遺伝資源とデジタル配列情報

髙倉 成男
明治大学法科大学院 / 元コンサルティングフェロー

問題の背景:「物」を前提とするABSの仕組みと途上国の不満

ペルー、ブラジル、コロンビア、ベネズエラにまたがるアマゾン川流域に自生する「カムカム」という植物は、古くから地域の先住民に利用されてきたもので、その果実にはレモンの60倍ものビタミンCと大量のポリフェノールが含まれているそうだ(注1)。機能性食品や医薬品への応用も期待されている。しかし、いざその成分を分析して研究開発をしてみようとすると、少々やっかいな手続を踏む必要がある。1993年の生物多様性条約(CBD)の発効により、外国の「遺伝資源」(研究開発の素材として利用する植物・動物・微生物等の生物資源をCBDでは「遺伝資源」と呼んでいる)を利用しようとする場合、事前に提供国の同意を求め、必要な契約を結び、遺伝資源の利用から生じる利益を配分することなどが求められるようになっているからである(図1)。純粋に学術目的の研究の場合も同じである。

図1:ABSの仕組み
図1:ABSの仕組み

この仕組みは「遺伝資源へのアクセス(Access)と利益配分(Benefit Sharing)」の頭文字をとってABSと呼ばれている。ABS(特に利益配分)は、もともと生物多様性の保全に必要な資金を確保する手段の1つという位置付けであったが、途上国はこれを条約の目的と位置付け、1993年以降、期待したほど配分収入が増えないことに不満を募らせてきた。名古屋議定書は、途上国の求めに応えて、ABSの実効性を上げることを目的に2010年に採択された条約で、遺伝資源の利用者が提供国の国内法令を守っているかどうか利用国の政府が確認する義務などについて定めている。

2014年の名古屋議定書の発効でABSの問題は一段落ついたかと思えたが、ふたたび新たな問題が生じている。遺伝資源とは有体物に限られるか、それともその物のゲノム解析から得られた塩基配列データ等の「デジタル配列情報」(Digital Sequence Information: DSI)(注2)まで含む広義の概念かという問題である。この背景には、バイオインフォマティクスの進展により、遺伝資源が物としてではなく、データとして用いられるようになっているという現実がある。利用者としては、素材を使う場合、1つあれば十分だし、データベースを使えば素材はなくてもよい。このため、途上国・提供国は、ABSによる配分収入がますます減少するのではないかと心配している。他方、先進国・利用国は、データへのアクセスや利用にまで提供国の支配が及ぶことを懸念している(注3)。

2つの争点と先進国の見解の不十分な点

具体的な争点は2つある。1つは、条約の文言解釈である。CBD第2条において「遺伝資源」とは「現実の又は潜在的な価値を有する遺伝素材」をいい、「遺伝素材」とは「遺伝の機能的な単位を有する植物、動物、微生物その他に由来する素材」をいうと定義されているところ、途上国は、オックスフォード英語辞典などを根拠に「素材」(material)は「情報」(information)を含むと解釈できると主張している。これに対し、先進国は、遺伝資源は有体物に限られると反論している。しかし、その具体的理由はまだ示し得ていない。

もう1つの争点は、遺伝資源(物)の提供国と利用者が遺伝資源から生成されるDSIの利用から生じる利益の配分について合意した契約に2つの条約が適用されるかである。これについては、先進国には、契約自由の原則から、当事者の合意でその適用範囲をDSIに広げることは特に問題なしとする見解が多いが、果たしてそれで十分か。その契約が利用者に不当に不利益を与えるような特約を含むものである場合、その契約は無効または2つの条約の適用対象外となり得ることを見逃してはならない。

国家の主権的権利はDSIにまで及ぶか?

CBD第15条第1項は、各国は自国の天然資源に対し主権的権利を有すること、遺伝資源は天然資源に含まれること、遺伝資源へのアクセスを規制する権限は当該資源の賦存する国の政府にあることを確認している(注4)。このように、CBD上のアクセス規制は、一般国際法で承認されている天然資源に対する国家の主権的権利に由来しているもので、国際法上正当である。同時に、CBD上のアクセス規制には、遺伝資源の過剰消費を抑制し、その保全と持続的利用に寄与し得る点において一定の合理性もある。 問題は、遺伝資源から生成される塩基配列データ等のDSIにまで国家の主権的権利が当然に及ぶかである。言い換えれば、アクセス規制上、DSIを遺伝資源と同列に扱ってよいかである(争点1)。答えは否である。その理由は、次の通りである。

第一に、DSIは、提供国の領土・領域の内に賦存する天然資源ではなく、利用者の知的活動の結果生成された無体物であって国境の概念を超えたところに存在するものである。物を支配する権能を有する者がそれだけの理由でその物に係る情報を支配する権能まで有するわけではない(注5)。DSIがパブリックドメインに帰すべきものであれば、それを支配する権能はだれにもなく、またDSIが知的財産保護に値するものであれば、それを支配する権能(知財権)はその創作者に原初的に帰属する。いずれにせよ、提供国が利用者によって外国で生成されるDSIへの第三者アクセス(例えば、第三者がデータベースを利用する行為)にまで規制を広げるような法令を制定することに正当性を見いだすことはできない。

