コラム

008: 委員会等設置会社制度の創設とコーポレート・ガバナンス

中原 裕彦
経済産業省

筆者は、通商産業省産業政策局(現経済産業省経済産業政策局)に在籍中よりコーポレート・ガバナンスの問題に取り組み、平成12年から法務省民事局参事官室に在籍し、局付として委員会等設置会社制度の創設を含む平成14年の商法改正に携わってきた。本稿では、筆者のこうした取組の中において考えたことの一旦を述べることとしたい。なお、本稿は、筆者の個人的見解にすぎないことを予め確認しておきたい。

平成14年商法改正において導入された委員会等設置会社

平成14年は、コーポレート・ガバナンスの観点からは画期的な年であったといえるだろう。これまでは、コーポレート・ガバナンスの問題といえば、「広範な関係者による本質的な議論が必要で、我が国の日本的特色を踏まえた日本型のコーポレート・ガバナンスを確立すべきである」というそれ自体は正しい議論が、その間口の広さ故に具体的な提案を含めて真にこの問題に取り組むことを敢えて先延ばしにする役割を果たしてきた感は否めない。今回、コーポレート・ガバナンスの問題に対して制度改正という観点から1つの成案を得たのである。ソニー、オリックス、東芝、日立等の会社が本制度を採用する予定であるとの報道があったことは記憶に新しい。

今回の委員会等設置会社の提案は米国型であるといわれる。確かに、米国型の制度は大いに参考にされているが、米国の制度を直輸入したものではなく、米国の制度で参考にすべき点を日本型にアレンジしたものである。委員会等設置会社を概観すれば以下の通りである。大会社又はみなし大会社は、定款に委員会等設置会社を選択する旨の定めを置けば委員会等設置会社となることができる。委員会等設置会社においては、社外取締役が過半数を占める監査委員会、指名委員会及び報酬委員会の3委員会及び執行役が置かれることとなり、監査役や代表取締役は置かれない。取締役は、取締役の立場で業務執行を行うことはないほか、会社を代表するのは代表執行役となる。取締役会は、会社の経営の基本方針や内部統制システムについて如何なるものを自社の体制にするかについて決定しなければならない。この内部統制システムが不十分であるときは、その旨が監査報告書に記載され、株主から取締役の再任に関してその評価が問われることとなる。会社の業務執行に係る意思決定のうち、必ず如何なる場合にも取締役会において決議しなければならないとされる事項は監査役設置会社よりも縮小され、執行役に大幅な権限委譲が可能となる。そして、取締役及び執行役の任期は1年となり、会社に対する責任は原則として過失責任とされるほか、利益処分又は損失の処理に関する議案は取締役会における決議事項となる。

このような委員会等設置会社の制度に対して、現在に至って幾つかの誤解があるようなので、それらについてコメントしておきたい。なお、筆者も、このような法制度が整備されれば、それでコーポレート・ガバナンスは万全と考えている訳ではない(もっとも、あらゆる法制度の中で、その存在自体で万全な結果を保証してくれるものを筆者は寡聞にして知らない)ことをお断りしておきたい。

1つ目は、委員会等設置会社においては、社外取締役中心の構成とされているが、社外取締役や株主のような外部の者に会社のことなど分かるはずがないという見解である。この見解は、所有と経営の分離を前提とした株式会社の根本原則に対する理解が足りないように思われる。株式会社の取締役は、株主総会において選任されるとともに、会社に対する善管注意義務・忠実義務を有し、株主に対しては説明責任を負っているのである。「分かるはずがない」として経営を継続していっても、最終的に会社が倒産手続に入り、しかも清算されることとなれば、株主は最も下位の取扱いに置かれることとなる。昨今の不良債権処理の議論の際においても、「まずは株主が相応の負担をすべきだ」との議論があったが、他のステイクホルダーに比して最も責任を取るべき者なのであれば、経営危機が生じる以前に株主の影響力が効果的に働く相応の制度的基盤を設けて置くことが望ましい。これは「exitがある者にはvoiceは要らない」などと単純に割り切れる問題ではない。外部の者は当該会社の事情に精通していないとはいうものの、これらの者の見解を仰ぐことは独善を廃しaccountabilityを高めることができる効果があるほか、好むと否かに拘わらず、こうした外部の関係者には説明しなければならない。

