日本経済の罠

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執筆者 著:小林慶一郎 , 加藤創太
出版社 日本経済新聞社
ISBN 4-532-14856-1
発行年月 2001年3月
関連リンク 第44回 日経・経済図書文化賞 受賞
序文
あとがき

内容

本書の趣旨 九〇年代は日本経済にとって「失われた十年」だったと言われる。
この間、企業は経営判断を巡って、また政府は経済政策を巡って試行錯誤を繰り返した。しかし、二一世紀を迎えた今になっても、政府や企業は、依然として踏み出すべき明確な途を見い出していない。
九〇年代の日本経済に一体何が起こったのか?
日本経済再生のためには何をしなければならないのか?
これらの問いこそが本書のスタート地点であり、本書中の理論的分析、規範的提言は、これらの問いに答えるためになされる。

細かな理論的内容については本文に譲るが、より抽象化したレベルにおいては、九〇年代が日本経済にとって「失われた十年」になった根元的理由は、次のように要約できるだろう。すなわち、九〇年代が「失われた」のは、日本の政府、銀行、企業、研究機関などが、経済環境の激変に対し、構造的・思考的に対応しきれなかったからだ、と。各機関の構成員は、従来から存在する組織のラインに囚われ、各自の持ち場の間の壁や仕切りを超えて経済全体のグランド・デザインを描くことができなかった。そして、この時期激変した経済環境と、政策当局者やエコノミストなどの思考枠組みや、政府や企業などの組織との間には、大きなギャップが拡がった。
例えば、ここ数年の経済政策論争は、「需要サイド論 対 供給サイド論」、あるいは「ケインズ政策論者 対 構造改革論者」という単純な二元論的図式に還元され、両者のギャップを埋めようとする努力はほとんどなされなかった。
また、九〇年代を通じ、経済政策に関する専門家と一般消費者(有権者)、あるいは専門家間のコミュニケーション・ギャップが顕在化した。――バブル崩壊後、有権者の経済政策に対する関心は一気に高まった。その反面、経済学者による真摯な先端的分析や、経済政策を実施する際の理論的根拠は、国民に対し説明責任を負う政策当局者の怠慢などにより、有権者に十分にコミュニケートされなかった。専門用語や理論の難解さが、経済専門家と有権者との間の壁になったからである。代わりに、口当たりは良いものの、理論的・実証的には疑義の残る分析・評論が幅広く流布した。その結果、有権者の政治・行政不信が高まり、住専への公的資金投入の際の政治混乱に代表されるように無益な時間が費消され、政策的対応は後手に回った。
他方、この時期を通じ、既存の制度・組織は激変する経済状況に対応できず、制度・組織間に横たわるギャップは、必要とされる抜本的対策の立案・実施を阻んだ。

第一のギャップの解消――不毛な二元論からの脱却
冒頭の問いに対するわれわれの答えは、したがって、これらのギャップを埋めることを目指す。
例えば、本書中においてわれわれは、「需要サイド論」と「供給サイド論」の二元論のギャップ埋め、両者を「つなぐ」ような政策案を「第三の道」として提示する。
今まで、需要サイド論者の多くは、短期的な対症療法であるはずのケインズ政策が、なぜ一〇年もの間、日本経済を低迷から脱出させることができなかったか、という点に対して十分な答を提示してこなかった。一方、供給サイド論者は、規制緩和やリストラなどの供給サイド改革が、なぜ需要サイドの拡張をもたらしうるのか、という肝要な点についてほとんど何も説明してこなかった。
われわれが、日本経済低迷の最大要因と考える「バランスシートの罠」は、この需要サイド論と供給サイド論とをつなぐことによって、初めて浮かび上がる。つまり、供給サイドに構造的に仕掛けられた「バランスシートの罠」を取り除くことによって、需要サイドの持続的拡張が可能になると考えるのである。そういう意味で、本書の分析は、従来の「需要サイド 対 供給サイド」という不毛な二元論のギャップを埋めるものであり、かつ、マクロ経済学、ミクロ経済学、そして経営学の各領域を跨ぐものでもある。

第二のギャップの解消--平易な説明によるコミュニケーション・ギャップの除去
また、本書が特にこだわったのは、右に述べたコミュニケーション・ギャップの解消と、それを通じた説明責任(アカウンタビリティ)の履行である。
言うまでもなく日本は民主主義国家である。したがって、政府は経済政策を実施するに当たり、国民に対して説明責任を負う。しかし、だからと言って、表面的にわかりやすく、口当たりの良い政策ばかりを選択することは許されない。最新の経済理論を含め、あらゆる可能なオプションを吟味した上で、その中身を経済学になじみのない者にもわかるような平易な言葉・論理で国民に対し説明するのが、民主主義国家における経済政策のあるべき姿である。
本書中で示される各種の理論や提案の多くは、経済学などにおける最先端の研究成果をベースにしている。しかし、本書ではその内容を、一般読者でも一読してわかるように、かみ砕いて説明した。読み進めるに当たって必要となる周辺知識は、コラムの形でコンパクトにまとめた。各章の趣旨や論理を明確化するため、各章には、その章における中心的な<問>とその<解題(まとめ)>とをコンパクトに提示した。したがって一般読者は、本書を通読することにより、現在の日本経済が抱える問題点を体系的に理解すると同時に、その問題点を理解する上で必要となる経済学的な基礎知識も習得できるはずである。

