伊藤隆敏先生が9月20日に永眠されました。早すぎる訃報に、まだその現実が信じられません。
私が伊藤先生と初めてお会いしたのは、2000年代初めのASEAN+3のリサーチグループでの研究でした。当時はアジア通貨危機後の域内金融協力推進のために日中韓に加えてアジア新興国の政府関係者や研究者が一堂に会して、さまざまなテーマのもとに共同研究や議論をする場が度々設けられていました。その中でも、米国の大学で学位を取られ、多くの著名な経済学者のご友人を持ち、IMFでの経験など卓越した見識がおありの伊藤先生の存在はひときわ大きく、さまざまな方からコメントを求められていらっしゃいました。アジアを対象とする研究では、その後さまざまな場面で伊藤先生と視察を御一緒させていただきましたが、新興国とはいえ当該国の大臣クラスと面談し、これが最善の道だと確信する政策を率直に意見する伊藤先生の毅然とした姿勢に圧倒されたことを覚えております。アジアへの視察は昨年ご一緒したタイが最後となってしまいました。タイ中銀にはかつて伊藤先生のハーバード大学客員教授時代の教え子で総裁になられたVeerathai氏がいらっしゃるなど、タイ中銀を訪問するときはいつも大歓迎され、昨年はチャオプラヤ川沿いにあるタイの歴史的な建造物でランチを御一緒させていただいたことが思い起こされます。
RIETIでの研究では、日本企業の為替リスク管理とインボイス通貨選択というテーマをもとに、2007年以降企業インタビューやアンケート調査を通じた研究をご一緒いたしました。伊藤先生は1980年代以降推進された円の国際化に政策的にコミットする中で、円建ての利用がなぜ進まなかったのかという問題意識をお持ちでした。「日本の輸出企業はなぜ円建てを利用しないのか、直接話を聞いてみたい」という私の思いつきに、それなら企業にインタビューをすればよい、とおっしゃった伊藤先生の一言からこの研究は始まりました。インタビュー開始当初は、一企業にとっての重要な経営戦略は軽々に話せないなど、面談が難しい局面でも、伊藤隆敏先生がご一緒であればという条件付きでお引き受けいただけた企業もありました。日本の代表的な大規模製造企業23社に面談させていただいたインタビュー調査をもとに書いた私たちの論文は、数は少ないが当時の株式市場時価総額の約7割を占めるサンプルであるということでアカデミックにも認められ、伊藤先生とFRBニューヨークに訪問し、研究報告をさせていただいたことは私たちの研究人生の中でも最も貴重な経験の一つです。その後定期的にアンケート調査をさせていただき、それらの調査結果をまとめた著作『Managing Currency Risk:How Japanese Firms Choose Invoicing Currency』は2019年に日経・経済図書文化賞を受賞させていただきました。
伊藤隆敏先生が国際金融分野における世界的な研究者であり、日本の金融財政政策においても重要な提言をされたことは周知のことですが、National Bureau of Economic Research(NBER)での Research Associateとして、米国で活躍する数少ない日本人経済学者として積極的に研究を行い、多くの研究者を育てていらっしゃったことも大きな功績の一つです。コロンビア大学に移られてからも、米国のアイビーリーグで日本経済に関する研究を続けている希少な日本経済経営研究所(CJEB)において、日本の政財界の要人や企業人を迎えたセミナーや講演会を開催する傍ら、毎年2月ごろに実施されているJapan Economic Seminarでは私たちも何度か研究報告をする機会をいただきましたが、日本のみならず米国の大学で日本経済に関する研究を行っている若手研究者の発掘にご尽力されていらっしゃいました。
伊藤先生との最後の仕事となったのは、一昨年から始まった書籍"The Oxford Handbook of the Japanese Economy"の企画です。これは伊藤先生を含む3名がCo-editorとなり、内外の著名経済学者50名で日本経済に関するハンドブックを執筆しようとするものです。2024年には執筆者が一堂に会してそれぞれの担当章を議論する場として東大で開催されたBook Conferenceでも伊藤先生は精力的に発言され、2026年後半の本の発刊を楽しみにされていらっしゃいました。
私たちはこれまで世界のあちこちで伊藤先生と待ち合わせをして、視察や研究報告や新しい研究のディスカッションをしてきました。伊藤先生の一言にインスパイヤされ、どれだけ多くの研究や研究者が育ってきたことでしょう。現在、日本が直面するさまざまな経済問題は山積されています。私たちが伊藤先生と共に過ごした貴重な体験を心の糧として、真摯(しんし)に、精力的に今後も研究を続けていくことで、最後まで日本経済の研究を世界に発信し続けた伊藤先生に恩返しをしたいと思います。
心からご冥福をお祈りいたします。

