Research Digest (DPワンポイント解説)

退職政策の変更が健康に及ぼす影響:日本からの証拠

解説者 殷 婷(研究員(特任))
発行日/NO. Research Digest No.0155
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日本は世界一の長寿先進国であり、平均寿命の延伸や出生率の低下に伴う人口動態の変化は、退職者を支える若年労働者の数を減少させ、年金制度に大きな負担を与えている。そのため政府では、法定定年年齢の引き上げや早期退職者への年金給付削減といった、労働寿命の延長を促す政策を検討しているのが現状である。殷婷RIETI研究員(特任)は、こうした退職政策の変更が、経済的持続可能性の強化を目的としながらも人々の健康や幸福にどのような影響を与えるのかを分析した。今回はその分析結果を基に、経済の持続可能性と人々の幸福を両立させる退職制度の構築可能性について考えを伺った。

これまでの研究経歴について

中田:殷さんのこれまでの研究の遍歴についてお聞かせください。

殷:私はもともと家計経済学と労働経済を専攻していて、日本と中国の比較という視点でずっと研究してきました。日本は世界に類を見ないほど少子高齢化が進んでおり、それが個人の選択や日常的な経済行動に与えている影響に強い関心を持っています。そこで社会の最も基本的な単位である世帯や家計に注目し、その経済行動を分析してきました。例えば、少子高齢化が各個人の結婚行動や出産行動、貯蓄行動、退職行動、介護行動に与える影響が出ているのかを家計経済学的な視点で分析してきました。今回の研究内容はその中でも退職行動に関わるものとなります。さらに、コロナ禍をきっかけに医療経済学にも関心を広げています。レセプトデータを用いて、医療経済学と家計経済学を結びつけ、家族の中での医療行動や健康状態が、他の家族メンバーにどのような影響を及ぼすのか、いわゆるスピルオーバー効果についての研究も始めています。併せて、高齢者関連政策の政策評価にも取り組んでいます。例えば、今回の研究では、法定定年年齢の引き上げといった退職政策が、実際にどの程度有効なのかを、本人の健康への影響といった切り口から検証しました。

一方で、隣国であり巨大な市場を持つ中国でも、地域によっては日本以上のスピードで少子高齢化が進んでおり、かなり深刻で複雑な問題に直面しています。日本の経験を参考にしながら、これからどのような対策を取るべきなのか、日本がこれまで蓄積してきたノウハウをどのように活用するかという問いに答えるために比較研究を行っています。

中でも私が関心を寄せているのは、日本と中国は似ているようでかなり違うという点です。両者を比較することで、少子高齢化問題を立体的に理解することができると思います。地域格差も、人口規模も、社会保障制度の成熟度も全く異なるため、こうした違いがある中で、同じ少子高齢化という現象が、なぜ日本ではこのような形で表れ、中国では別の形で表れるのか、そのメカニズムを明らかにしたいと思っています。特に関心があるのは、制度や政策の違いが、家計の行動や個人の選択にどう影響するかという点です。例えば、退職政策や高齢者関連政策が、就業行動や健康、さらに家族内の役割分担にどのような影響を与えるのか、またそれが日本と中国でどう異なるのかを比較することで、各国にとってより現実的で持続可能な政策のヒントが得られるのではないかと思います。日本の経験は、中国にとって1つの未来の姿として参考になる部分が多い一方で、そのまま当てはめることはできません。今までの介護サービスに関する研究からもこの点についてよく確かめました。だからこそ、両国の共通点と相違点を丁寧に見極めながら、少子高齢化社会における経済行動や政策の在り方を考えていくことが、私の研究の軸となっています。

今回の研究の問題意識

中田:日本は先進国の中でも少子高齢化のトップランナーなのですが、中国の方がものすごく速い構造変化を起こしています。少子高齢化は労働市場にもいろいろなインパクトを与えてきたと思うのですが、中でも引退の自発的な選択を研究課題として選んだ理由は何ですか。