第二に、DSIは本質的に情報である。情報は、1人の消費者がこれを消費しても他の消費者の消費量が減少するものではない。DSIに過剰消費の問題は生じ得ず、DSIにアクセス規制を適用することに環境政策としての合理性を見いだすことはできない。むしろ、DSIへのアクセスを自由にすることこそ、遺伝資源の消費を減らし、CBDの主たる目的(生物多様性の保全、その構成要素の持続可能な利用)とも整合的で、政策的に合理的である(注6)。

確かにDSIにアクセス規制を適用しなければ、提供国の収入が減るという問題が生じるかもしれない。しかし、仮に提供国がDSIにまでABSを適用すれば(このことは、データベースの利用者も図1の①~④のような手続を踏むことが求められることを意味する)、世界中の研究者の研究が制約を受け、また利用国の政府のモニタリング負担も増大することは明らかである。利益配分の問題は、その費用対効果をデータに基づき検証しつつ、「環境問題は国際社会全体の問題であってその対策のために必要な資金は国際社会全体で負担する」という原則論に戻って再検討するべきである。

当事者の合意によるDSIへの利益配分ルールの適用に問題はないか?

次に、提供国が利用者に遺伝資源を提供する際、遺伝資源から生成されるDSIの利用から生じる利益の配分について両者が合意した契約に2つの条約が適用されるかという問題(争点2)について検討すると、原則として契約自由の原則から是認され得るものの、提供国が利用者に過度の制約(例えば、遺伝資源から生成される塩基配列データの公表の禁止)を課すような特約を含む契約は、利用者(特に研究データの公開が求められる学術研究者)の遺伝資源へのアクセスの壁を不当に高くし、遺伝資源へのアクセスの容易化のための努力義務を定めたCBD第15条第2項に反する恐れがある。

また、本来パブリックドメインに帰すべきDSIの公表を禁じるような特約は、利用者に不当に不利益を与えるものとして不公正な取引方法(優越的地位の濫用)に当たり、競争法に抵触する恐れがある。もちろん、競争法に違反する特約を含む契約が直ちには無効であるとは言えないが、一定の状況下では無効とされる場合もあることは視野に入れておく必要がある。

日本政府に求められること

CBD交渉を担当する日本政府の担当部局には、2つの争点への対処に当たって上述したような理論的補強と慎重な対応が求められるところであるが、それに加えて今後の南北間の交渉を適切に進める観点から、DSIに係る途上国の能力構築や利益配分の減少への対策のために、世界銀行の「地球環境ファシリティ」(GEF)やCBDの「生物多様性日本基金」等の拡充または使用目的の見直しについてさらに積極的対応を取ることが求められる。

また途上国にDSIの自由化を求めることとのバランス上、先進国にもDSIの知財保護の在り方について見直しを行うことが求められる。特に日欧では遺伝子が特許対象とされているが、近年、コンピュータやデータベースの利用によって塩基配列の決定から機能推定までほぼ自動的に行われるようになっており、情報の過少生産の問題は小さくなっているので、特許保護を制限すること(具体的には進歩性判断の厳格化)こそ、政策的に合理的ともいえる。

このことも念頭に置きつつ、また世界知的所有権機関の遺伝資源等政府間委員会(WIPO-IGC)における「法的文書」の作成動向にも十分注意を払いながら、塩基配列データ等のDSIへのオープンアクセスについての国際合意の実現に向けて総合的・戦略的な対応を取ることが望まれる。

脚注
  1. ^ 渡辺順子「第3章2 機能性食品・健康食品素材としての遺伝資源の利用」(財)バイオインダストリー協会生物資源総合研究所監修『生物遺伝資源へのアクセスと利益配分』130-140頁(信山社、2008年)。なお、ペルーでは、一次産品としてのカムカムは、1999年から輸出禁止品目に指定されている。
  2. ^ この用語についても論争がある。一部の途上国は「遺伝情報」「自然情報」とさらに広くとらえることを主張し、日欧等は「遺伝配列データ」に限定することを提案している。本稿ではとりあえず、CBD会合で使用されている「デジタル配列情報」の用語を用いることにする。
  3. ^ 主要国の見解は、https://www.cbd.int/dsi-gr/2019-2020/submissions/ 参照。
  4. ^ 磯崎博司「第1章3 CBDで使われる用語、基本条文の説明」前掲1、39頁。
  5. ^ 最高裁昭和59年1月20日第二小法廷判決(顔真卿自書中告身帖事件)。
  6. ^ DSIの利用の促進がCBDの目的と整合的であることを指摘する論考として、井上歩「産業界から見た生物多様性条約の下でのデジタル配列情報の議論について」学術の動向(2018)23巻、9号、74-79頁。

2020年6月24日掲載

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