2つ目は、従来型の会社でも委員会や執行役員を設けることは可能なのであって、工夫の仕様はあるのであり、委員会等設置会社は3委員会を必置としたこと等により、会社機関の硬直化を招くのではないかという見解である。しかし、従来型の会社において委員会を設けたとしても任意の諮問機関にすぎない。すなわち、そうした諮問委員会の決定は会社の取締役会の議決あるいは代表取締役の決裁を必ず経なければならず、取締役会あるいは代表取締役は、諮問機関たる委員会の決定を覆すことができる。こうした諮問委員会の委員は株主に対して何らかの法的責任を負っている訳でもない。このように透明性に対するコミットメントという点では、委員会等設置会社における委員会と取締役会において覆されることもあり得ることを前提にした諮問機関とでは決定的に異なる。また、委員会等設置会社における執行役は、実務において導入された従業員の最上位者の色彩の強い執行役員とは異なり、任期、会社に対する責任・義務等について法的な規定が整備されているのである。委員会等設置会社の制度は、取締役会が監督機能を十分に発揮することができるよう、その監督機能のクリティカルな部分については3委員会を中心としたスキームを構成することにより、その透明性を確保しようというものである。3委員会は監督と執行の分離という観点から重要な機能を有するものであり、必置であるが、こうしたクリティカルな点を遵守しさえすれば相当柔軟に会社の体制を構築することができるようになっている。先述した通り、会社の経営について必ず取締役会の議決を経なければならないとされている事項は縮小されるが、会社の業務執行に関する意思決定をどのように執行役に委任するかも会社の自由である。執行役の合議体なるものは法定されていないが、委任するに当たり意思決定のスピードを損なわない真に議論する価値のある執行役数人の合議の上に決定するとさせることも十分に考えられる。また、案件の規模、種類等に応じて、「ここまでは代表執行役の専決で、ここからは執行役A氏と執行役B氏の合議で」のような定め方をすることも十分に可能である。内部統制システムについても、最終的にはそれが実効的なものであったかが株主の評価に付されるという大前提を踏まえた上で、如何なる内部監査部門を設けるか、当該内部監査部門で働く使用人の監査委員会に対する通報体制を如何に構築するか、こうした使用人が人事面で不当な扱いを受けないように如何なる手立てを講じていくかという点についても、監査メソドロジーの進展を踏まえつつ各社の創意工夫の下に実効あるものを構築していくことが期待されている。実際、大会社では、数人の者のみで会社の効率的かつ適正な経営を全て監視するというのは困難で、こうした会社の細部にまで行き届いたシステムを構築することが必要であると考えられる。また、常勤の監査委員会を組織する取締役は必置とはされていないが、当然のことながら、常勤者を置いて運営していくことも十分に考えられる。

3つ目は、監査役を廃止することとされたため、監査機能が落ちるという見解である。しかし、これは規定を見れば直ぐに分かることであるが、監査委員会又は監査委員会を組織する取締役には、今までの監査役と同様の権限、すなわち、調査権、違法行為の差止請求権等が付与されている。監査役は会社の業務執行において適法性の観点から問題となる事象を発見した場合には、取締役会において意見を述べることは出来ても議決権を行使することはできず、当該事象に関連するプロジェクトが可決されてしまえば違法行為の差止請求権を行使するしかなかったが、委員会等設置会社においては、日常的に内部統制システムのサポートの下で問題点を発見し、その解決に努めると同時に、取締役会において議決権を行使し、当該事象に関連するプロジェクトをブロックすることに効果的に働きかけ、ひいては、業務執行者の選解任にまで関与することができるほか、違法行為の差止請求権も行使することができるのである。従って、これまで監査役の方々が積み重ねて来られた監査実務における才やスキルは、委員会等設置会社においても十分に活かすことが出来ると考えられる。監査役実務と敢えて対立的に捉える見解は理解に苦しむとともに、私自身も心を痛めたものである。

