RIETIでは2020年以降、「文理融合による新しい生命・社会科学構築にむけた実験的試み」と題したプロジェクトを展開し、生命科学と社会科学にまたがるコホートデータ(長期にわたって研究に協力いただく人々のデータ)の構築と、そのデータを活用した最先端研究を行ってきた。今回はそのプロジェクトリーダーを務める広田茂RIETIファカルティフェローから、プロジェクトで得られた政策的な示唆や、わが国における文理融合研究の課題と挑戦について考えを聞いた。
聞き手:水野 正人 RIETI研究調整ディレクター
官僚から研究者へ
水野:
官僚から研究者を志された背景をお聞かせください。
広田:
私は1992年に経済企画庁に入庁後、内閣府などで主として経済分析業務や国民経済計算(SNA)などの統計作成業務に携わってきました。政策研究大学院大学や京都大学経済研究所にも出向し、行政における経済分析分野とアカデミアを行ったり来たりしながらキャリアを歩んできました。その中で、特に2014-2017年に京都大学経済研究所に出向した経験は大きかったと思います。当時そこで、人文系を除外した科学技術基本法の改正を提唱され、人文社会科学と自然科学が一体化した科学技術・イノベーション政策の重要性やEBPMの重要性を訴えておられたRIETI前理事長の矢野誠先生の知遇を得たことは大変貴重でした。矢野先生と、京都大学ゲノム医学センター長の松田文彦先生が進めておられた、生命科学と社会科学の融合をデータ作りから始める研究に参加させて頂いたことが、今の研究につながっています。
水野:
そのような文理融合研究の現状はどうなのでしょう。
広田:
医療・健康の分野では、医療経済学や健康経済学といった分野が確立していますから、社会科学・自然科学双方から活発な活動が行われていると認識しています。ただ、さらに広がりを持たせるためには、もう少し分野横断的なエコシステムが必要で、それがわが国においてはまだ貧弱です。文理にわたって複数の専門分野を持った研究者を育てる仕組みもできておらず、属人的な努力に依存していますし、アカデミアにおいても行政においても、複数分野に知見のある人をまだ適切に活用・配置できていないと思います。
文理双方のアプローチから見えるもの
水野:
文理融合研究とは、具体的にどんな研究でしょうか。
広田:
古い言葉でいえば学際研究で、特に自然科学と人文・社会科学にわたるものを文理融合研究と言っていると思います。しかし本来それは特別な研究ではなく、我々が抱える課題の多くは自然科学と社会科学の両方にまたがっています。
例えば、健康寿命の延伸は現在の医学の大きな課題の1つですが、糖尿病や高血圧といった慢性疾患、生活習慣病を克服するためには、医学的な治療だけでは完結しきれず、その人の行動の傾向や精神状況、経済状況、職場環境など社会経済因子を、社会科学の枠組みを使って適切に考慮しなければなりません。人間は社会的な存在で、他者とのネットワークの中で生活していて、そこからの刺激で生活習慣を変えたり、学歴や所得によって健康状態が左右されるからです。
社会科学の側から見ると、わが国のような超少子高齢社会において、健康寿命を延ばそうという社会的要請を実現するためには、あるいはその前提の下で持続可能な社会を構築するためには、高齢者像も変わっていかなければならないでしょうし、健康観や労働観も変えていく必要があるでしょう。そのときに、例えばどのような健康状態であればどのように働けるかについては、医学的な知識やエビデンスに基づいた議論が必要です。このように、健康寿命の延伸という目標1つとっても、双方から必要な知見を提供し合いながら、最終的には研究領域が重なっていくようなイメージになるのだと思います。
水野:
日本と海外で文理融合にどんな違いがあるのでしょう。
広田:
例えば、ゲノムと経済行動を結び付ける発想は日本にはあまりなかったのですが、欧米では2000年代半ばごろからすでにGenoeconomics(遺伝子経済学)という研究が野心的に始められていました。
そうした中で、ゲノムを含むバイオマーカー(体からのデータ)や生命科学情報と社会経済行動の関係を解明しようと、先ほど述べたように、矢野先生と松田先生のお二人が構想を練って今回の研究プロジェクトにつながる研究が始まりました。日本においては先駆的な試みであると言って良いと思います。
在宅勤務は感染回避に有効だった
水野:
文理融合の研究における問題意識は、自然科学だけの問題意識、社会科学だけの問題意識と何が違うのでしょう。
