コラム

004: 法律、金融、そして経済面でのパフォーマンス:最近の動向が日本にとって何を意味するか

コリン・メイヤー
オックスフォード大学サイード・ビジネス・スクール教授

法律や金融を専門とする学者たちの間では、「投資者保護が、金融の発展と経済成長の鍵を握る」という考え方が主流となっており、それはまた、政策提言として強い影響力を持つ。各国政府のみならず、OECDや世界銀行といった国際機関でも、こういった考え方が前面に出てくるようになった。

この主張の根拠になっているのが、「投資家保護をしないと、少数投資家が企業の資金調達に参加しなくなる」という考え方である。適切な保護をしない限り、少数投資家は大口株主の私利私欲の犠牲になり、市場が大口株主に支配されかねない。外部投資家が参入しにくくなり、金融システムの発展も阻害される。企業や業界のなかには外部資金調達を頼りにしているものも存在しているが、そういった企業や業界の成長が妨げられ、経済の発展にも翳りが出てくることになる。

かくして、「投資家保護を強化せよ、そうすれば金融はおのずから発展する。それによって外部資金調達が促進され、経済成長に拍車がかかるはずだ」といった歯に衣着せない政策提言となる。

様々な形で、投資家保護が強調されている。信用秩序の(プルデンシャル)監督による銀行規制と預金者保護が特に重要とされる。年金基金、生命保険会社、ミューチュアル・ファンドといったノンバンクに対する健全な規制も提言されている。債権者保護及び、債権者の権利と優先権を保全できるような倒産手続の確立という形で、投資家保護が強調されることもある。さらに株主の権利にも触れ、株主には企業の方針を票決し、経営陣を解任し、不正を告発する権利がある、としている。

金融市場において、規制を正当化する失敗例を探すのはたやすい。ただでさえ、金融市場には不正確な情報が流れやすく、それがもとで投資家は不正販売、不当な価格、取引遂行の不備などに泣かされることが多いのだ。さらに深刻なことに、投資家が詐欺に遭うリスクも高い。金融市場では、他のどんな市場にも見られないほど詐欺がはびこっているが、これは詐欺の実行が容易で発覚しにくいうえ、たとえ詐欺行為の存在が明るみに出てもうまく起訴に持ち込むことが不可能に近いからである。そのうえ、個々の投資家ばかりでなく金融システムにも及びそうな脅威を理由に、規制が容易に正当化される可能性もある。

「投資家保護に勝るものなし」という論調が、最近の金融市場政策提言の大半にあふれている。たとえば、金融不正に対する反応としてアメリカでは、会計基準を強化し、取締役の受託者責任を重くし、コーポレート・ガバナンスの失敗に対する罰則を強化し、内部告発を奨励する法律が制定された。利害の衝突は、種類の異なる企業活動――たとえば分析業務とブローカー業務――間の障壁を高くすれば最小限に抑えられるはずだ。

この方針が他のどこよりも顕著に見られるのが、ヨーロッパのコーポレート・ガバナンスと企業買収という局面である。コーポレート・コントロールの市場が存在しないことが、ヨーロッパ資本市場の重大な欠陥であり、ヨーロッパの企業システムに蔓延する、所有とコントロールという旧態依然たるシステムの反映だと見なされてきた。公正な競争の場がないことが、ヨーロッパ企業の再構築を妨げる要因だと見られている。統合ヨーロッパ金融市場を作り上げるにはコーポレート・コントロール市場の障壁撤廃が不可欠な要件だ、というのが欧州委員会の考えである。

こういう提言の影にどんな目標があるか、論じるのは難しい。コーポレート・ガバナンスを強化する、これまで以上の注意基準を義務化する、金融サービスにおける国際的な取引を促進する、もっと公正な競争の場で企業買収を行なう、これらは全て、非の打ちどころがないほど立派な提言だ。これを実施すれば金融の効率が上がり、投資家が負うリスクは減り、経営陣の監視の目も行き届き、さらに競争が促進される。規制基準の引き上げを求める声は、政界でも経済界でも高い。

しかし、こういう方針には犠牲がつきものだ。規制には反対論も多く、その矛先が特に規制当局の説明責任、規制にかかる直接的・間接的コスト、公的保険供給に関わるモラル・ハザードの問題に向けられている。

