青木昌彦先生追悼シンポジウム

移りゆく30年:比較制度分析からみた日本の針路(議事概要)

イベント概要

  • 日時:2015年10月6日(火)
       シンポジウム 15:30-17:45(受付開始15:00)
       交流会 18:00-19:30(受付開始17:45 ※交流会のみのご参加も可能です)
  • 会場:イイノホール&カンファレンスセンター (シンポジウム:Room A 交流会:Room B) (東京都千代田区内幸町2丁目1-1)
  • 去る7月15日、RIETIの初代所長を務められた青木昌彦先生が永眠された。先生は「比較制度分析」という研究領域を開拓された日本を代表する経済学者であり、日本の経済システム、コーポレートガバナンスなどについて優れた理論研究に取り組まれた。その成果は、企業に関連する諸制度の改革など、現実の経済政策形成にも大きな影響を与えている。ご逝去を悼み、RIETIの基礎を築かれた青木先生の業績について、コーポレートガバナンスや経済の構造改革といったテーマに焦点を当てて報告を行い、移り行く30年、40年の長期的な視野に立って日本経済の進路を展望し、ディスカッションを行った。

    議事概要

    開会挨拶

    藤田 昌久 (RIETI所長・CRO/甲南大学特別客員教授/京都大学経済研究所特任教授)

    青木昌彦先生には、2001年から2004年までの3年間、初代所長としてRIETIの基礎を築いていただいた。その基本線は、第1に、RIETIは官民学の知恵を持ち寄り、その多様な知恵のインタラクションや新結合によって、日本経済の中長期の改革に関する斬新な政策提言が起こる場をつくることである。この目的のため、RIETIは非公務員型の独立行政法人となることを選択し、官民学から多くの新進気鋭の研究者や外部からの専門スタッフを集めることが可能となった。

    第2に、RIETIの研究成果は、個人の責任の下に個人名で発表することである。そして第3は、RIETIでは所長が一枚看板になってはいけないということであった。この最後の点に関しては、青木所長時代にもっとも守られなかった、あるいは守りようがなかったといえるであろう。ご自身が大スターの学者であると同時に、大変明るく人間味あふれる青木先生のまわりには、いつも磁石に引きつけられるように新進気鋭の学者がたくさん集まった。そのいわば青木門下から、多くの優秀な研究者が排出されてきたことは、皆様もご存知のとおりである。

    講演「青木昌彦教授の人と業績:From Decentralized Planning Procedure through Theory of Firms to Comparative Economic Systems」

    鈴村 興太郎 (早稲田大学名誉教授・栄誉フェロー/一橋大学名誉教授/日本学士院会員)

    青木昌彦氏は、日本(京都大学経済研究所)およびアメリカ(スタンフォード大学)を中心として、国際的な経済学研究者として瞠目すべき成果を挙げるとともに、日本経済学会会長、エコノメトリック・ソサエティのフェロー、国際経済学連合の会長として、世界の経済学会で指導的な役割を担ってこられた卓越した経済学者である。

    こうした華麗な経歴をみるだけでは、青木氏が辿った巡礼の旅の意義は理解できないかもしれない。彼は1960年安保闘争時の共産主義者同盟(ブント)の創設者であり、全学連の情報宣伝部長を務めた姫岡怜治から「戦線逃亡」(青木氏の表現)するとともに、マルクス経済学の研究に背を向けてアメリカに留学して、近代経済学の研究に転進した。青木氏の『私の履歴書』(日本経済新聞2007年10月)には、彼を駆り立てたスピリットは、社会問題の国際的な関連への飽くなき関心に根差して、発見した問題に徹底してコミットするため引き籠りを辞さないが、その模索の先に新たな光を見いだせば、確立した成果に安住せずに、研究体制をリセットするというサイクルを、懲りずに繰り返すベンチャー精神にあったことが活写されている。この個性的なスピリットを結晶化させた青木経済学の到達点こそ、経済制度や政治制度、社会規範や文化などが一体化した制度様式が形として多様である理由はなにか、そしてその底流にある普遍的な原理はなにかを考える比較制度分析だったのである。