広田:
それは今回プロジェクトで取り上げているCOVID-19研究によく現れていると思います。言うまでもなく感染症に立ち向かうためには、治療法の確立やワクチンの開発といった医学的な努力が必要であると同時に、ヒトからヒトへの感染を断つような行動の変化を社会として促していくことが求められますから、生命科学・社会科学両面の問題意識が必要です。どのような行動変容が感染回避に有効かという問題だけであれば自然科学だけで事足りるかと思いますが、有効な行動変容をどうやって人々に促すか、そしてそのための工夫をどのように社会に実装していくかという問題については、社会科学がしっかりと検証していく必要があります。両者が適切に組み合わされることで、行動変容による感染症対策がきちんと進むようになります。
水野:
今回のコロナ禍では、IT関係のようにテレワークがしやすい、行動変容しやすい職業と、エッセンシャル・ワーカーのように、わたしたちの日常生活を維持するために不可欠な職業、行動変容しにくい職業があることがよく議論になりました。こうした難しい問題も、文理融合研究だからこそ解決できたりするのでしょうか。
広田:
そうですね、行動変容のしやすさにはご指摘のような職業も関係しますし、同居家族に未就学児や高齢者がいるかどうかといった家族環境なども関係してきます。いずれにせよ、換気やスクリーン設置など生活・労働環境を物理的に改善するだけでなく、労働シフトやビジネスモデルといったさまざまな社会経済因子についても十分考慮する必要があるという点では、文理融合的なアプローチが重要になると思います。
水野:
今回の研究から得られる政策的な示唆は何でしょう。
広田:
手指消毒や体温測定などの具体的な行動を見ると、必ずしも感染と明確に関連しているとはいえないのですが、一般にリスク回避的な行動をしている人が感染を回避していることが見えています。また、在宅勤務が感染を回避するのに有効だったということも明確になっています。
また、日本はマスク着用率が高いですが、マスクを「着けていないと他人に非難されるから」といった同調的な理由で着けている人は、その他の感染予防行動はあまり熱心にはしていないという傾向も見えてきました。つまり同調行動を促すだけでは見えないところでの対策は不十分なままになってしまい、行動変容を促すためには人々の納得感が非常に重要であること、したがって行政は説得力のある広報や情報発信を行っていくことが重要だと思います。
プレシジョン・ポリシー・メイキングの可能性
水野:
研究者として今後解明したいことは何でしょう。
広田:
政策に文理融合的な視点を取り込むための研究をしていきたいと考えています。私がイメージしているのは、医学で最近注目されている個別医療や精密医療、いわゆるプレシジョン・メディシン(precision medicine)という考え方です。証拠に基づく医療(EBM)を踏まえてEBPMの考え方が生まれてきたように、政策の世界にもプレシジョン・メディシンのようなもの、つまりプレシジョン・ポリシー・メイキングがあってもいいのではないかと思うのです。
例えば、政策立案は、65歳以上はこうだ、70歳以上はこうだという前提で行われることが多いですが、同じ70歳でも認知能力や健康状態は人によって異なります。高齢者に免許の返納を促すような制度を作ろうとしたときに、何歳のときに促すかというのは人によって異なるという制度設計も考えられるのではないでしょうか。
水野:
プレシジョン・ポリシー・メイキング、いわば一人一人の事情に合わせた政策、人に寄り添う政策の立案ですね。非常に興味深いキーワードです。文理融合のもたらす将来像の1つということだと思いますが、それを実現する上での課題は何でしょうか。
広田:
プレシジョン・ポリシー・メイキングは概念としてはあり得ると思うのですが、具体的にどのような分野で政策を考えるべきかということになると、倫理的にもいろいろな問題を含んでいるので、なかなか難しいですね。どのような政策の在り方が考えられるかということも含めてこれから幅広く議論しなければならない段階だと思います。
水野:
研究者としてほかにはどんなことに取り組んでいきたいとお考えですか。
広田:
文理融合研究の端緒として手を付けたゲノムと人々との社会経済行動の関係の分析については、ここのところCOVID-19研究を優先させてきたため道半ばになっているので、生命科学的なデータに基づいてきちんと分析していきたいと思っています。