わが国においては、1958年に国民健康保険法が制定され、国民はいつでもどこでも保険医療を受けることが可能となり、国民は医療を受ける機会を平等に保障され、大きな恩恵を受けてきた。しかしながら、人口動態の変化・医療のニーズの増加・多様化・高度化などの要因のために近年、国民医療費が増加の一途を辿っており、2016年度は42兆円[1]を超えるまでになっている。さらに、人口の高齢化や医療の高度化によってさらにこれらが急増することが予想されている。現状の仕組みのままでは皆保険医療制度の維持が困難になるだろうと予想されており、医療費構造の改革が大きな社会的課題となっている[2]。
これに対応するためには、医療資源の効率的な利用が必要不可欠となっており、患者ばかりでなく、健康な人間を含めた日本人全体の健康状態を長期的に観察する必要がある。例えば、ある病院で、A型の患者が多く、AB型の患者数が少なかったとしよう。これから、A型はより病気になり易いとの結論することは出来ない。なぜなら、母集団(日本人全体)においてA型が多く、AB型が少なければ、A型の患者が多くAB型が少ないのは当然である。しかしながら、健康な人間は自主的には病院へ行かないため、通常その健康状況を調べるのは困難であり、諸外国の例をみても多額の費用をかけて調査を行ってきているのが実情である。
健康診断とレセプトのデータ
わが国では40歳以上の労働者は労働安全衛生法に基づく定期健康診断(特定検診)の受診を義務付けられており[3]、患者のみならず健常者を含むデータがすでに存在する。健康保険組合連合会、全国健康保険協会、共済組合の加入者等を併せると数千万といったこれまでに分析されたデータとは比較にならない大きさのデータがすでに存在する[4]。しかも、健康保険組合等には各医療機関からレセプトが毎月送られてきており、診療行為、診療費、薬剤費等の支払いに関するデータを保有している。すなわち、これまでの研究とは、桁違いの大きさの(健常者を含む)データがすでに存在することになる。現在の自由診療制度のもとでは、患者は自由に病院を選ぶことが出来るので、病院はその患者が他の病院で受けた治療内容を知ることは出来ない。「おくすり手帳」等の制度はあるものの、すべての医療情報をカバーしているわけではない。つまり、健康保険組合等はその構成員の健康状態と医療・診療行為の両者のデータを保有している唯一の機関であることになる。しかしながら、これまで健康データは有効利用されておらず、法定保存期間の5年を過ぎると多くが破棄されてきたのが実情である。
われわれの研究チームでは、RIETIにおける研究プロジェクト「エビデンスに基づく医療に立脚した医療費適正化策や健康経営のあり方の探求」(研究代表者:縄田和満)を2年ほど前に立ち上げ、医療資源の効率的な利用方法に関する分析研究を行っている。まず、いくつかの健康保険組合から提供されたデータに基づき、特定検診・レセプトのデータを統合したデータベースを作成した。その分析結果は、すでに、数本の研究論文が学術誌に掲載された他、2編のRIETIディスカッション・ペーパー[5][6]を発表している。以下、これらについて簡単に述べる。
生活習慣病の分析
主要な研究内容は次の通りである。まず、生活習慣病(糖尿、高血圧、脂質異常、高尿酸血)の医療費への影響についての分析をいくつかのモデル(データは多くの0、すなわち、その年度に医療費を使わなかった個人を含み、また、少数の個人が多額の医療費を使うという右側に裾の厚い分布であるため、べき乗変換トービット・モデルと呼ばれるモデル)を用いて分析している。対象者が生活習慣病を有する場合、予想通り、医療費が高くなることがほとんどのモデルにおいて認められた。また、生活習慣病の患者がその治療薬を服用している場合においても医療費が高くなっている。「糖尿病」の場合、他の3つの生活習慣病より医療費が高くなる傾向が認められた。さらに、これらの患者が「脳血管疾患」、「心血管疾患」、「腎不全・人工透析」を既存症として有した場合、特に医療費が高額になることが認められた。特に、「糖尿病」を含む複数の生活習慣病を有し、かつ「腎不全・人工透析」である患者の場合、医療費は著しく高額になり、平均でも100000点を超え、健常者の13.6倍もの水準となる場合があることが示された。医療資源の有効な利用のためには、生活指導等を通じた生活習慣病の防止と共に、早期治療の実施により生活習慣病患者がより重篤な疾患となるのを防ぐための施策の重要性を見出している。
高血圧の新ガイドライン(2017ACC/AHAガイドライン)に関する分析
高血圧に関して、2017年11月にAmerican College of Cardiology(ACC), American Heart Association(AHA)および他の9機関が合同で、高血圧の新ガイドライン(2017ACC/AHAガイドライン)[7]を発表した。それによれば、高血圧症の基準はこれまでの140/90mmHgから130/80mmHgへと変更されている。このため、ガイドラインの変更が適切であるどうかについての血圧と医療費の関係についての実証分析を行った。血圧の分布に影響する要因の分析を重回帰分析によって行った。血圧には、年齢・性別・身長・BMI(body mass index)・いくつか生活習慣が影響していることを見出した。次に、べき乗変換トービット・モデルによって医療費と血圧の関係を解析した。医療費と収縮期血圧(最高血圧)との間には、単純な2変数の間では正の相関関係があるものの、べき乗変換トービット・モデルでは有意な負の関係がある、すなわち収縮期血圧が高いほど医療費が少ない傾向があることが見出された。年齢、性別、BMIを説明変数に加えた場合、収縮期血圧の推定値が負となり、説明変数間の関係を考慮した分析の重要性が示唆された。この本研究の結果は2017 ACC/AHAガイドラインは少なくとも収縮期血圧の影響に関しては支持せず、心臓血液等の循環器系疾患に留まらない、他の疾病を含む広範囲の疾病に関する研究のレビュー、費用対効果や新規研究の必要性があることを見出している。ヨーロッパ・カナダ・日本等では新基準に従わず[8]-[10]、これまでの基準を使用するとしているが、この問題に関しては今後も十分な注意を払う必要がある。
今後も、引き続き、より多くの健康保険組合の協力を仰ぎ、長期間に渡る対象者の健康状況の推移などの分析を行う予定である。この研究が、医療資源の効率的な利用、医療保険制度の在り方といった点において貢献できれば、幸いである。