    留学したミネソタ大学では、ケネス・アロー、レオニード・ハーヴィッツの画期的論文「資源配分における計算と分権化」から啓示を得て、組織と計画の経済学の研究に専念して、博士論文を完成させた。この研究は『組織と計画の経済理論』(岩波書店、1971年)として出版されて、日本の若い経済学研究者に衝撃的な影響を及ぼした。その後、アローの招聘を受けてスタンフォード大学に赴任して、ハンガリー人の経済学者ヤノシュ・コルナイとの親交を結ぶことになった。

    組織と計画の経済学の研究過程で、青木氏はアロー=ハーヴィッツの理論が前提した古典的な経済環境を脱して非古典的な経済環境―外部性や収穫逓増を認める環境―に研究を拡大して、資源配分の効率性と情報利用の効率性をもつ数量メカニズムの設計に成功して、高い評価を確立した。その後、青木氏は、数量メカニズムを制度化する有力な仕組みは企業であることに注目して、ロナルド・コーズの取引費用論を新たに展開した。さらに青木氏は、企業内の情報処理において企業の従業員が重要な役割を果たすことに注目して、企業を物的資本と人的資本の所有者の協力ゲームと把握する斬新な理論を展開した。この考え方は、コーポレート・ガバナンスのステークホルダー的な視点の理論的基礎となって、多様なコーポレート・ガバナンスを比較する理論の展開に、先駆者的な役割を果たした。

    制度論に対する青木氏の貢献の中核には、ダグラス・ノースに代表される新制度学派の「ルールとしての制度論」と対立して、制度の本質は社会ゲームの均衡の要約表現にあるという青木氏の代替的な制度論がある。この基礎を踏まえて青木氏は、制度様式が形として多様である理由と、その底流にある普遍的な原理を追求する比較制度分析に大きな歩を進めたのである。

    青木氏の最初の著作『組織と計画の経済理論』を、理論・計量経済学会―現在の日本経済学会―の機関誌 The Economic Studies Quarterly ―現在の The Japanese Economic Review ―に書評したことが、青木氏と私の40年以上にわたる交流の最初の機縁となった。その後私は京都大学経済研究所に移籍して、10年間を青木氏の同僚として過ごすことになった。最初の出勤日に、機動隊と全学連の激闘のなかで京大正門が焼失したこと、私がLSE講師として在英中に森嶋通夫教授の自宅を青木氏と訪れて、両者が優るとも劣らぬ超タイガース・ファンであることを発見したこと、私が帰国した後に経済学の理論的な話題をオフィスで議論していた際に、2人の東男(あずま・おとこ)の口調の激しさに驚いて、京女(きょう・おんな)の秘書がすっ飛んできたことは、いまでは懐かしい思い出になってしまった。

    2015年3月のこと、ケネス・アロー、青木昌彦、雨宮 健の諸教授とお会いするために、私は久しぶりにスタンフォード大学を訪れた。青木ご夫妻と最後の晩餐を囲んだ次の朝に発って中国に向かった青木氏は、訪問した地で深刻な病に囚われて、帰国後にスタンフォード大学で最高の手術と懇切な治療を受けた甲斐もなく、静かに永眠された。享年77歳の偉大な研究者人生だった。

    青木氏の知的遺産の継承を誓って、ご冥福をお祈りしたい。

    パネルディスカッション

    パネリスト兼モデレータ

    鶴 光太郎 (RIETIプログラムディレクター・ファカルティフェロー/慶応義塾大学大学院商学研究科教授)

    1990年代半ばから後半にかけて、OECD事務局在籍中を含め、青木先生の著書『比較制度分析に向けて』が生まれる過程をリアルタイムで観察する機会を得た。新しいコンセプトを次々と生み出し、枠組みや内容がどんどん変わっていく様子を見て、人間はここまで進化できるのかと感銘を受けたものである。

