コラム

インサイダー取引の民事責任

黒沼 悦郎
早稲田大学大学院法務研究科教授

インサイダー取引は、未公開情報を知り得る地位にある者(インサイダー)がその情報を知って行う有価証券の取引をいい、範囲に差はあるものの、資本市場を有する法制ではインサイダー取引は刑事罰をもって禁止されている。他方、インサイダー取引の民事責任規定を有する法制は少ない。それは、インサイダー取引を行った者が誰に対しどのような民事責任を負うかという問題は、インサイダー取引の悪性はなにか(なぜ禁止されるのか)という議論と絡み合う難問だからである。いいかえると、インサイダー取引の民事責任を検討することは、インサイダー取引規制の目的を検討することにつながる。以下では、インサイダー取引により誰がどのような損害を被ったといえるのかについて、考えてみたい(各説のネーミングは筆者による)。

開示義務違反説

インサイダーの義務は、情報を開示するか、そうでなければ取引を断念する義務であるといわれている。そこで、インサイダー取引を開示義務違反と捉えると、インサイダーが取引を開始した時点から情報が開示された時点までの間に、インサイダーと対向する取引(インサイダーが買いなら売り取引)をした者が、その時の市場価格と情報が開示されていたら形成されていたであろう価格との差額分の損害を被ったと考えられる。

この考え方は、インサイダー取引を情報の不開示と同様に捉えるものである。インサイダーの義務を開示義務と捉える以上、開示義務の違反と市場で取引をした投資者が被る損害との間に因果関係が認められる。もっとも、インサイダーが発行者に情報の開示を強制できる立場にないときには、インサイダーに開示義務を負わせても意味がないという見方もできよう。開示義務違反説によると、インサイダーが負うべき損害賠償額は、インサイダーの得た利益の額と無関係に決まり、かつ莫大なものになる可能性がある。この点を考慮して、開示義務違反説をとりつつ、責任の総額をインサイダーの利益の額に限定した裁判例が、アメリカにはある。

取引断念義務違反説

インサイダーの義務を取引断念義務と捉えると、インサイダーを相手方として市場で取引をした投資者は、インサイダーがその取引で利益を得た分だけ損失を被っているといえる。相手方のこうした損失は、インサイダーが取引を断念しなかったことから生じたと考えられるので、インサイダーは取引相手に対しその損害を賠償する責任がある。インサイダーの責任額は、それぞれの取引ごとに利得分-取引価格と情報を反映した価格との差額-になろう。

この説に対しては、(1)たまたまインサイダーの相手方となった者だけが賠償を受けられるのは不公平である、(2)インサイダーの相手方となった者もインサイダーの取引によって取引をするよう誘引されたわけではない(インサイダーが取引しなかったならば、他の投資者との間で取引が成立していた)ので、インサイダー取引と損害との間に因果関係を認めがたいといった難点がある。なお、取引断念義務違反説と開示義務違反説は両立しない関係にあると考えられる。

アメリカ連邦証券取引所法は、1988年の改正により、インサイダー取引と同時期に対向する取引をした者に対して、インサイダーは損害賠償責任を負わなければならないとする規定を新設した。ただし、損害賠償額の定めはなく、責任の総額はインサイダーの得た利益または回避した損失の額に限定される。これは取引断念義務違反説の考え方を基礎としつつ、(1)(2)の欠点を補うものと理解できる。

相場変動説

インサイダーの買い取引によって株価が上昇した場合には、インサイダーと同方向の取引をした投資者が、株価の上昇分だけ高い価格を支払わなければならなかった点で損失を被る。インサイダーが取引をしなければこのような価格変動は生じないのであるから、この損失はインサイダーの取引断念義務違反と因果関係のある損害と考えられる。インサイダーの売り取引によって株価が下落した場合には、下落分が損害となる。

この説は、インサイダー取引の悪性を相場操縦と同様に相場を変動させたことに求めるものである。しかし、相場操縦は相場が情報を反映した価格から乖離させる方向に働くのに対し、インサイダー取引は相場が情報を反映した価格に接近させる方向に働くという相違点を無視していると批判することができる。また、インサイダー取引による価格変動がない場合にインサイダーの責任を認めないことも妥当ではない。相場変動説は、開示義務違反説や取引断念義務違反説と両立しないわけではないので、インサイダー取引によって相場が変動した場合の付加的な責任を基礎づけることはできよう。

流動性低下説

インサイダー取引による投資者の損害は、市場で取引をすることで直接的に生じるのではなく、インサイダー取引が市場に対して及ぼす悪影響、すなわち市場に対する投資者の信頼の低下から生じると考えることもできる。特定銘柄の市場に対する投資者の信頼の低下は、当該銘柄の流動性の低下となって現れる。インサイダー取引が行われている銘柄の流動性が低下すれば、当該銘柄の市場価格は下落すると考えられるから、流動性低下説によれば、インサイダー取引が発覚した銘柄の株価の下落分について株主の総体が損害を被ると考えられる。インサイダー取引の発覚によって当該市場の信頼性が一般的に失われ、市場全体の株価が下落した場合には、上場会社の株主全員に対する損害賠償責任が生ずるということになろう。

インサイダー取引から流動性の低下という損害が生じることは理論的には正しく、また、そのことは上記の各説を排除するものではないが、損害賠償制度の実際の運用は難しい。この説によると、インサイダー取引の発覚によって観察できる程度の株価の下落が生じないとインサイダーの責任が認められない反面、観察できる株価の下落があると莫大な額の賠償責任をインサイダーが負担することになってしまう。なお、流動性低下説に依拠して制度を設計するならば、インサイダーに対する損害賠償請求権を発行者に与えるのが簡便であろう。

情報源に対する責任

以上に述べた投資者や市場に対する責任のほかに、インサイダーが情報源に対して民事責任を負う場合が考えられる。インサイダーが情報源に対して信任義務を負う関係にある場合、内部情報の不正利用は通常、信任義務に違反すると考えられるから、信任義務違反に基づく損害賠償責任がインサイダーに生じる。情報源に対し、契約上、秘密保持義務を負うインサイダーがその情報を利用して証券取引を行う場合も、契約上の義務違反に基づく損害賠償責任が生じる余地がある。

2012年11月8日

2012年11月8日掲載

この著者の記事