4つ目は、取締役と執行役の兼任を認めるとされたこと、取締役会の過半数が社外取締役であることが担保されていないこと等に鑑みれば、監督と執行の分離が不十分ではないかという見解である。確かに、監督と執行の分離を極端に徹底すれば取締役と執行役の兼任を認めないというところに行き着くこととなる。しかし、観念的には美しいのであるが、このような制度設計では実際の経営に関する情報が監督主体に行き渡りにくくなり、却って実効ある監督ができなくなる懸念がある。従って、完全に兼任を禁止することとまではしなかったものである。但し、監査・人事・報酬に関する事項は、監督にとってクリティカルな事項であるので、社外取締役が過半数を占める3委員会において決定させることとしたものである。換言すれば、委員会制度とは、客観性と情報の流通のバランスを取ることを1つの目的としているともいえるだろう。また、確かに、取締役会の過半数を社外取締役とすることは要求されてはいないが、これは我が国では、社外取締役が取締役会の3分の1存在しただけでも相当にインパクトがあるとの事情を踏まえたものである。もっとも、取締役会の構成員自体は、社外取締役が過半数を占める指名委員会で決定されることとなるので、過半数になることもあるであろうし(実際、委員会等設置会社の制度の採用を予定している企業には過半数を予定されているところもあるようであるし、それが最も望ましいと考えられる)、過半数でなくとも残りの構成員については相応の者が選ばれることとなるであろう。また、先述したとおり、監査・人事・報酬という監督機能を効果的に実施するためにクリティカルな事項については、社外取締役が過半数を占める3委員会に最終的な権限を付与しているのである。特に、監査役の候補者は、その人選について監査役会の同意を必要としつつも、必ず取締役会の議決を経なければならないのに比較して、委員会等設置会社では、監督機能を担う取締役の候補者は、社外取締役が過半数を占める指名委員会の専決事項なのである。

いわゆるコーポレート・ガバナンスの議論について

ここで委員会等設置会社の問題と併せて論じられることの多い、いわゆるコーポレート・ガバナンスの議論を避けて通ることは出来ないので、これについてコメントしておきたい。

コーポレート・ガバナンスといえば、いわゆる「会社は誰のものか?」という古典的な問いに対する答えとして議論されることがある。そして、「会社は株主のもの」、すなわちshareholder重視が米国型であり、「会社は従業員のもの」、すなわちstakeholder重視が日本型であるとされる。そして、80年代には、長期的な利益を志向する日本型がもてはやされ、M&Aを中心に短期的利益を志向する米国型は悪しきものであるとの論調があった。そこでは、我が国の持合構造によりモノ言わぬ株主こそが企業の長期的な利益追究を可能にしているのだという暗黙の了解があったのかもしれない。ところが、昨今は、米国経済が相対的に日本より好調であるという経済の趨勢を反映して「米国型」の経営を謳歌する主張が生じてくる。もっとも、過去の成功体験に固執し、過去の日本型経営を再評価すべきだとの声も強い。この問題については如何に考えるべきであろうか。

この類の議論においては、「誰のものか」という問い自体が非常に曖昧であり漠たるものになりがちである。筆者なりの整理を試みてみれば以下の通りである。株式会社と株主総会において選任された取締役との関係は委任の関係に従うこととされるとともに、そのような取締役から構成される取締役会が定めた業務執行者が、会社を代表して従業員と雇用契約を結んでいる。すなわち、株式会社(そして、それを代表する業務執行者)は、取締役との間では委任契約を、従業員との間では雇用契約を、銀行との間では消費貸借契約を、他の会社とは売買契約をといった具合に各種の契約の結節点として機能しているのである。この事実は、日本の株式会社であろうと米国の株式会社であろうと異なるところはない。これらの各種契約の作用・反作用により結節点たる会社における生産活動がなされていくのである。各種の契約において、あらゆる事象を予想して契約に明文化するということは出来ない以上、いかなる契約にもコストが発生することは疑いがないのであるが、最終的なリスク負担者であり剰余権者である株主に当該コストが最も大きく発生する蓋然性が高いのであって、その意味から株主と会社との関係がコーポレート・ガバナンスの問題として最も大きくクローズ・アップされる。