殷:少子高齢化の政府対応策として、現役世代が高齢者世帯を支える賦課方式の年金制度では長く持たない状況下において、例えば法定定年年齢を遅らせる手法がよく使われています。もともとはリタイアする人を減らして年金財政を緩和させるという期待があったのですが、退職を遅らせることでその人の健康や幸福度にどんな影響を与えているのかという問題が指摘されています。

この視点は学術的にも政策的にも非常に重要で、退職を遅らせる制度がもしかしたら高齢者の健康悪化につながり、公的な医療支出が増える可能性があるのです。つまり、財政状況を改善する目的が逆効果になる可能性もあるので、政策決定者にとってはとても重要なトピックになっています。

先行研究との違いと研究結果

中田:高齢者の健康と就労の問題は平均的なエフェクトばかりを見ていたと思うのです。もちろん異質性(heterogeneity)の研究も最近は増えているのだけれども、周囲の元気な高齢者の姿を見て、働いている高齢者はきっと元気だというアネクドータルな(経験談に基づいた)話に議論が引っ張られていると思います。でも今回は、効果の異質性に強く着目していますね。その辺は先行研究の中でどういった位置付けになるのでしょうか。

殷:退職は健康に良いか悪いかという質問自体、あまり現実的ではありません。なぜなら、退職の影響は人によって大きく異なるからです。ある人は退職によってストレスから解放され、健康状態が良くなる可能性もあるし、別の人は仕事を辞めることで生きがいを失い、経済的にもダメージを受けて、健康を損なう可能性もあります。

そこで今回は、退職が健康に与える影響の異質性を検証した上で、退職行動を変えるような政策変更が最終的に健康にどのような影響を与えるのかという点に着目しました。この問いに答えるために、どのような人が政策に反応して働き続けたのか、あるいは働くのをやめたのかを明らかにし、その人たちにとって働き続けることが健康に良いのか悪いのかを検証していったわけです。

その結果、退職する可能性が高い人ほど退職の健康への悪影響は小さいことが分かりました。つまり、利益の選択仮説と整合的な結果だったのです。退職しやすい人たち、自分にとって退職の選択は得になると思っていた人は、健康への悪影響は小さく、場合によっては好影響を与えています。逆に、そもそも退職したくない人たち、退職すると自分の損になると思っている人たちを強制的に退職させたら、実は健康へのダメージが大きいと解釈することもできます。

そのことをまず確定した上で、今回の論文では3つの仮想的な政策を想定して分析しました。1つ目は退職確率を全体的に一様に少しだけ下げるような政策を取った場合、2つ目はもともと退職しやすい人がより強く影響を受けるような政策を取った場合、3つ目は法定定年年齢そのものを限界的に引き上げる政策を取った場合です。その結果、穏やかに行動を促すナッジのような政策は健康にプラスに働き、広範かつ強制的に退職を遅らせる政策はかえって人々の健康を損なう可能性があることが分かりました。

これらの知見から、退職制度の設計には繊細なバランスが求められることが示唆されます。政策の影響は全ての人に及ぶわけではなく、高学歴の人は政策変更がなくてもずっと働き続けたいのであまり影響されませんが、身体的にきつい環境で働いている人は早くリタイアしたかったのに退職を延期する制度によって退職できなくなると、健康への悪影響が生じます。

分析手法としては大きく3つのステップで進めました。1つ目に、法定定年年齢の変更によって実際に行動を変えた人たちを識別することです。全体の平均を見るのではなく、政策に反応した特定のグループを捉えることを目指しています。2つ目に、退職が健康状態や医療支出に与える影響が、人によってどのように異なるのか、つまり異質的な因果効果を推計することです。3つ目に、政策関連措置効果(PRTE)という手法を使って、異なる政策変更が人々の健康にそれぞれどのような影響を与えるのかを評価することです。すなわち、定年延長政策が個人の退職行動を通じて健康に与えるという2段階の政策伝達メカニズムを理論的基盤とします。そうすることで、現行政策に対する緩和策や望ましい政策設計に向けた示唆が得られると思います。

