コラム

006: コーポレート・ガバナンスに関する考察

宮内 義彦
日本取締役協会会長

「なぜ社会の中で企業が存在するか」。つまり、「企業は社会に対してどういう機能を果たさなければならないか」を考えてみよう。

いろいろな見方があると思うが、端的に『企業の機能』というものを考えてみると、社会が企業の存在を許容しているのは、「企業が社会の中にある有限の資源を最も効率的に利用して富を社会に提供する」というような機能を果たすからではないだろうか。つまり、効率的でなければ、別に企業というものではなくてもいいわけである。企業は「有限な資源を最も効率的に利用して、富の創造という形で社会に役立てる」ができるからこそ、その存在が社会の中で許されているのではないだろうか。

だとすれば、「そのような機能」を持っている企業のガバナンスをどのような形で保証するか、つまり、「企業が最も効率的に、すなわち、競争に勝ちながら、与えられた経営資源を組み立てて社会に富を作り続けていく、これを継続的に保証する組織としての企業統治をどうするか」というのがコーポレートガバナンスの問題である、といい換えることができよう。

次に企業活動において、『資本』が最も根本的なものであるとするならば、「資本主義のもとにおける企業統治というものは、資本の効率性を軸として成り立つ」のではないかと思える。グローバル化が進んだ現在、資本主義の下で企業活動が行われる限り、会計原則あるいは取引の原則に一種の国際的な整合性が求めらるわけで、そういった観点からは、企業統治の非常に基本的な部分については、国際的にある意味統一されたものとなり得るだろう。つまり、企業活動の執行するマネジメントに対して、執行を監督するという立場で統治機構がつくられる、という仕組みは変わらない気がするのである。それを各国がどのような形で取り込むかという点においては各国の固有の文化、商法、商慣習等によって若干の違いはあるものの、基本的な考え方としては1つだと思う。

そうした意味では、例えば、『取締役会の役割』、その中における『独立取締役の役割』といったものは、企業統治の中でかなり普遍性を持ったものとして存在するといえるだろう。しかし、独立取締役が過半数でなければならないのかという議論になると、実は過半数でなくてもいいという議論も十分成り立つ。例えば、日本の文化で考えると、過半数が独立取締役でなくても、非常に尊敬されるような人が独立取締役として1名いるだけで、企業統治の実を上げることは十分可能ではないかとも思われる。つまり具体的な組織のあり方については、それぞれの国の事情によって相当の変化があった方がコーポレート・ガバナンスというシステムを取り込みやすくなるともいえる。あまりにもがっちりとした骨組みを世界で一致して持ち込むべきだという議論にはなかなか与しにくいところがある。

日本の場合は、企業統治というものがここ10年足らずの間に持ち込まれ、発展途上にある状況であるので、漸進的に動いて徐々に日本型のものを作り上げていく過程にあるように思えるが、その動きが3年間、5年間、10年間と積み重なってくると、地盤そのものが大きく動くことになる。そういったことが今日の日本で起こっているわけである。

しかしながら、現在の日本型の企業統治のあり方は、「こういうものです」という1つのモデルを提供するところまでには至っていない。大部分の企業経営者にとって、新しい概念である『企業統治』というものは、余りおもしろくないものであり、自分のやりたいことに対して監督あるいはチェックされることには非常に抵抗がある、ということで、嫌々取り上げられつつあるというのが現状であるといえよう。

企業統治は必要なものであり経営者としてそれにはどうしても取り組まなければならないというかたちに持っていくには、日本の現在の流れの中で1つ欠けているものがあると思う。それは、「株主の圧力がマネジメントに余りかかってきていない」ということである。つまり、日本の機関投資家が投資をする際の判断基準として企業統治を重視する、または、投資の安全性を確保するための「よすが」にしていく、というところことになっていないのである。企業統治については企業経営者が少しずつではあるが取り組み始めているという状況であるので、機関投資家を始めとする投資家が企業統治について、もっと強い認識を示してくれれば、日本の企業統治の実態は、飛躍的に進んでいく可能性があるのではないかと私は考えている。

2003年3月3日

2003年3月3日掲載

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