な関係を築かねばならないであろう。
2006年に小泉首相が引退すると、瞬く間に後継者達は小泉改革に逆行し始めた。2006年の安倍晋三首相選出から2009年の麻生太郎首相辞任まで、短命の首相が続いた。頻繁な首相交代は民主党政権下でも続き、野田首相は民主党政権3年目にして3人目の首相である。5年間で6人目の首相。日本の政治指導者の誰一人として長引く不況を克服できていないことが大きな原因である。
野田首相にとって事態の打破は容易ではない。経済問題は方々に飛び火しており、タイムリミットは迫りつつある。今後20年間、お茶を濁すような余裕はない。経済危機対策をすぐに講じなければ、日本は考えられない事態を迎えることとなろう。つまり、政府債務不履行の危機である。
求められる一貫した戦略
弱体化した日本経済を再生させるため、日本の指導者達はデフレの逆風を克服すべく長期的な政策手段を実行に移さなければならない。たとえば、エネルギーインフラや運輸インフラを改善し、輸出する。消費を刺激し、イノベーションの妨げとなる規制を撤廃する。過剰生産能力の縮小や非効率な支出の削減、そして着実な成長を達成する。その結果、巨額な政府債務の重荷を着実に縮小させる。
政治家だけでは、一貫した経済戦略の立案に必要な知識や経験が不足している。多様な意見を外部に求めなければならないだろう。つまり、官僚や学者、研究者、企業幹部、業界団体、オピニオンリーダー、労働組合、消費者団体、そして国民である。
さらに、野党には、たとえ経済立て直し失敗という多大なコストを伴っても、民主党を政権の座から引きずり下ろすために必要と判断されたことは何でもしようという、屈折したインセンティブが働くことが考えられる。野党や、民主党内でも非主流派の派閥は、重要法案成立に向けての協力を拒否することにより権力を奪取できると考えを持つかもしれない。
お粗末な政策開示
日本では、予備選挙も大統領選挙も存在せず、政策開示が質・量ともに十分とは言えない。新首相が税制や予算、金融政策、規制監督、国際安全保障、外交等の基本問題でどのような立場なのかはっきりしないことも多い。政策開示は注目されておらず、あまり目立たない。これはまぎれもない欠陥である。
かつて自民党の指導者達は官僚の政策助言に依存していた。民主党の指導者達はエリート官僚への依存度を低下させようとしたが、この穴を埋めるため、各国会議員事務所や首相、内閣の行政機構、民主党組織の政策立案能力を向上させねばならない。さらに、シンクタンクや研究機関、大学の研究センター、NGO、マスメディアの組織する政策フォーラムなど、日本の政策立案インフラ全般が強化されることも望ましい。
結論
巨額の赤字、持続不可能な債務、不安定な金融システム、低迷する需要、2桁台の失業率、政府債務不履行の可能性など、世界が幾多の深刻な問題に直面する今、先進工業国の政治指導者達に求められているのは、状況に素早く対応でき、長期的視点を有し、党派に縛られない、断固としたリーダーシップである。ところが実際に先進国の国民が受けているリーダーシップは柔軟で実行力のあるリーダーシップとは程遠く、硬直的で党派優先型、臆病で断片的、近視眼的なリーダーシップである。政治はほとんど機能しなくなっており、状況は「リーダーシップの赤字」と形容できるほど深刻である。
日本では、この「リーダーシップの赤字」が他の主要先進民主主義国家と比べ、長期間にわたって継続している。この結果、かつて評価の高かった日本経済も、すっかり活力を失ってしまった。
リーダーシップは重要である。日本のようにリーダーシップが欠落していると、経済は千鳥足で歩を進めながら、やがて国家の没落へと向かう。これ以上決断を先延ばしにすれば、国際的な信用格付は引き下げられ、家計資産の正味価値が激減し、最終的にはおそらく財政破たんへと突き進むだろう。このようなシナリオを見ても、指導者達が経済再生に向けた大胆な戦略を策定できない場合、国民は指導者達により高いレベルの達成水準を課すべきであろう。
日本の政治家は党派抗争や優柔不断、政治的な手詰まりを乗り越えることができるであろうか。2011年3月11日の大震災で政治的指導者達は目前の経済危機の深刻さについに気づいたであろうか。答えはまだはっきりしていない。唯一、明確なのは、過去20年間にわたり、日本の政治指導者達は経済の立て直しに失敗してきたということである。政治リーダーシップの赤字は持続不可能な財政赤字の累積額にも匹敵しており、また同時に、この巨額な財政赤字の原因でもある。