    青木先生の比較制度分析の出発点は、法律ではなく人間の行動パターンが「ゲームの均衡」という形で規律になるという考え方である。たとえば、エスカレーターで先を急ぐ人のために左右どちら側を空けるかを見ればわかるように、人間の行動パターンは、東京、大阪など地方によって異なる。制度は、安定的かつ自己拘束的であり、「お上」が勝手に決めたものではなく自然発生的に生まれるものである。その「草の根主義」的な考え方が、青木先生の思考の根底にあるように感じている。

    また、制度は同じ枠組み(ゲーム)の下でも複数存在し得る。制度は多様性であり得る(ナッシュ均衡が存在)し、どれが選ばれるかは歴史的な偶然(歴史的経路依存性)で決まる。ここにも、ダイバーシティの尊重や、世界の中で異なる文化や制度があってもいいという深い理解があったと思う。こうした基本的な考え方も、制度分析の出発点にあると私は解釈している。制度と制度の間の補完性(「制度的補完性」)の存在も、比較制度分析の重要なパートである。「システム全体はパズル絵のように1つ1つのピースを独立にかえることはできない」という認識が重要だと思っている。

    青木先生は、新たな「知的ベンチャー」にかかわっていた途中であった。それは、NIRAプロジェクト「移り行く日本の経済・人口・対中関係:制度・歴史・比較のレンズを通して将来を考える」である。今春、その研究会でご一緒したのが、最後にお会いする機会となった。女性や外国人、地方の問題を解決するための共通する枠組みは「多様性」の中での「新結合」であり、それらを生み出す仕組みをいかに作るかが大きな課題である。私自身、今後5年間のテーマとして、「移り行く30年の下での雇用システム―何が変わり何が変わらなかったのか、そしてどこへ行くのか」を考えてみたい。


    宮島 英昭 (RIETIファカルティフェロー/早稲田大学商学学術院教授・早稲田大学高等研究所所長)

    RIETIでは、青木先生が主宰されたコーポレートガバナンスの研究チームのリーダーを務め、企業統治にかかわる編著を出版する機会を得た。ここでは、企業統治をめぐる領域の青木先生の功績と今後の展望についてお話ししたい。

    メインバンク関係の様式化・理論化には、青木先生の大きな貢献がある。メインバンクシステムの下では、銀行の企業に対する関与には、3つの領域があり、企業の収益に応じて銀行の介入はことなるというモデルを設定した。私自身もこの理論に大きな影響を受け、とくにガバナンスの有効性は、業績が悪化したときの経営者の交代が的確に行われるかにあるという点に着目し、いくつかの実証分析を行った。

    銀行危機の発生後には、銀行に対するネガティブな評価が増大する中で、メインバンクによるモニターがワークする条件は限定的(Aoki 2001)である点を強調し、規制の存在と銀行の財務健全性(回収の脅威)が有効な機能の重要な条件であるとの見方を示された。メインバンク関係には両面性があり、過剰投資の促進・追い貸しや過剰救済、あるいは逆に貸し渋りや貸し剥しが起こり得る。この見方に触発され、この二面性の存在についても、私は実証分析を行った。不良債権問題が峠を越えた05年以降は、変容した企業・銀行関係をいかに捉えるかについて、青木先生は強い関心を持たれていた。

    銀行危機後、企業統治は大きく変容している。市場ベースの企業金融、持ち合いの解体、取締役改革、雇用システムの改革などによって、これまで、同質的であった統治構造は多様化し、ハイブリッドな構造となっている (Jackson/Miyajima 2007)。青木先生は、このハイブリッドの状況は、A型企業へ向かう収斂過程の一時的現象か、あるいは多様性の出現かという問題を提起され、ハイブリッド構造が持続的に存続するのではないかとの暫定的な解答を示した。そして、この新たなガバナンスの仕組みが安定するか否かは、外部の投資家が経営者の認知資産と従業員の認知資産の結合を適切に評価できるか (External Monitoring of internal Linkage)に、かかっているとの見方を提示した (Aoki 2010)。このExternal Monitoring of internal Linkageの実証が、今後の課題となっている。


