夏休み特別企画:フェローが薦めるこの1冊'03

『虚構の終焉』

『虚構の終焉』リチャード・A・ヴェルナー著 村岡正巳訳 PHP (2003)

『中国現代化の落とし穴』表紙 バブル崩壊から14年。「失われた10年」という表現も人口に膾炙して久しいが、依然として日本経済の足取りは重い。この間、日本経済に何が起こったのかについての経済学者や政治学者の研究は、近年非常に進んできているが、興味深い一冊に出会った。
80-90年代のバブルの生成と崩壊、およびその後に続く長期不況のメカニズムに迫る本書は、ややセンセーショナルな響きのあるタイトルにそぐわず、論旨は極めて理論的かつ実証的だ。著者は、オックスフォード大学で博士号を取得したドイツ人経済学者で、その後、東大大学院に学び、日銀金融研究所、大蔵省財政金融研究所等で研究員として研究活動に従事した。これらの活動を通じて、同氏は80-90年代のバブルの生成と崩壊、その後の長期不況などを説明する上で、日銀の窓口指導による信用創造の膨張とその後の収縮が決定的な役割を果たしていることを見出し、10年間にわたる研究活動の集大成として、本書においてこの点に関する理論的・実証的な議論を展開している。類書は少なくないが、そのファンダメンタルな姿勢、開発経済学への含意、主張の意外性を買ってご一読をお勧めしたい。

まず著者は、古典派からマネタリストにいたる近代経済学のいずれの学派もうまく説明できなかった謎として、90年代の財政金融政策が無効であったこと、多数の構造問題が存在した90年代以前の経済的成功、バブルによる資産価格の高騰、80年代後半の資本輸出の急拡大とその後の急速な縮小、80年代後半の銀行貸出の急拡大とその後の急速な縮小、バブル崩壊後の10年にもおよぶ長期不況を挙げる。そしてこれらがいずれもバチカンやパナマのような小国家ではなく、世界第2位の経済大国日本で起こっていることから、これを例外的事象として理解するのは適切ではなく、これを説明できない諸理論がよって立つところのパラダイムそのものを転換するべきではないかと主張する。

著者による新たなパラダイムの模索は、GDPベースの取引がマネーを用いて行われるすべての取引を表しているという数量方程式の暗黙の仮定が有効ではないこと(何故なら巨額の金融取引がGDP統計に反映されていない)から出発する。そして、すべての取引に利用されるマネーの量を測る尺度は実はマネーサプライやハイパワードマネーではなく、中央銀行と民間銀行による信用創造によるべきとの認識を経て、信用創造が生産的投資と経済成長を導くのであって、貯蓄は経済成長の抑制要因ではない(ただし、貸渋りは経済成長を抑制する)と発展する。この場合、マネーサプライは信用に対して内生的であり、また情報の不完全性などから信用に対する需要は常に存在するため、信用市場は需給均衡ではなく、信用は外生的な経済活動の包括的予算制約要因となる、とする。

ここから「80-90年代の景気動向は信用創造の増減で説明でき、不良債権の処理や長期不況からの脱出も日銀の政策転換によって容易に可能となる」という著者の主張が導かれることになるが、注目すべきはその過程における理論的・実証的誠実さである。著者は、まず80年代以降の貨幣の流通速度の低下について、バブル四業種の信用取引を分離することにより、当該業種を除いた実物取引における流通速度が極めて安定していること(即ち、経済の金融面と実物面に安定的関係が存在する)を示す。次に、経済が完全雇用水準であっても生産的な信用創造の伸びがインフレを起こさずに経済成長を可能にするという理論的可能性を示すとともに、これを前提として80年代の長期不況など前述の各種の謎が「信用創造」をキーワードとして説明できることを実証的に明らかにしている。そして、圧巻は、80-90年代の信用創造が日銀の窓口指導によるものであることを、当時の(日銀と民間銀行双方の)関係者の証言とデータから実証した17章である。

これ以上は、読者のために控えるが、本書が特に興味深い所以は、以下の3点にある。

第1は、そのファンダメンタルな姿勢である。タイトル中の「虚構」とは、戦後の主流派近代経済学が現実から帰納的に考えるという自然科学とは異なり、公理から出発する演繹的な手法を採用して全体理論を構築しているために、現実とはかけ離れた「フィクション」に陥っていることを指している。特に、銀行、証券、不動産、広告、コンサルティング、職業紹介所、メディア、通信産業など先進工業国のGDPの中で高い比率を占める情報サービス業の存在そのものが「情報の完全性」という近代経済学(ワルラス流の均衡経済学)の大前提を否定しているとの指摘は非常に象徴的であるが、その近代経済学が主唱する構造改革が目指すところの英米型の経済では、このようなサービス業取引が一層大きな比重を占めるというのも、若干皮肉に響くところである。

第2は、その開発経済学へのインプリケーションである。著者は、著者の考え方は特段新しいものではなく100年前のドイツや日本の経済学者が(自らは保護主義のもとで経済発展を遂げながら後発国には自由主義を説く)英米流の経済学の胡散臭さを感じ取り、独自の経済学を発展させたときに既に考案されていたとする。そして、同様の路線を踏襲した独、日、東アジアのみが経済発展を遂げた、と指摘する。アジア危機以降、成長モデルとしての日本の魅力が薄れる一方で、途上国に対するIMF、世銀流の政策処方箋のもたらす問題点に関する実証的研究もかなりのものが蓄積されてきたが、銀行による信用創造を通じた成長の有効性をダイレクトに主張する本書の指摘は、より一層明確である。アジア危機の発端となった外国短資流入の反省の上に、アジアにおける資本市場整備の努力が進んできているが、今一度原点に戻り、銀行による信用創造の重要性に注意を向けるのも良いだろう。

第3は、その主張の意外性である。本書では、バブルの生成と崩壊、その後の長期不況と不良債権問題の悪化、その結果としての倒産失業の増加、等々は、すべて米国の意を受けた日銀のプリンス達により窓口指導を通じて意図的に仕掛けられたものであり、旧大蔵省はもちろん政策委員会にも知らされていなかったとする。陰謀説的な「意図」論には若干危ういものもあるが、通説が主役とする旧大蔵省が実はバブルの生成にも崩壊にも直接の影響力を行使していたわけではなく、窓口指導についても何ら知らされていなかったとの主張は新鮮である。本書が示すような重要な機能を持つ日銀の政策について、民主的正統性を有する諸主体(国会や政府等)に対する十分な情報提供や当該主体によるチェックの機会が乏しいという事実には、今一度注意が喚起されても良いだろう。