本稿はFrankel (2011) を元にして経済産業研究所のために書き下ろしたものである
人民元は突如として、次の重要な国際通貨としてもてはやされている。この1、2年の間に人民元は数々の側面で国際化し始めている。香港では人民元建て債券市場と人民元建て預金市場が急成長している。中国の国際貿易決済にも人民元が使われ始めている。2010年8月以降、各国の中央銀行が外貨準備として人民元を保有できるようになり、マレーシアが先鞭をつけた。
一部では人民元が今後10年以内に米ドルを追い抜き、ナンバーワン国際通貨の地位を手にするとの見方がある(注1)。この予想の根拠として、第1に中国経済の規模が米国を上回る可能性が高いこと、第2に、第一次世界大戦後に米ドルが英ポンドからナンバーワン国際通貨の地位を奪った歴史上の先例が上げられている。
かつて国際通貨の地位は、保持され続けられるという「慣性」(inertia)が存在すると言われていた(Krugman, 1984等)。米国経済の規模が英国経済を上回ってから(GNP基準で1872年)、米ドルが英ポンドを追い抜くまでに(各国中央銀行の外貨準備比率で1946年)かなりの時間を要したといわれてきた。ところが、とりわけEichengreenの「新しい見解」は、この時間差はさらに短かったと提唱している。第1に米ドルが国際通貨の基準を満たしたのは第一次世界大戦後であり、第2に米ドルが国際通貨として英ポンドと競合するようになったと言われる時期は1920年代半ば以降である。第1の点についてはその通りである。貿易を規模の指標とすれば、米国が英国に初めて追い付いたのは第一次世界大戦中であった。その後まもなく、債権国としての地位、通貨が強い価値を維持できるという見通しの認知度、そして厚みがあり、流動的で、開放的な金融市場など、その他の重要な基準が達成された(注2)。第2の点については、英ポンドと「競合するようになる」・「追い付く」(1920年代)という概念と、英ポンドを「決定的にリードする」・「取って替わる」現象(1945年)を区別するかどうかが問題のようである。どちらの解釈にしても、条件が整ってしまえば実際のところ、米ドルの国際通貨としての台頭は急速な進展であった。米国には1913年まで常置の中央銀行さえなかったのである。
米ドルは20世紀に国際通貨の地位を達成した3つの通貨の1つである。他の2つの通貨は日本円とドイツマルクで、1971-73年のブレトンウッズ体制崩壊後に主要国際通貨となった(言うまでもなくユーロは1999年以後に国際通貨となっている)。1990年代初頭、日本円とドイツマルクは米ドルとナンバーワンの地位を競う可能性があるといわれていた。このことは、その後に日本の相対的な役割が縮小し、ドイツマルクが廃止されたことから、今となっては忘れられがちである。振り返ってみると各国中央銀行の外貨準備における両通貨の比率は1990年代初頭にピークに達していた。
人民元の現状は、過去の3つの通貨の台頭と比較して、歴史的な状況という点で興味深い相違点がある。中国政府は積極的に国際的な人民元の利用を進めている。ドイツや日本、あるいは米国でさえも、当初は少なくともそのようなことはしなかった。この3つのいずれの通貨の場合も、通貨の国際需要が高まれば競争力を失う立場にあった輸出関連セクターが、国際化支持の可能性のあった金融セクターよりはるかに強力であった(英国とスイスでは金融セクターの勢力がはるかに強かった)。中国においても、通貨高とそれによって製造業輸出に及ぼされる影響への懸念が、損得勘定を左右すると予想される。
1973年以後のドイツマルクと日本円の場合、ドイツ・日本両政府の消極姿勢にもかかわらず、国際化が実現した。1914年以後の米国の場合、国民全般の無関心や反感があったが、一握りのエリートが米ドルの国際化を推進した。ニューヨーク連銀初代総裁ベンジャミン・ストロングをはじめとするエリートは、そもそも1910年に連邦準備制度の設立を図ったメンバーである。
人民元を国際化するという中国の新たな意気込みに、国内金融システムにおける金融抑圧を終わらせ、国際資本規制を解除し、人民元高を許容するといった前向きな姿勢が伴うかどうか、いまだ不透明である。1世紀前にストロングが成し遂げたように、一握りのエリートによって達成されるかもしれない。しかし、これまでのところ、政府は国内金融市場を切り離し、オフショア市場における人民元の国際的利用を推進しているにすぎない。これだけでは十分といえないだろう。