『サピエンス全史』から考えるルールとイノベーション

池田 陽子
コンサルティングフェロー

ルールがイノベーションのスピードに追いつかない?

火の利用・文字の発明から始まった人類の進歩は、18世紀の最初の産業革命を経て、現在、第4次産業革命のまっただ中にあり、人工知能、ロボット、IoT、3Dプリンター、ナノテクノロジーといった先進技術(Emerging technology)に基づく新しい製品・サービスが、次々と生み出されている。

これらの製品・サービスの普及は従来の産業の在り方やわれわれの生活をより良く変える可能性がある一方、新規性が高いほどこれまでとは異なる安全リスクや不確実性が課題となりえ、社会実装に当たって既存の制度(Institution)、特に規制ルール(Regulation)との関係が議論となる。すなわち、既存の規制ルールの適用性の判断が困難であったり、そもそも適用される規制ルールが存在せず、新製品・サービスのスムーズな市場への導入が妨げられることが課題となる。さらにグローバル市場を前提とすれば規制ルールは国ごとに異なり、状況は一層複雑となる。こうした中、そもそも都市インフラや関連する制度・規制ルールが整備されていない新興国においては、そうであるからこそ逆に、新しい製品・サービスが先進国の歩んできた技術発展の段階を飛び越えて広まる現象も見られる(リープフロッグ型発展)。

このように、既存の規制ルールがデジタル時代の新しい製品・サービスの市場導入に対応できていない点について議論が高まり、世界各地で理論的・実践的にさまざまな試みが進められているところだ。

『サピエンス全史』が与える示唆

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(Harari, 2014)1では、伝説や神話にとどまらず、制度や法律、そして国家そのものなどは「フィクション」であり、現生人類(ホモ・サピエンス)の繁栄の鍵はこのフィクションを作り出し、信じる力にあったとされる。一般的に制度や規制ルールは国家単位で規定されるものであり、各国の社会的・文化的な背景に根差して経路依存性を有するといった特徴があるが、『資本主義の多様性―比較優位の制度的基礎』 (Hall and Soskice, 2001)2においては、1990年代の急速なグローバル化を背景に、資本主義の多様性を論じる中で、特定の活動を有利な制度のある国へ移転するという、制度のアービトラージ(さや取り)を行っている多国籍企業の存在が指摘されている (典型例としては、企業が租税負担を軽減するために、税制優遇措置のあるタックスヘイブン国に拠点を移すことが挙げられる)。企業による制度のアービトラージは、さらなるグローバル化と第4次産業革命の進展する今日にも当てはまり、今後一層活発化していく可能性がある。

企業活動から国家の在り方へと視点を移すと、『国家はなぜ衰退するのか──権力・繁栄・貧困の起源』 (Acemoglu and Robinson, 2013)3において、国家の長期的発展の成否を左右するのは、規制ルールの在り方を含む、政治経済的な制度の違いであることが示されている。『企業家としての国家 -イノベーション力で官は民に劣るという神話-』(Mazzucato, 2015)4によれば、イノベーション主導の経済成長のためにまずは国がリスクをとり、積極的な役割を果たすことが重要との主張がある。現に、第4次産業革命の進展の中で、各国は、企業誘致策などを通じて、自動運転や空飛ぶ車など、先進的な製品・サービスの社会実装に一層注力しており、さながらグローバルな制度間競争の様相を呈している(Economist, 2019)5

『サピエンス全史』にのっとって言い換えれば、企業はアービトラージによって有利なフィクションを選ぶことができるのであり、逆に国家はいかに選ばれるフィクションを提示できるかが重要になる、ということではないだろうか。とはいえ、ルールとイノベーションのバランスの図り方について唯一解が存在しているわけではなく、ルール形成と一口に言ってもさまざまなツール、そしてそれらの有機的な組合せが有用となりえ、それこそがまさにルール形成を「戦略」たらしめていると言える。従って、自動運転、無人航空機(ドローン)、空飛ぶ車、シェアリングエコノミーなどの第4次産業革命を代表する国内外の事例についてケーススタディを重ね、検証を行っていくことはひとつの有効なアプローチになるだろう。