このようなフレームワークにより眺めれば、会社は「株主のものである」とか、「否、日本では従業員のものである」という議論をしてみても虚しく、会社はこれらの各種の契約の結節点であるという点においては、日本の会社も米国の会社も「株主のもの」であり、「従業員のもの」でもある。そして、新たな委任契約が何回も締結し直され、取締役が新たに選任し直され、それに従って会社を代表する業務執行者が新たに選任し直されるとともに、業務執行者の頻繁な変更に伴って雇用契約が頻繁に締結し直される会社のことを「米国型」と呼び、こうした委任契約や雇用契約の変更が生じにくい会社のことを「日本型」と呼んでいるのである。こうした各種の契約の結節点である会社がどのように機能するかは、それぞれ各種の契約の内容、すなわち、委任契約のあり方(すなわち、資本市場)、雇用契約のあり方(すなわち、労働市場)、消費貸借契約のあり方(すなわち、金融市場)によるのであり、まさしく、これらが制度補完的に構成されているのである。我が国では、「従業員によるガバナンスが機能するので、株主によるガバナンスは不要である」との主張がなされることもあるが、従業員によるガバナンスが機能する前提としては、業務執行者がprivate benefitを追求するようなプロジェクトを継続すれば、最終的には資本市場から見放され、ひいては従業員の利益にもならないという事実があるからであり、資本市場と労働市場は相互に補完的に機能しているのである。

「日本型」がかつて賛辞されたのは、こうした「日本型」を構築している市場のアレンジメントが、独創的な発見の妙により強みを発揮するものというよりは、「ここの部分をちょっとだけ加工すれば品質がこんなに変わる」と言うような改善・改良型のスタイルが強みを有する産業とマッチし、これらの産業が国際的に比較優位を有することとなったためではないだろうか。会社を結節点とする各種の契約の内容に変更が生じにくい以上、長期的なスパンで物事を考えやすくなるとも考えられるからである。しかし、昨今は、このような改善・改良スタイルによる技術が飽和状態に達した産業が現出し、独創力・発見の妙や消費者のニーズを如何に迅速かつ低コストで実現できることが優位を有する産業が出てくることが求められており、こうした産業には我が国のかつての市場のアレンジメントが適合的ではない場合もあるのではないか。つまるところこの問題は、製造業の例でいえば、ある産業の生み出す製品のアーキテクチャー(「組合せ型」か「摺り合わせ型」か)と当該産業の属するアレンジメントがマッチするかということであり、これらがマッチした時に最良のシステムが生まれるということなのではないだろうか。すなわち、「米国型」か「日本型」かという問題は、どちらが優れているとか、優れていないという問題ではなく、産業に要求される競争力を生み出すこととなる製品のアーキテクチャーと当該産業の属する市場のアレンジメントがマッチするか否かという問題であると思われる。そして、未だ旧来型の「摺り合わせ型」アーキテクチャーが競争力を有する産業の者は「日本型経営は素晴らしい、会社は従業員のものである」と主張し、新しい「組合せ型」を志向しなければならない産業に属する者は「米国型こそ理想だ」と主張することとなる。従って、望ましいコーポレート・ガバナンスの姿とは、容易なことではないが、業態にふさわしいアレンジメントを形成していくことであると考えられる。

委員会等設置会社のコーポレート・ガバナンスの議論における意義

さて、このように望ましいコーポレート・ガバナンスの姿は、業種の状況に即してふさわしいものを追求していくべきものであるとすれば、企業法制は如何なる役割を担うべきなのであろうか。