政策的インプリケーション

中田:退職時期を延ばすことによって健康に悪影響が出る人がいるわけですが、悪影響の原因は何か、今回の分析から分かることはありましたか。

殷:今回の論文では分析していないのですが、『The Japanese Economic Review』に掲載された別の論文では機械学習の手法を使ってどのような人が過剰雇用、どのような人が不完全雇用となったかを分析していて、見えてきたのは、すごくリッチな人、経済的に恵まれていない人、例えば配偶者の経済能力があまり高くない人は、過剰就労を報告する可能性が高いので、働き続ける人の中でも異質性がかなりあります。でも、高学歴・高収入の人は働き続けること自体が健康にプラスの影響があるけれども、仕方なく働き続けている人には当然健康的ダメージがあります。そうしたところはまだ真正面から検証したことがないので、これからの課題です。

中田:制度はわれわれをひとくくりにして運用してしまうのですが、社会の中では制度の影響を強く受ける人とそうでない人がいるので、これから制度を考えるに当たっては国民一人一人を見た議論もしなければならないというのが今回のインプリケーションの1つだと思うのです。

ところで、このデータの対象になっているのは団塊世代(第1次ベビーブーム世代)が中心であり、日本的雇用慣行が出来上がった頃に働いていた人たちだと思います。しかし、これからは就職氷河期世代の退職時期が近づき、日本的雇用慣行から外れたところで働いてきた人たちが多いわけです。分析対象になっている人たちを比べたときに、健康への影響にはどのような違いが出てくると考えられますか。

殷:いわゆる団塊ジュニア世代、氷河期世代は、終身雇用や充実した年金制度の恩恵を受けておらず、団塊世代と比べても安定した職は得られていませんし、将来の年金給付率もかなり低い数字です。ですから、働き続けたい人の割合は団塊世代よりも増えていると思います。今回の論文で示している個人差や異質性を考慮することの重要性は、今の団塊世代以上にこれからの世代において強く意識する必要があると思います。リタイアの時点からではなく、現役世代の段階からスキル育成などの支援策を行っていかないと、リタイアの時期になったときに大変だと思います。

中田:これからの高齢者のウェルビーイングを高めるための政策変更をいかに行うのかが重要な論点だと思います。退職確率という概念でバリエーションを見て高齢者を分析されていますが、退職するかしないかがその後の健康に良くも悪くも影響を及ぼす1つの要因は、われわれの働き方が画一的という点にあると思います。より柔軟な働き方の選択肢を可能にしなければ高齢者は働けないし、少子化が進行する中で高齢者の労働力を生かさないと、特に日本の大部分を占める中小企業は成り立たなくなると思うのです。その点で今回の分析からどのような働き方改革が望まれると考えられますか。

殷:退職政策自体の変更が個人の健康に与える影響には異質性があるという示唆からすると、働き方の多様化によってまたさらに異質性が生まれると思うので、例えばリモートワークの形を取ることで職場でのストレスが緩和されるかもしれませんし、逆に高齢者は積極的に外で人と交流することでメンタルヘルスに良い影響を与えるかもしれません。こうした仮説は立てられるけれども、今の段階ではエビデンスをもって言えることはないかもしれません。

社会保障制度改正と高齢者雇用の望ましい整合性

中田:私は企業が硬直的な労働投入ではなく、働き方の柔軟性をうまくマネジメントして、効率的に労働というリソースを取り入れていくことを積極的に考えていかなければならないと思います。そうすると、社会保障制度を働き方の変化に合わせていく必要があります。健康保険の負担をこれ以上増やすわけにはいかない中で、働き続けるとネガティブな影響があるというだけでは制度の持続可能性が担保できなくなってしまいます。どうすれば社会保障の効率化と働き方改革をうまくマッチングさせることができるでしょうか。

殷:難しい質問ですが、今回の論文からいえるのは、統一的に強制するのは絶対に良くないということです。段階的で、柔軟で、ゆっくりと進めるやり方がいいと思います。

年金であれば、支給開始年齢を一括的に何歳と設定するよりは、柔軟性を持たせて選択できるようにした方がいいでしょう。法定定年年齢を引き上げることで年金受給開始年齢を引き上げる可能性もあるかもしれませんが、その点はしっかりと検証しないといけませんし、超高齢化が進む日本では老老介護が無視できない課題となっています。自分の親の介護のために就労を継続できない場合もあるので、介護負担を軽減するために介護保険制度の見直しも重要だと思っており、就労と介護を両立できるように修正する必要があると思います。