    岡崎 哲二 (RIETIファカルティフェロー/東京大学大学院経済学研究科教授)

    経済史を専攻した私は、研究者になる過程でも、研究者になってからも、そのほとんど全てにわたって青木先生の研究姿勢と研究内容から大きな影響を受けてきた。青木先生の最初の著書『組織と計画の経済理論』(1971)は、伝統的なマルクス主義からの決別の書といっていいと思う。このことは、「さして知的な創造力と分析力を要しない怠惰な政治的、教条的思弁は、経済システムの選択にかかわる理論を人間の人間らしいかかわり方を追求するという道徳的権威にではなく、非人間的な政治的権威に従属せしめることにおわるであろう」と、強い言葉で批判されていることからも明らかである。

    社会問題、所得分配に対する関心は一貫してお持ちで、『ラディカル・エコノミックス』(青木編、1973)に収録されているスティーブン・マーグリントの共著論文では、資本主義経済の3つの代表的理論モデル(新古典派、マルクス派、ケンブリッジ派)の特徴を描写されている。この分配理論は、青木先生の独創的な研究の核といえる企業理論に直接つながり、それがさらに発展して、比較制度分析という新たな分野が開拓された。比較制度分析は、経済史の分野にも大きなインパクトを及ぼしている。

    青木先生は晩年、比較制度分析をさらに超えるような仕事に取り組まれていた。歴史的体制移行のゲーム理論的分析"A Three-Person Game of institutional Resilience versus Transition:A Model and Comparative History of China- Japan Revisited" (Aoki, 2015)は、スタンフォード大学病院のベッドの上で最後まで改訂に取り組まれた論文である。ここでは、日本と中国における近代国民国家への体制移行プロセス(明治維新と辛亥革命)を理論的・歴史的に比較し、3人のプレイヤー(支配者、挑戦者、機会主義者)によるゲームの定式化と分析を行っている。

    青木先生の関心・思考の一貫性・連続性、飽くことのない知的探求心と統合・創造能力は、「若き日の心情」に裏付けられていると思う。「産業構造審議会基本問題調査会中間報告書」(1993)を見ても、青木先生の経済学が現実の政策を動かしたことが読み取れる。その後の経済産業政策が制度・構造改革政策としての性格を強めたことも、大きな業績となっている。


    伊藤 秀史 (RIETIファカルティフェロー/一橋大学大学院商学研究科教授)

    30年近く前、スタンフォード大学に大学院生として留学したときに、青木先生には論文指導をしていただいた関係である。その後、私は京都大学に勤めるようになり、スタンフォード大学に客員教授として赴任することもあった。先生は、まさに私のメンターという存在である。

    青木先生の理論経済学者としての貢献として、引用数の多い3本の学術論文は「株主・従業員間の協調ゲームとしての企業モデル」「企業の水平的情報構造と垂直的情報構造の対比」「チームの状態依存型ガバナンス:制度補完性の分析」となっており、基本的には企業理論分野である。青木先生のモデルは、多様性が均衡として出てくるということが重視されているが、多様性は統一的な枠組みの中で出てくるため、いろいろな要素がすでに枠組みに入っているという意味で普偏性の側面もある。

    2000年代以降、一見類似した企業間で生産性の相違が持続しており、それを説明する1つの可能性として、経営慣行 (management practices)が違いを生み出すのではないかと考えられている。そこで経営慣行を体系的に測定するため、スタンフォード大学でWorld Management Survey (WMS)という大規模な調査が行われている。そこには、トヨタ生産システムをベースとした無駄を省いて価値を高める「リーン・システム」が当然のごとく導入されており、80年代に行った青木先生の分析が反映されているわけである。インフォーマルな制度や慣行、信頼、文化などの重要性も、もはや日本に限らず世界で認識されつつある。チームの活用も、欧米で大きく広がっている。