世界初の装着型サイボーグロボット「HAL®」の場合

拙稿「イノベーションを社会実装するための国際ルール戦略」では、サイバーダイン社が開発した世界初の装着型サイボーグロボット「HAL ®」の事例を取り上げている。HAL ®は、脳・神経科学、ロボット工学、IT、システム統合技術などを融合した新しい学術領域(サイバニクス)から生まれ、まさに第4次産業革命を代表する製品である。医療や福祉の現場から、工場での重作業支援、災害時のレスキュー活動支援までさまざまな用途があるが、特に市場の失敗を前提に安全性の確保が命題となる医療・福祉向けのメディカル・ヘルスケアロボットに焦点を当てている。HAL ®は当初より国内外での迅速な市場導入が目指されてきたが、イノベーション・ライフサイクルの初期(産業黎明期)にあること、また世界初の裏返しとして、安全性評価に関する先例や新医療機器承認取得に伴う臨床評価法、新概念の技術の社会実装に精通した人材が存在していなかったことなどから、市場導入に至る過程は簡単なものではなかった。

HAL ®のケーススタディを通じて、まず、安全性を確保して迅速な市場導入を実現するために既存の制度・規制ルールをグローバルに比較した上での最適化戦略(制度のアービトラージ)がとられた点に着目する。次に、個別の規制ルールが存在しない場合には、海外連携による実証推進、国際戦略総合特区や国家戦略特区での実証を通じて体系的な安全基準作りを進め、企業自ら国際標準(ISO)のルールメーカーとなった、一連のルール形成プロセスに注目する。

グローバル競争の中で選ばれる「フィクション」とは

国家はいかに選ばれるフィクションを提示できるかとの問いに対して、万能策があるわけではないが、いくつかの政策的インプリケーションがあるので紹介したい。

まず、ガバナンス論の観点からは、先進技術の発展するスピードは極めて速く、適切な規制ルールを事前にかつ包括的に整備することが困難と考えられる中、少なくとも、制度設計やガバナンスの在り方として、柔軟性(Flexibility)や変化への適応力(Adaptability)、敏捷性(Agility)が重要となることはひとつの共通認識となっている。

また、第4次産業革命の下、単体のモノが価値を生み出す時代から、モノ同士あるいはモノと人とのつながりといった複数の要素が組み合わさってシステム化し 、新たな価値を生み出す時代を迎えている。こうした中、製品やサービスの設計・運用、またそのためのルール形成についても、コンポーネントベースからシステム・アーキテクチャベースで思考することが一段と求められている。

ルール形成プロセスにおいては、主体的なルール形成のための組織化の動きが見られるとともに、ベンチャー企業等のロビイング活動を支援する事業者・法律家、企業内の公共政策部門が存在感を示すなど、プレイヤーの広がりが見られている。官民の共創領域が拡大する中、イノベーションをけん引する企業が、ルールメーカーあるいは制度のアービトラージの主体として力を発揮するための官民連携の在り方については、今改めて検討が必要になりそうだ。

参考文献
  1. ^ Harari, Y. N. (2014). Sapiens: A brief history of humankind. Random House.
  2. ^ Hall, P. A., & Soskice, D. (Eds.). (2001). Varieties of Capitalism: The Institutional Foundations of Comparative Advantage. OUP Oxford.
  3. ^ Acemoglu, D., & Robinson, J. A. (2013). Why nations fail: The origins of power, prosperity, and poverty. Crown Books.
  4. ^ Mazzucato, M. (2015). The entrepreneurial state: Debunking public vs. private sector myths (Vol. 1) . Anthem Press.
  5. ^ The Economist. (September 12th, 2019). Flying taxis are taking off to whisk people around cities.

2019年10月16日掲載

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