もっとも、私がここで強調しておきたい懸念がもう一つある。特に金融部門にあてはまる懸念だ。金融システムの第一義の機能は、預金者から企業への資金のチャネル役を務めることである。私たちが金融機関に仲介役を頼む理由は、経営者に企業経営を任せる理由と似ている――自分でやるより彼らに任せた方が安上がりだし、多くの場合、結果も良好だからだ。いくつもある投資対象のうち、どれに比較的メリットがあるか評価するのに必要な情報や専門知識を、私たちが入手しようと思うと随分高くつく。特に、ポートフォリオ分散投資と投資家の預金を集団投資にプールすることについては、侮りがたい規模の経済、範囲・展望の経済が存在するのだ。先述の通り、規制が正当化される要因は、こういう集団が投資家に押しつける詐欺、過失、機能不全なのである。

だが、こういう規制のコストを負担するのは預金者と金融機関だけではない。資本を使う側、即ち企業もこのコストを負担させられる。成長と投資を促進するという金融システムの重要性は、今やすっかり確立されている。しかし、そのプロセスにおいて種類の異なる金融機関がそれぞれどんな役割を果たすかについては、いまだによく認識されていない。私たちはようやく、株式市場と銀行とでは果たす機能が異なること、さらに企業の投資行動において証券市場からの資金調達と銀行借入のどちらが重視されるか、といった点を理解しはじめたところだ。一つだけはっきりわかっているのは、最も定評のある金融理論であるモジリアーニ=ミラーの定理――他の条件が同じなら、企業は別の資金調達手段に目を向けるべきではない、と説く――にもかかわらず、企業の資金調達方法には実に様々な形態があるということだ。

こういう資金調達方法は、国によって、時代によって、国内の活動によって大きく異なる。私に概略できるのは、この点だけだ。コーポレート・セクターで国によって異なる点の最たるものは、企業の所有とコントロールである。所有の集中レベルは、イギリスやアメリカに見られる高度な分散システムと、大陸ヨーロッパや日本を含む極東に見られる高度な集中システムまで様々だ。「依頼人と代理人の関係」理論から割りだされることだが、分散型所有に関するコーポレート・ガバナンスの問題は、集中型所有に関するコーポレート・ガバナンスの問題と大きく異なる。従って、投資家の預金を保護する存在としての金融機関が、自社の企業投資行動を監視するのに果たす役割は、国によってかなり変わってくるのだ。

この点が最も顕著なのは、経済面から見た先進国と新興国との違いである。経済的に発展途上にある国や先進国への移行途上にある国と先進国とでは、企業の財務ニーズ、コーポレート・ガバナンスのニーズが大きく異なる。たとえば、資金調達にあたって銀行と金融市場のどちらが重視されるかは、経済主体である国によってまちまちなのだ。

同様にある一国の中においても、小企業の金融・ガバナンス要件は、大企業の金融・ガバナンス要件とは大きく異なり、ハイテク企業の金融・ガバナンス要件は、従来型の製造業・サービス業の金融・ガバナンス要件とは大きく異なる。たとえば、ベンチャー・キャピタルが登場したのは、起業しようとする企業や発展途上にある企業に特有の金融・ガバナンス要件を満たすためだった。ベンチャー・キャピタルの機能は他のミューチュアル・ファンドとは大きく異なり、銀行やビジネス・エンジェルの機能はベンチャー・キャピタルと大きく異なる。さらに、ベンチャー・キャピタル企業による資金調達についても、イギリスやアメリカと日本との間には大きな違いがあることがわかった。イギリスやアメリカと違って、日本では年金基金や生命保険会社よりも銀行への依存度が高いのである。

これが示唆するのは、企業のニーズが国によって、時代によって、また活動によってかなり変わってくるということだ。金融機関ならびに金融システムの異質性が、こういうニーズを反映している。それでも、より重要な問題は残る。こういうニーズが予期せぬ変化を遂げることがある、という点だ。30年前、私たちはベンチャー・キャピタルがここまで成長すると予測できただろうか。企業活動におけるデリバティブの重要性についても、過小評価していたはずだ。私たちはようやく、コーポレート・ファイナンスにおける証券化の妥当性を認識し始めたばかりである。

コーポレート・ファイナンスの多様性と変革が重要だという局面において規制が引き起こす最大の懸念は、コーポレート・ファイナンスが否応なく画一化するのではないかという点だ。金融規制の焦点は、適切かつ当を得た業務内容規則及び支払い能力要件である。その要件によって、業務遂行を許されるのは誰か、どのように業務を遂行すべきか、業務遂行者にはどの程度の資本保有が義務づけられるかについての制限が加えられる。恣意的な、或いは不公平な業務遂行だという非難を避けるため、規制当局はあらかじめ定められ、明確に定義された規則に基づいて規制を実施するしかない。ほんの些細な変則があっただけでも、規制は運用不能・執行不能に陥る。それで明らかになったのは、たとえば顧客の資産の一部を取り分けてそれを特定の機関に投資することを企業に義務づける業務内容規則である。