第三のギャップの解消--制度的・組織的制約からの解放
最後に、本書は、われわれが現在所属する経済産業省、あるいは日本政府とは一切無関係な個人的立場で書かれている。
現実の経済政策の実務においては、われわれは半ば日常的に、制度・組織の壁と、それが現実経済との間に生み出すギャップに悩まされてきた。そうした壁やギャップの存在ゆえ、政策的な妥協を迫られたことも数多い。本書を発表するに当たり、われわれは、そのような制度的・組織的制約は一切無視して、必要な経済政策の全体像を議論することを目指した。そして、客観的な分析に基づき、日本経済にとって現在最も必要だと考えられる処方箋を提示してある。したがって、本書の内容についての責任は、言うまでもなく、われわれ著者個人が全て負う。

本書の読み方
右でも述べたように、本書は、経済学についての知識を有さない一般読者でも簡単に読み進められるように工夫してある。
まず、各章の冒頭には、その章において分析の対象となる<問>を掲げた。それらの<問>に対応する答えは、<解題>として各節末にまとめた。時間のない読者は、各章の<問>とその<解題>を読むだけで、現在の日本経済の問題点と、その理論的背景について大まかな理解を得ることができるだろう。また、最初に各章の<問>と<解題(まとめ)>だけ読み、興味を持った部分(章)についてのみ本文を熟読する、という読み方も可能である。
本文を読み進めるに当たって必要となる経済学・経営学的知識は、なるべく本文中でかみ砕いて説明するようにした。そこで漏れたものについては、コラムの形で簡潔にまとめてある。さらに、経済学の専門家のためには、本書中で述べられる理論の数理的説明を、付録の形で巻末に収めている。
類書に比べ本書を「分厚い」と感じる向きもあるかもしれない。しかし、これは本書一冊で、現在日本経済の問題点だけでなく、その解明のため必要となる経済学・経営学的な基礎知識を、一般読者でも無理なく習得できるよう工夫したことによるものが大きい。

各章の構成
本書の構成は以下のようになっている。
まず第1章では、「失われた十年」において日本経済が実体的・指標的にどのような動きを示したかを簡単に復習する。また、その時期発動された経済政策とその理論的根拠も概観する。
第2章においては、経済政策について通説的に理解されている根拠や効果について掘り下げた分析を行い、それら通説的見解の誤解を正す。特にこの章で注目するのは、マクロ経済学的な総需要管理政策とミクロ経済学的な構造改革論という二つの政策思想それぞれの理論的な長短と、その両者間の関係である。
第3章と第4章においては、理論的・実証的分析が行われる。
まず第3章では、バブル崩壊後に日本経済が需要収縮に陥ったメカニズムを概観する。ここで中心的課題となるのは、従来ミクロ経済学的な問題とされてきた不良債権問題が、どのようにしてマクロ経済学的な需要収縮を引き起こすか、というメカニズムの解明である。
さらに第4章では、バブル崩壊後の経済低迷からの回復が、なぜこれほど遅れているのか、なぜケインズ的景気刺激策が持続的効果を発揮しないのか、という点に分析の焦点は絞られる。より具体的には、「不良債権処理」の「先送り」を通じ、日本経済が「バランスシートの罠」に陥っていることが理論的に示される。また、この「バランスシートの罠」に陥った日本経済において、産業組織構造の劣化や萎縮(ディスオーガニゼーション)が起こっていることが、理論的・実証的に示される。
第5章以降は政策提言と将来予測に当てられる。
まず第5章では、前章までの分析に基づき、日本経済を「バランスシートの罠」から抜け出させ、持続的回復を実現するため必要となる処方箋を提示する。
第6章では、日本経済の将来について、四つのシナリオが提示される。そこでは、政府が採りうる経済戦略を列記し、それぞれに内在するリスクと、それぞれによって帰結されうる結果について大胆な予測を行う。
第7章では、それまでの議論の簡単なまとめを兼ね、今後のあるべき経済理念・制度の姿について述べる。
すでに述べたように、本書はなるべく各章毎に独立して読み進められるよう工夫されている。ただ、後半の章を先に読みたいと思う読者は、前半の章の<問>と<解題>だけを読んでおくと、書中における理論的・実証的分析と規範的提言についての理解がより深まるだろう。