また医療であれば、日本では労働者は健康診断を義務付けられていますが、それほど安定していない世代、職を得ていない世代に対しては、早い段階で健康状況のフォローを団塊世代よりもしてあげないといけないと思っています。

それから少子化問題も関連していて、中国では50歳とか60歳でリタイアした後、みんな何をするかというと孫の世話をしています。従って、祖父母世代の退職を遅らせると、子ども世代の出産行動にも影響を与えるのです。日本においても従来は祖父母世代が孫の世話を担ってきました。中国ほど顕著ではないものの、祖父母世代の退職が遅れれば、少子化に悪影響を及ぼすことも懸念されます。

高年齢者雇用安定法の在り方について

中田:かつての日本でも、家族や子育てに優しいとされた企業の経営環境として、地方に立地しながら、保育園の送り迎えを祖父母がしてくれるというものがありました。まさに中国と日本を同時に研究する重要性はそこにあって、文化や制度が異なる中で、その違いがもたらす影響を考慮しておくことはとても大事だと思います。

現行の高年齢者雇用安定法をどう考えるかということだと思うのですが、画一的に強制するのは良くないというのはまさにその通りですが、この制度によってメリットを受けている人たちもいると思うのです。働きたい人にとってみれば働くチャンスを得る後押しをしてくれるわけで、そのポジティブな側面に対してどう評価すればいいと思いますか。

殷:高年齢者雇用安定法の改正によって、ほとんどの大企業では60歳以上でも継続雇用できる環境を整えていると思うのですが、それによって働きたい人が働ける機会を与えられているのは良いことだと思います。特に、働き続けることを選んだ人にとっては、働くこと自体が自分にとって得なことであり、利益の選択仮説の原理に基づいて選択した結果であるわけで、法律がサポートしてくれるのは良いことだと思います。改正されていなければ企業は継続雇用の環境を整えていなかったと思うので、今回の論文の政策的な示唆と一致していると思います。

中田:定年年齢を70歳に引き上げることが議論されていますが、団塊世代の人たちはすでに70代になっていて、その子供世代の高齢化が間近に迫っています。また、労働者数という意味では、現在では、20代よりも60代のほうが人数が多い。さて、これらの世代の人たちが今後どう働けるようにするかという議論を安定法の改正議論では進めていますが、雇用延長の議論はもっと加速すべきだと思いますか。

殷:恐らく正解はないと思いますが、日本人の人口構造は崩れつつあり、若者世代が減って高齢者が増えているだけでなく、外国人材の導入やAIの活用なども含めて議論する必要がありますし、健康寿命の延伸によって高齢者の定義が変わってきている中、法定定年年齢を引き上げるのは自然なように思います。

中田:ご研究からいえるのは、引き上げつつも柔軟性をもっと持たせるべきということですね。

殷:もっと早い段階で、健康なままで第2の人生を楽しみたいという人もきっといますので、柔軟性も大切です。

中田:そうした人が8時間働き続けるのではなくて、段階的に労働市場から引退していくのを可能にしなければならないということですね。

殷:そうですね。研究の示唆の1つとしては、ナッジのような誘導型の方がいいのかもしれません。

解説者紹介

殷婷顔写真

殷 婷(研究員(特任)(東洋大学経済学部 准教授))

2004年中国上海対外経済貿易大学外国語学部ビジネス日本語学科卒業、2012年大阪大学経済学研究科経済学博士号(D.Phil.)取得。日本学術振興会特別研究員、帝塚山大学経済学部非常勤講師、2013年4月経済産業研究所研究員、同年5月大阪大学社会経済研究所招へい研究員、2020年4月東京学芸大学特任准教授、2021年4月一橋大学経済研究所准教授等を経て、2025年4月より現職。

インタビュアー紹介

中田大悟顔写真

中田 大悟(上席研究員)