従って、ここでの中心的テーマは、金融規制のリスクの中で最も深刻なのは投資家や金融機関が負うコストではなく、企業や経済全般にもたらされる影響なのではないか、という点である。規制によって、金融機関と金融システムの多様性と変革が阻害される。この点が特に懸念されるのが、国際レベルでの規制に関してである。規制当局にはもともと調和を偏重する傾向がある。調和の方がほころびが少なく、「行くところまで行ってしまう」危険を避けられるだけでなく、ある体制での最優良事例を他の体制にも無理やり適用することができるからだ。

ここにこそ、問題の核心がある。最優良事例については、調和よりむしろ規制の中に、ある思い込みが存在するのだ。取引を行なうのにも、顧客の資金を保管するのにも、投資銀行と商業銀行とを分離するのにも最良の方法がある。こういう最優良事例を採用すれば、金融システムの質が高まる。

しかし、別の見解もある。最優良事例は、国、時代、活動によって異なるという見解だ。経済主体である一つの国に最適な方法が、他国でも最適とは限らない。ある企業に最適な方法が、他の企業でも最適とは限らない。この見解に従えば、規制によって勝者が選ばれてはならない、ということになる。規制は、自ら勝者を見つけるよう市場に促し、最優良事例のフロンティアを提示すべきだ。金融機関の業務遂行への干渉は、最小限に留める必要がある。市場の代行をするのではなく、市場機能を高めなければならない。

過去6年にわたる日本の金融市場再編は、まさしくこれを実現するためのものだった。市場機能を高めるのに不可欠なのは、情報の供給である。周知の通り、金融市場最大の失敗は情報の非対称性だし、これも周知の通り、昔から日本の金融市場に最も欠けている要素が透明性なのだ。投資家には、投資の判断材料となる情報を知らせなければならない。企業が採っている保護システムや業務遂行システム、さらにその企業がどの程度の資本を保有しているか知らせなければならない。自分が負うリスクの査定能力を、投資家に与える必要もある。だがそのリスクが、規制当局のどこかのオフィスで規定された類いのものであっては困るのだ。

アメリカの金融規制は昔から、ヨーロッパや極東の金融市場に見られる公的機関が担当するシステムではなく、「民間委託システム」に重きを置いてきた。民間委託では、業務内容規則や補償基金よりも、情報開示、民間保険、監査が強調される。これによって市場の代行をするのではなく、市場機能を高めるのだ。最近、民間委託が脆弱さをはらんでいることを如実に示す事例が相次いだ。買い手責任持ちのみならず、正確な情報、嘘をつかない監査役あってこその民間委託なのである。過去1年の間に私たちが見てきたような失敗が起こると、民間委託は特に脆弱さを露呈する。少なくとも表面上は、公的機関が担当するシステムの方が投資家保護が行き届くように見える。しかし代替策は、公的機関が担当するシステムによる均一性を押しつけることではなく、情報開示、監査、民間保険を強化することなのだ。

つまり私は、金融規制の必要性を論じているのでも、システム・リスクという局面における規制の重要性を否定しているのでもない。それどころか、金融市場に悪影響を及ぼしかねない失敗が起こったらどんなに大変か、よく認識しているのだ。特に日本の場合、銀行再編と不良債権の処理が、金融部門のさらなる発展の必要条件である。

しかし私は、規制に救いを求めるという昨今の風潮には警鐘を鳴らしてきた。こういう風潮を助長しているのが、投資家保護の強化が経済面でのパフォーマンスの向上に直結するという一連の学説である。こういった考え方は単に間違っているだけではなく、「どんな規制でもないよりはまし」「規制の数が増えるほど、規制の水準が上がる」と考えるような場合には、深刻なダメージを与える可能性がある。

むしろ、私は、金融市場の失敗が本当はどこから来るのか慎重に考え、そこを狙い撃ちした規制を実施して、市場機能の代行ではなく促進を行なうべき、という点をサジェストしているのである。そのためには情報開示と透明性の向上をセットにして実施するしかなく、その実現にことさら注意を集中すべきだというのが、私の主張である。

2003年1月23日

2003年1月23日掲載

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