    比較制度分析パラダイムは、青木先生の企業理論分野における理論的貢献を基礎としている。組織アーキテクチャ (OA)&コーポレート・ガバナンス (CG)の連結様式、および政治ドメイン、社会交換ドメインとの補完性は、最近の日本の企業システムの変化を多様性の創発として理解するための手がかりを与えてくれる。地道で厳密な理論・実証研究の更なる蓄積が必要であり、青木先生が我々に残してくれた宿題といえよう。

    ディスカッション

    鶴:それでは、青木先生とのエピソードをうかがっていきたい。

    宮島:青木先生とは、RIETIの研究や世界銀行のプロジェクトを通して、お話しする機会があった。2003年頃には、大磯のホテルで合宿をした。青木先生は、飛行場から大磯に直行されるという強行軍であったにもかかわらず、早速議論に加わってくださった。いかに知的好奇心が強く、エネルギッシュであったかを、あの頃の先生の年齢になった今、改めて思い起こす。

    鶴:私も大磯の合宿に参加したが、議論に対する気迫たるや、かなりのものであった。楽しい思い出である。

    岡崎:2001年当時、RIETIの初代所長に就任された青木先生が人事や組織をデザインされ、霞ケ関に米国西海岸の風を吹き込んだと感じた。クリスマスパーティを開き、スタッフでバッハの教会カンタータ第147番を歌ったことも思い出深い。青木先生の功績は、そういう点でも大きかったと思っている。

    鶴:蝶ネクタイで正装されたクリスマスパーティでの青木先生の姿が思い出される。

    伊藤:通産研からRIETIに移行した初期のプロジェクト「日本企業変革期の選択」に編者として携わった。私自身は、RIETI以前の青木先生とのかかわりの方がより深かったと思う。

    鶴:比較制度分析を発展させる中で、経済学のみならず社会科学の統合化を目指された青木先生の学問的アプローチは、まさに先駆者であり、他の追随を許さなかったと思う。そうしたアプローチや成果は、どのようなインパクトがあったのか。そして今後の学問に、どのようなインプリケーションを与えていくと思われるか。

    宮島:社会学、社会経済学といったVarieties of Capitalismの分野で、青木先生の研究は大きな影響を与えている。1990年代初頭に社会主義が崩壊した後、各国で異なる資本主義の仕組みをいかに理論化するかという研究が進んだ。近年、グローバル化あるいはファイナンシャリゼーションが進展し、マーケットの影響が強まったことから、これまで一線を画していた大陸諸国や新興国がその影響を受けている。その理解が大きなイシューとなっており、とくに欧州の研究者の間で青木先生の論文は頻繁に引用され、その拡張が目指されている。

    岡崎:「制度間補完性が生み出す経路依存性」というアイディアは、アセモグルなどの経済学の研究にも影響を与えていると思う。また、青木先生と一緒に比較制度分析を作ったアブナー・グライフの研究は、経済史研究を変える程の大きなインパクトを持っている。

    鶴:企業内での情報システムにおける青木先生の業績は大きく、かつての日本の産業競争力を決定する上でも影響を与えていると思う。産業におけるコーディネーションや情報の問題をどう考えるかは、なかなか進んでこなかった印象がある。

    伊藤:企業の水平的情報構造と垂直的情報構造の研究は、それ以降の比較制度分析の中でも、必ず最初に出てくる重要な側面を表している。青木先生の研究は、水平的な情報構造を初めて比較モデルの中に入れたということで重要なインパクトがあるが、それは日本企業のさまざまな観察から出てきたといえる。さらに組織の経済学の分野では、垂直的な情報構造と水平的な情報構造における情報やりとりの歪み、つまり組織のメンバーが利害対立からあえて情報を歪めようとする非協力ゲームの枠組みの中で情報を分析するという形で、青木先生の先駆的な研究が拡張されている。もはや、日本型企業と米国型企業の比較として分析されるのではなく、米国であれ、欧州であれ、企業の中で普通に起こり得る重要な問題として分析されるようになってきた。そういう意味で、青木先生の80年代の情報構造の研究のインパクトは、現在でも続いている。また、「株主・従業員間の協力ゲームとしての企業モデル」(1980)は、まだ十分に評価されていないと思う。今後、これをベースに発展させていく余地は大きい。