これに対しては、上記のような分析を踏まえて、最良のシステムは地域毎に、あるいは当事者毎に異なるのであるから、制度で一律のものを強制すべきではなく、制度は可能な限り任意規定化すべきであるとの主張も想定される。例えば、社外取締役は株主総会で選任することが禁止されている訳ではない、従って、大部分は、定款自治を通じた当事者の調整に委ねるべきであるとの議論である。一見、昨今の規制緩和の風潮に合致した主張であるかのように思えるが、この議論は当を得ていないように思われる。すなわち、当事者の調整に委ねると言っても、情報の非対称性の問題やtransaction cost の存在を踏まえる必要がある。株主こそ重要だ、株主の当事者がそれぞれ自らに望ましい仕組みを自主的に作るはずだと言うが、そのような制度を自主的に構築するコストとの兼ね合いで考えなければならず、collective actionの問題を避けて通ることはできない。また、コーポレート・ガバナンスの観点から「良い」提案をした企業に資金は集まるから、結局は当事者自治に委ねれば良いのだという主張があるが、投資家にとって、そもそも「良い」提案をしている企業を探すコストも掛かる上に、情報の非対称性を前提にすれば、最終的には殆どの企業が株主の利益の観点からは「悪い」提案をする状況に陥る蓋然性がある。すなわち、全ての企業にとって、「良い」提案をして得られる利益よりもprivate benefitを追求した方が得になる場合というのは十分に均衡として支持され得るということである。このような事態を防止するためには、一定程度までは、法が当事者間の調整に対して外性的に介入していく必要があるものと考える。それ故に、経営管理機構に対する規定を商法等の制度の中に置く意味があるのであり、諸外国においても経営管理機構に係る規定について改善のためのさまざまな努力がされてきたし、現在もされている理由なのである。当事者自治に委ねておけば最良のシステムが生まれるはずだという主張は、naiveなものであり、むしろ、これらの情報の非対称性の問題やtransaction costの存在を考えながら、如何に制度設計を行うべきかを考えるべきなのである。この意味において、今回の改正において、従来型会社との選択制との条件の下、委員会等設置会社を1つの制度体系として提示したのは極めて妥当なものであると考えられる。

委員会等設置会社の形態は、上述の文脈で言えば、独創力・発見の妙や消費者のニーズを如何に迅速かつ低コストで実現できることが優位を有する産業においては、これまでの現状からより望ましいアレンジメントへの移行を促進させることが期待できると思われる。更に言えば、「摺り合わせ型」産業においても有効な機能を果たすことが期待されていると考えられる。一般に、制度の上で、株主のagency costを出来る限り低減させようという試み自体は、「日本型」を志向する場合であれ、「米国型」を志向する場合であれ、強く求められているものであり、これを頭から「会社のことを分かるはずもない株主の暴力を助長する」と決めつける論調は失当である。もちろん、「摺り合わせ型」産業において頻繁に業務執行者が変更され、従業員のリストラも頻繁になされるというようなことが起これば、当該産業の競争力が失われる可能性もないわけではないことは理解できる。しかし、このようなことを防止し、企業家が長期的経営を志向することは、株主に対してagency costが発生しやすい法制度を敢えて提供することにより確保するものではないのではないだろうか。「株主の皆さん、制度上敢えて皆さんのための利益を確保するための実効ある監督者を置かず、皆さんの手を縛っておいた方が却って皆さんの為になりますよ」というメッセージを株主に対して送ることによって長期的利益を確保すべきであるとは到底思えないのである。株主のagency costを出来る限り低減させようという試みの中で生まれた制度の中で、「緊張感」をもって長期的経営を確保する経営戦略が構築されることにより、当該経営戦略も磨かれていくべきではないだろうか。そうでなければ長期的利益を追求するという名の下に効率性が犠牲となってしまう。また、別の角度から眺めれば以下のようにもいえる。このような「緊張感」が無いときには誤った長期的な経営戦略の名の下に現状に拘泥し続けることも大いにあり得る。長期的な経営戦略は従業員の雇用を守るものであると説かれるが、それは同時に「従業員を大切にする」というメッセージの下に、従業員に対して当該企業特殊的なスキルのみを身に付けさせるという結果を生じさせることとなる。そして、当該会社の経営が芳しく無い状態に陥った時に「長期間」に亘って当該企業の特殊的なスキルのみを身に付けてきた従業員の面倒を当該会社は見ることはできないのである。このような結果は真に従業員を大切にしているとはいえないのではないだろうか。

結語

このような「緊張感」の中で経営戦略が構築されていくべきものであるとすれば、「我が国にとって望ましいコーポレート・ガバナンスのあり方」という問いに対しては、制度は整備されたが、実務的に関係者の間で議論すべきことが多いことは言を待たないであろうと思われる。数年後に、あの時に徹底的に議論したので今日の好況があると言えるようになっていることを祈りたいし、筆者自身も研鑽を積んでいくことを決意して、筆を置くこととしたい。

2003年5月30日

2003年5月30日掲載

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