    鶴:ステークホルダーの議論は、コーポレートガバナンスの中でも重要な意味合いを持つ。青木先生は、その理論化において先駆的な業績を残された。一方で、通常いわれるステークホルダーアプローチとは、企業は株主のものではなく、利害関係者をバランスよく考えるべきという理論であるが、先生は、そう思っていなかったようである。しかし、株主だけのプレッシャーで経営すればいいとも考えていなかった。それが、「状態依存型ガバナンス」に結実していったと理解できる。

    宮島:企業の目的を考える際、青木先生は「従業員の利害と株主の利害のウェイトづけられた最大化」という言葉を使われていた。そのアイディアについて、青木先生の意図されるところを聞く機会を失ってしまったことが悔やまれる。

    鶴:では、「移りゆく30年:比較制度分析から日本の針路」を考えたとき、私たちは何を見て、何をすべきであるか。日経新聞のコラム「経済教室」には、今年も青木先生が正月の第1回に登場された。その回数は、おそらくダントツでトップであろう。つまり、日本経済の遠い将来を展望しながらスケールの大きな議論ができるのは、青木先生を置いていなかったのだと思う。それを、もう見られなくなったのは非常に寂しい。

    岡崎:まず、ステークホルダーアプローチについて補足したい。1980年の青木先生の論文が、まさにステークホルダーアプローチのフォーマルな理論モデルである。労働者のチームは、その企業に固有の能力を持っており、それによって企業の付加価値が上がるため、労働者は文字通り企業にステーク(持ち分)を持っていることになる。だから、そのステークをめぐって交渉が成り立つという考え方を提唱されている。

    青木先生は、最近の論文で進化ゲーム的な発想から再び古典的なゲームの方向へ戻られた。制度が自然に変わるのを待つだけでなく、人為的な大きなインパクトが必要であり、支配者・挑戦者・機会主義者(日和見主義者)の3者のうち、日和見主義者をどう動かすかがキーだというのが、青木先生が最後に取り組まれた論文のコンセプトである。日本経済も徐々に変わってはいるものの、何らかの人為的なインパクトが必要だという青木先生の考え方に私も同意している。

    伊藤:これから先についての話は、なかなか簡単には答えられないが、やはり地道に厳密な理論と実証研究を蓄積していくという、青木先生が我々に残してくれた宿題に取り組んでいくことが必要だと思う。

    日本の全ての企業が理念的なJ企業である均衡と、米国の全ての企業がA企業であるという均衡ばかりを青木先生は見ておられたわけではないと思う。Ⅰ型ハイブリッドやⅡ型ハイブリッドが現れ、3種類の企業が一定割合ずつ存続するという経済システムの均衡もありえるだろう。おそらく米国のほうが、異なる形の理念形が同時に存続するという意味での均衡自体のダイバーシティが日本より強いと思われる。今後、そういった部分を理論的に整理することで、少しは宿題に答えられるような気がする。

    鶴:青木先生が「試行錯誤が大事だ」「実験が大事だ」「RIETIも1つの実験なのだ」とおっしゃった背景には、異なる制度が併存しながら変わっていく中で、時間がかかるという意味も込められていると思う。移り行く30年、40年という中で、日本経済のあらゆる分野を見ても、性急にいろいろなものが一気に変わるわけではなく、行ったり来たりで全然進んでいないように感じる。そこにいら立って投げ捨てるのではなく、まさに辛抱強い気持ちを持ちながら、プロセスの中でやっていくことの大切さを問いかけているような気がする。

    宮島:コーポレートガバナンスあるいは企業システム全体でみると、移りゆく30年の中の大きな節目は、銀行危機のあった1997年だと感じる。銀行危機で初めて大きく変化が生じており、これが戦後の日本の企業システムの歴史におけるおそらく最大の外生的ショックだったと考えられる。その後、2006年頃に構造が落ち着き、さらにコーポレートガバナンス改革が昨年、今年と進んでいる。もしかすると、ここも1つの節目になるかもしれない。変化の形がはっきりわかるには、あと5~10年が必要と見られるが、企業統治の問題としては、1つは、銀行の役割がどういう形で落ち着くかが注目点である。

    もう1つは、External Monitoring of internal Linkageがワークしていくかどうかだ。青木先生は、90年代後半にトヨタが長期雇用を維持していることを理由にムーディーズから格付けを引き下げられたことを「わかっていない」と指摘している。ムーディーズもそれに気がつき後に格付けを戻している。External Monitoring of internal Linkageは、外部の投資家が従業員と経営者の協同のあり方を的確に評価する能力をつけているかどうかがポイントである。日本企業の場合は、株式市場の圧力は、敵対的買収や、介入などの直接の経路ではなく、内部の従業員の経営者に対する同意や協力に影響を与えるという経路で作用していると考えられる。また、これまでサイレント・パートナーといわれていた生保や銀行が金融的パフォーマンスの考慮を強め、責任を持って関与する姿勢を示していることで、External monitorが少しずつ形成されつつあるという見通しを持っている。

    鶴:それは、経営者の認知資産、従業員の認知資産をどう結合するのかという非常に大きなテーマであり、これからの変化の最も重要な部分だと思っている。

    最後になったが、このパネルディスカッションを締めくくるにあたって、私から2点申し上げたい。

    第1は、青木先生がお亡くなりになって痛感するのは、先生は大変大きな存在、まさに、知の巨人と呼ぶにふさわしい方であり、私が見てきたのは青木先生の側面の1つに過ぎなかったということだ。したがって、このシンポジウム、パネルディスカッションも青木先生のごく一部の側面に光を当てたに過ぎないと思っている。この後、中国をはじめ、2015年12月にスタンフォード大学、2016年2月に東京大学において、スタンフォードで直接教えを受けた弟子の方々が中心となる、追悼シンポジウムが開催される予定と聞いている。そこではまた違った青木先生の姿が浮き彫りになるのではと思う。

    第2は、RIETIのシンポジウムである以上、青木先生が3年間で所長の職をお辞めになられたことにも触れないわけにはいかないだろう。私のかつての同僚が「RIETIは追悼シンポを開く資格はあるのか」と言っていたとかいなかったとか伝え聞いたが、シンポジウムを開くこともまたそれを批判することも、両方に対し「まあ、それはそれでいいんじゃないの」と天国でおっしゃっているような気がしている。先生のご著書である『私の履歴書‐人生越境ゲーム』では「私は、本省の『圧力』によってではなく組織に関する『制度観』や『思想』の違いゆえ自ら辞職した」とおっしゃっている。

    個人的な人間関係はともかく、3年間で霞が関の可能性・奇跡そして限界をつぶさに見たということだったと思う。つぶさに見たのであれば留まり続ける理由はない。その意味で、気持ち的にはある種の割り切り、吹っ切れるものがあったのではないか。RIETI10周年記念で青木先生がRIETIで久しぶりにご講演をされた際に、行きと帰りにお供をさせていただいたことがあったが、RIETIが入っている経済産業省の別館に入る際に「ご辞職されて以来ですよね?」と伺ったところ、「そうだけど」とおっしゃる声に、気持ちの高ぶりはほとんど感じられなかったのが印象的であった。普通であればいろいろな思いが込み上げてきて当然だと思うがそれがない。講演の際に、久しぶりに青木先生を見るスタッフがとても緊張・興奮していたのと大変対照的だった。

    RIETIをお辞めになられてからも、私と2人で会う際には「RIETIはどうですか」と聞かれることがたびたびあったが、それは自分がいた時がやはり最高だったろうと念押しするための質問ではまったくなく、単に好奇心で聞かれていたように思う。青木時代、RIETIにいた善玉も悪玉もしょせんRIETIという実験のモルモットではなかったのか。でもそれはそれで大変楽しいひと時であったのではないかと思う。

    青木昌彦先生追悼小冊子